№1396 思い出の海外旅行クロニクル 20.2003年ポルトガル 1
「思い出の海外旅行クロニクル」、今回は欧州大陸の西の果て、ポルトガルです。私としてはやや異例だが、年明けの1月の旅になりました。
このポルトガル旅行については既に、昨日再公開した本体の「ポルトガルのバス 2003」上で、PDFファイルで記しています。私が所属している海外鉄道研究会の会報に寄稿したもの(亡くなられた長真弓さんの依頼で書いたものでした。読み直してみると、テキストの記述法は、長さんの影響をかなり受けている)で、鉄道を中心に、ポイントごとにまとめて記したものです。
ここでは改めて時系列どおり、日本出発から帰国まで旅の全体を、やや短いが5回に分けて書きたいと思います。
ポルトガルは1996(H8)年、2度に渡って訪れています。どちらも欧州全体にまたがる旅のルートに組み込んだもので、ポルトガル単独は初めてでした。過去2回は訪れていない、テージョ川の南も訪れています。
また、2年前に貨幣が流通したユーロ(€)を、今回初めて使う事になります。
2003年 1月10日(金)
今回はパリ経由、往復ともJALのB747-400です。成田空港までは京急と京成を乗り継いで行きました。
7時前、青砥駅の高架ホームから仰ぎ見る朝日。冬の朝はさすがに遅い。ポルトガルはもっと遅くなるのだが。
第2ターミナルのJALチェックインカウンター。前年にJASとの経営統合が決まり、「Arc of the Sun」の新デザインも発表になっていて、カウンターにもロゴが掲げられていました。
パリ行JAL415便。JA8921。サテライトのD96番スポットに、既にスタンバイ。
遠くにはJAAのB747クラシックの姿が。
定刻10時に出発。「パリは曇り時々雪」のアナウンスに、「雪だって!」とオバサマ方がどよめく。
タキシング。新カラーのA300-600Rが現れた。まだJAS便としての運航でした。
R/W34Lからテイクオフ。貨物地区を見下ろす。
牛久駅上空を通過し、右手には筑波山。隣の女性2人組は「富士山」とかのたまっていた。何を寝ぼけた事を。イタリアの情報誌を読んでいた。
離陸から10分で小山上空。
定番のオツマミ。
離陸後、1回目の食事。洋食は、チキンのコルドンブルーがメイン。
キャビンの様子。
映画「K-19」。
ゲーム。「インベーダー」だ!
(若い人には解るかな?)
日本海を越えて、離陸から2時間でアムール川。川というより、真っ白な「雪原」?
パリが雪だというなら、シベリアは当然ガチガチ。
でもキャビンの暖かさに浸っていると、外気温-65℃が信じがたい。
JALのキャビンでは、手作りのマップにルートを記し、ギャレー付近に貼ってある事が多かった。クラシックからの伝統なのだろうか。「MAGIC」機だからシートテレビでもルートは表示されるが、この心遣いには温かみを感じる。
この日は北のルートを飛行、ウラル山脈上空は通過しない。
リフレッシュメントの菓子パンとコーヒー。
到着前、2回目の食事。パスタグラタン。
ストックホルムのアーランダ空港。前回のノルウェー旅行の時は、ここから帰国の途に就きました。成田離陸から10時間弱。
すぐ真下、AYのA320が見えました。ジリジリと追い抜いて行く。
アナウンスでパリまであと1時間と告げられるが、同時に「パリは-3℃」とアナウンスがあると、キャビンは再びどよめく。
オランダ・フローニンゲン上空。オランダも真っ白。
CDG着陸。サァッと雪煙が上がる。パウダースノーだ。
それにしても、ターミナルが遠い。10分以上走って、まだが見えてこない。ようやく、もう1機JALのB747-400がターミナルFにいるのが見えたのに…。
なんとターミナルに背を向け、オープンスポットに着いた。日本発欧州路線で、降機にバスを利用するのは、今回が初めての体験になりました。外に出るとさすが-3℃。やはり寒かったです。
左はAF。右はレバノンのMEA。
バスで2~3分走って、ターミナル到着。
リスボン行が出発する、F26番ゲートがあるフィンガー。カーブがかかった、ガラス張りの屋根が印象的。ゲートの境界がないので、相当広々見える。
リスボン行AF1924便。A320-200。
搭乗はスムーズだったはずだが、何故か20分以上の遅れで出発。
タキシングの最中、コンコルドを見た。現役のコンコルドを見るのは、これが最後になりました。
R/W09Rからの離陸は、例によって待たされました。出発から35分かかってようやく離陸。CDGは平行滑走路が2組あって成田より遥かに広いのに、どうしていつもこんなに離陸まで時間がかかるのだろう?
