№2769 「よん・さん・とお」復刻版 読んでみた 6.東海道本線・東京口
結構間が空いてしまったが、「よん・さん・とお」の時刻表から50~60年くらい前の鉄道事情を読み解く…と書いてしまうと大げさすぎるが、シリーズ6回目は、東海道本線です。と言っても今回は、我が街戸塚を中心とした、東京発着がほとんどになってしまうが。
「よん・さん・とお」というと東北方面に目が行きがちだが、東海道本線東京口でも、特に優等列車は割と変化がありました。まずは東京駅を出発する東海道本線の優等列車(特急・急行)の時刻を、前年・1967(S42)年10月1日改正と、「よん・さん・とお」(1968(S43)年10月1日改正)で比較してみます。
(毎日の運転が確約されている定期列車のみ書き出した)
「よん・さん・とお」までは、「第〇××」と「××〇号」が併用されていたが、この改正で「〇号」に統一されている。
東海道新幹線が開業して3~4年経って、当然昼行特急は皆なくなっているが、急行は割と残っていて、しかも30番台と特急並みの列車番号の長距離急行が、かなり走っていた。「よん・さん・とお」ではさすがに削減されているものの、それでも東京を昼前に出発し、九州内では2ルートに分かれて西鹿児島を目指す急行が残ったのは、現代の感覚では信じがたい。夜を迎えるのは大阪を過ぎてからで、西鹿児島までは、鹿児島本線経由の〔霧島〕が25時間15分、日豊本線経由の〔高千穂〕が28時間15分かかった。停車駅も特急並みだったし、米原が通過だったのが意外。〔霧島〕には食堂車が連結されていたが、寝台車は〔霧島〕〔高千穂〕両方ともなかった。
急行〔紀伊〕は、紀伊勝浦行の他、鳥羽行と、さらには関西本線経由の王寺行(奈良から普通列車)の連結もあった。
「よん・さん・とお」で廃止になった列車で注目されるのは、米原経由金沢行の急行〔能登〕。関西本線経由の〔大和〕と併結ではあったが、東海道本線経由で北陸へ直通する列車が、これでなくなる事になった。福井~金沢間は信越本線経由上野発着の急行〔越前〕が残るが、敦賀に関しては、今週土曜日に北陸新幹線が延伸開業すると、56年ぶりに東京への直通列車が走る事になる。
寝台特急は、博多行〔あさかぜ〕が1往復増発になり、6往復体制となった。まだ全てが九州行。
特急はまだだが、日中は伊豆方面へ向かう急行〔伊豆〕が、〔あまぎ〕も統合して、定期6往復体制となった。また、御殿場行〔ごてんば〕が新設になっている。昼行電車急行でも、大垣だ名古屋だまで行く急行が走っていた。この他ここでは書き出さなかったが、季節運転の〔おくいず〕があり、さらにのちの上野東京ラインを先取りするかのような、平(現いわき)~伊豆急下田・修善寺間急行〔常磐伊豆〕が、平発土曜日・平行日曜日に運行されていた(交直両用急行型が、伊豆急行や伊豆箱根鉄道に乗り入れていた)。
次に、東京駅を出発する東海道本線の時刻を書き出します。当時は横須賀線も、東京~大船間で線路を共用していました。
これも、基本的には毎日運転の列車のみです(一部休日運休、逆に休日運転の列車も入れている)。初列車が早くて4時台だった(今は品川始発)。
のちの「大垣夜行」→〔ムーンライトながら〕につながる夜行はともかく、5時19分発の普通列車321Mも大垣行、というのが、今の感覚では信じがたい。大垣まで8時間21分かかり、大垣では西明石行の普通列車に接続していた。静岡で14分、豊橋・名古屋で9分などの停車時間はあったが、尾張一宮での臨時急行〔ながさき〕(東京7時25分発長崎行)以外には退避はなかった。電車列車だが、何を使っていたのだろう?111・113系ではないだろう。バリバリ現役の80系?当時「青春18きっぷ」があったら、垂涎の的、か?
