№2709 大正の名残 いまも

 今日は休日だったので、撮影に出かけてきました。

1東急多摩川線.jpg
 と言っても今日は大した事はなく、東急多摩川線の風景を撮ってきただけでした。これは再来年の自作カレンダーの素材を作るためでした(休みが少ない一般の勤め人だと、休みの日が必ず晴れるわけではなく、撮れる時に撮っておかないと、カレンダーの制作に間に合わない)。数枚撮った中から、これは沼部~鵜の木間の1000系(1500番台)だが、手前には彼岸花。そしてピンクの花は…、何と言うんだろう?花の知識がほとんどないのは、自分でも悲しいです…。

2沼部駅遠望.jpg
 この場所は、沼部~鵜の木間のほぼ中間だろうと思うのだが、ここへは沼部駅から来ました。沼部駅の蒲田よりには、東海道新幹線と在来線の高架橋があり、在来線は1980(S55)年より走り出した横須賀線の他、近年は湘南新宿ライン、そして相鉄直通が走っています。
 正式には東海道本線の別線で、元々は貨物専用でした。「品鶴線」(ひんかくせん)と呼ばれていたものです。
 沼部駅から、この高架橋の真下を抜ける時、何気なく橋桁をみると…。

3目蒲電鉄橋梁プレート.jpg
「目蒲電鉄」!?

 目蒲電鉄、正式には目黒蒲田電鉄は渋沢 栄一らを発起人として作られた鉄道会社で、、1923(T12)年3月11日、目黒~多摩川(開業当時も多摩川だった)~蒲田間が開通。その後1939(S14)年に東京横浜電鉄に吸収合併され、さらに1942(S17)年には「大東急」の一路線となります。その後平成の世になって多摩川で系統が分断され、目黒側は目黒線となって東横線をサポートする幹線として地下鉄への直通を行うようになり、蒲田側は多摩川~蒲田間の折り返し運転となります。
 一方の「品鶴線」は、1929(S4)年に開通したそうで、その時点では、下を走る鉄道はまだ目黒蒲田電鉄でした。
 目蒲線の鉄道会社が東横、東急と変わっても橋梁の名前が変わる事はなく、1987(S62)年にJR東日本の路線となっても、平成から令和の世になった今も、なおも大正時代の鉄道の名前を、今に残し続けています。でも、現代の人々にはこの名称、どう映るのでしょうかねえ。
(なお東海道新幹線は、下河原高架橋と称している)

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 JR西日本は今日3日、芸備線・備中神代~備後庄原について、再構築協議会の設置を国土交通大臣に要請したと発表しました。この区間はもう数年前から存続が危ぶまれる状態にあるとされているが、別添えの資料を見ると、特に東城~備後落合間は1日当たり平均11人しか乗客がいない(2019(H31~R元)年度)とされていて、小型バス1台でさえ、空気輸送になる数字です。広島県知事は廃止を認めない方針であるように感じられるが、では何か、状況を好転させるだけの方策を持ち合わせているのか。協議会が開催された場合、どの方向に向かうのか、備後落合で接続する木次線などと合わせ、その行方は大いに注視される事になります。「赤字路線」だから、という報道が多いが、額だけで言えば、もっと赤字額が多い路線はいくらでもあります。やはり「輸送密度」「収支係数」で見るべきではないか。
(この区間は、来年乗る予定にしています)

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