A320のキャビン。
機内食は欧州内路線のナローボディ機にしては意外にもホットミール、魚がメイン、ライスが添えられている。比較的長距離だから?食後は少しウトウト。時差が…。
夕暮れ時の、エストレーノ山脈。南側がオレンジ色に染まっています。これから、列車からも見る事にもなります。
着陸間近、リスボン上空。街明かりが美しい。
到着は定刻より28分遅れ、さらに増幅してしまった。CDGの「渋滞」がたたったか。
到着ロビー。ポルテラ空港は首都の空港ながら、ターミナルは成田やCDGに比べたら小ぢんまりした感がありました。
ポルテラ空港は1996(H8)年7月10日にも降り立ち、バスで市中に向かっています。あの時はミニバスだったが、大型のノンステップバスにグレードアップしていました。渋滞に悩まされつつ、中心部のロシオに着いたのは、もう19時を回っていました。
ホテルに投宿するが、明日は土曜日で、朝食は7時30分になるそう。翌日はテージョ川を渡ってバレイロから列車に乗るプランなので、どうしようか。
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2003年 1月11日(土)
考えた末、翌朝は朝食を食べずにホテルを出発、テージョ川を渡るバレイロ行フェリーの乗場(テレイドロパソ)へ向かいます。それにしても朝がとても遅い。7時を回って、ようやく東の空がボンヤリと明るくなってきました。
このフェリーは鉄道の連絡船、という訳ではないようで、鉄道のパスでは乗れません。1.05€(≒135円)。
テージョ川にかかる、4月25日橋。
8時になってようやく朝日が昇り、リスボンの町をオレンジ色に染める。航行時間30分でバレイロに着きます。町の中心から離れているのか、案外殺風景な場所。
バレイロからの鉄道は、当時は電化されていませんでした。ファロ行IR871列車はDL牽引で客車4両。その車内。
しばらくは複線区間が続く。ただ、信号機は少なく、列車の本数はそれほど多くはなさそうだ。
セトゥーバルからは架線が見られるようになるのだが、まだ電気運転は行われていないようでした。この後、あっちこっちと電化の単線の合流・分岐が繰り返されるようになる。貨物専用路線?
グランドゥーラから先は、あちらこちらで線路が新線に切り替わり、旧線の跡が見られるようになる(左手の鉄橋もそう)。新線は架線も張ってあるし、どうやら南部では総合的な改良工事が進行中のようでした。この時点では、エルミダス・サドまで。
オレンジの三角屋根と白い壁の民家が印象的な、山間部の農村地帯が続きます。
バレイロから4時間半でファロ駅。駅そのものは田舎っぽいが、高層ビルも遠くにいくつか見られ、思ったより都会っぽい。列車は引き続きヴィラレアル・デ・サン・アントニオ行となって、すぐに出て行きました。
ドン・フランシスコ・ゴメス広場。
ラゴス行ローカル列車。客車2両。トゥネスまでは今乗ってきた区間を戻る事になります。普通列車だと思うのだが、いくつか駅を通過して行く。停留所然として、停車がない所もあるようだ。ローレまではノンストップでした。
ローカル列車の車内。ガラガラ…。
という訳で、メガネをかけたひげの太った車掌は、列車走行中は知り合いらしき女性とひたすらオシャベリ。IRでもそうだったが決まった車掌の居場所がなく、ドアは手動、放送設備もない旧型車両だから、異常がなければ他には仕事がないって事でしょう。
シルヴェスでファロ行と交換。向こうも客車2両。
終点のラゴス駅。ファロから1時間半。大西洋に面したビーチリゾートらしいが、何しろ真冬なので観光客は少ない。だからだろう、駅も市中も、ホテルの客引きがしつこい。この日の泊りはYHと決めていたから、全部振り払って足早になる。
そのYHは空きがあったが、朝食タイムが何と朝9時~11時。これでは8時の出発には間に合わんと持ちかけると、出発の時に朝食のパックを渡してくれる、と言ってくれました。
美しいヨットハーバー。中心部は道がクネクネ曲がり、石畳という事もあって、車だと走りづらいはずだ。
さて困った事に、YHの部屋は暖房がなくて寒い。レセプションに聞いても、毛布で調節してくれというだけ。幸い部屋は他に誰もいないから、毛布を3枚被って早々床につくが、良く眠れるかどうか心配…。
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《今日のニュースから》
8日 「或る列車」運行開始 大分駅でセレモニー
9日 日本バスケットボール協会制裁解除 国際バスケットボール連盟が正式決定