ちなみに、今週土曜日の改正ダイヤにおいては、東京5時20分発に乗ると、沼津・静岡・浜松での乗り換えはあるが、浜松からは新快速(土休日特別快速)になり、大垣着は11時47分で、2時間近い短縮。
さらに、朝ラッシュ時の上り、東京着7時30分~9時30分の、熱海→東京間の時刻を書き出してみました。
(網掛けは休日運休 品川・新橋は、東海道本線は着、横須賀線の列車は発の時刻)
東京7時30分着〔あさかぜ1号〕~9時30分着〔あさかぜ3号〕の間の2時間は、完全に通勤電車のみの到着になっています。本来はこの位の時刻が夜行列車の到着には理想のはずなのだが、この後のブルトレ全盛期~全廃に至るまで、この2時間の枠がきっちり守られてきました(だから現代の〔湘南〕が7時台後半・9時台前半に東京駅地上ホームに着くなどとは、コロナ禍の副産物だろうが、時代が変わったという印象)。
東海道本線の列車は、保土ケ谷はもちろん、当時は戸塚も通過だった(というのが戸塚に長年住んでいるものとしては隔世の感)。さらに朝方は川崎も通過になっていた。都心方面への通勤は、横須賀線と京浜東北線にお任せ、という事だったのか。横須賀線が品鶴線にルート変更・東海道本線から分離→総武快速線と直通運転、を開始するのは、12年後の1980(S55)年10月1日です(東戸塚駅は、この時に新川崎駅と共に開業した)。この時点で東海道本線も、普通列車は川崎に全て停車。
ここでは書き出さなかった列車としては、修学旅行専用列車というのもありました(一般の人は乗れない列車だと思うが、なぜ時刻表に掲載されたのか)。東京・品川発着では6往復の設定があり、特に〔わこうど〕は東京~下関間、〔わかば〕は東京~明石間の夜行でした。当時の修学旅行事情はわからんが、少なくとも飛行機で海外へ、などという時代では間違いなくないし、新幹線も一般的ではなかったはず。〔わこうど〕もさすがに全区間乗り通す学校はなかったと思うが、深夜の停車もあり、急行型と同じボックスシートだから、大変な旅行だったろうねえ。
首都圏の関連線区では、横須賀線の日中の久里浜発着の区間運転は横須賀折返し、東京行へは横須賀での乗り換えだった。
横浜線は、日中は磯子~八王子間が約20~30分間隔、これに新幹線2次アクセスという事か、東神奈川~小机間の区間運転も設定されていた。
相模線はまだ非電化(電化は平成になってから)、それでも非電化路線としては、比較的本数が多かった。茅ヶ崎~寒川・西寒川間及び原当麻~橋本間の区間運転が多く、当時は、厚木付近は利用の底になっていた事が窺える。当然海老名駅もなかった。
伊東線・伊豆急行は、普通列車もほぼ全て1等車連結。
のちに1往復体制になって廃線を迎える清水港線は、当時は朝夕に4往復の設定があった。
飯田線は、当時は中央自動車道がなかったから急行も全区間に渡って多数の設定があり、特に辰野側は新宿発着の急行〔こまがね〕が3往復設定されていた。うち1往復はDCで、全区間電化されているのに不思議と思われるだろうが、当時は篠ノ井線が非電化で、長野から直通する急行〔天竜〕も3往復DC、うち1往復が、飯田線内で〔こまがね〕と併結運転だった。飯田線のDC急行も、現代では想像が難しい。豊橋側の〔伊那〕は3往復中2往復が名古屋発着、1往復は名古屋~上諏訪間の運転だった。
次回は、東海道本線・山陽本線の大阪付近を中心に見る予定。
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東日本大震災から13年経ちました。毎年の事だが、私の立場としては、亡くなられた方々の冥福を祈る、としか言えません。今年は能登半島地震もあり、近頃は千葉県で地震も頻発しています。地震そのものは地球に住んでいる限り逃れる事はできないが、せめて少しでも被害が少なくなるような方策を、人任せでなく、自分で考えたいものです。私も含めて。
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