№1162 思い出の海外旅行クロニクル 9.1997ギリシャ6
ブルガリアもルーマニアも、列車で走りたかったのに…。列車乗継は断念し、ソフィアから空路で移動する事になります。しかし、全く予備知識がないブルガリア … 列車乗継による通過しか考えていなかったから … 、先はどうなるのか、少々不安な旅の最終盤。
ソフィアからの空路については№186で少し書いたが、改めて、もう少し詳しく記したいと思います。
1997年12月20日(土)
明るくなって、改めてソフィア駅です。
フライト事情は全く解らないが、とにもかくにも空港へ移動。タクシー利用。他に空港アクセスがあるかどうかなんて知らないし、とにかく早くソフィアを後にしたかったから。
市中心部は、ギリシャの各都市に比べると、整然とした印象を与える。しかし、ダンキンドーナツやKFCの看板も見えたりしました。
市中で見かけたトラムは、皆古い。
空港へ向かう通り。を行き交う車は、なんだか5台に1台はタクシーを名乗っているように見えた。
幸い空港15分程度で着きました。米ドルが通用し、20USD。
ブダペストへのフライトは、ちょうど出発したばかりだった。この後もブダペストへのフライトは見当たらない。どうしよう…。
待てよ、ウィーンへ行くフライトは結構あるみたい。ウィーンさえ行ければ、ウィーン~ブダペスト間はなんとでもなる事は、昨年の欧州一周で解っている事。よし、ウィーン経由で行こう、と、直近で航空券の購入が可能な、バルカン・ブルガリア航空(LZ)461便(ウィーン経由アムステルダム)の利用を決定。
ブダペストよりウィーンへ行くフライトの方が多いとは、少々意外。
ターミナル内はご覧の通り、狭いし薄暗いし、航空券の発券カウンターも、「カウンター」というよりは「窓口」のような雰囲気で、日本などの西側先進国の空港のようなフレンドリーさは正直感じられません。
ウィーンまでは218USD、C/C払いで、帰国後の請求では29,361円でした。やむを得ないとはいえこの支払は本当にきつかった。
でもチェックインカウンターのおばさんの応対は良かったです。「Have a nice flight.」の一言は素直にうれしい。
搭乗口付近の待合室も狭いです。ボーディングブリッジはなく、バスでの移動。国際線用の搭乗口は6つだけだったみたい。滑走路を見る事が出来るが、発着便数はあまり多くなさそう。
出発時刻の10分前になって、ようやくバスで移動。この時点で、どの形式に乗る事になるか解らなかったが、どうせなら旧ソ連機に乗ってみたいなあ、とは思っていました。ほとんど機会がないし。
一方でB767などの姿もありました。アメリカあたりに行く便でもあったのだろうか。
おお、バスはTu-154の脇に停車しました。 ラッキー?
コクピット付近の窓の形状とか、垂直尾翼から鋭く突き出たアンテナ?が旧ソ連機らしい。
胴体の真ん中から登場します。席に落ち着くと、ピッチは狭い。背もたれが前にバタンと倒れるのが珍しく見えた(軍事輸送を考慮しているとも聞いたが、真偽は?)。あと、ベルトサインはどこ?
荷物の積み込みでさらに時間を食って、所定の10時30分より40分近く遅れて出発。あれ、非常時のセーフティインストラクション、やらなくて良いのか?
ターミナルを離れるとあたりは真っ白。視界が悪い。
滑走路の端(R/W09だった)まで来ても、日本のような、まもなく離陸のアナウンスとかはない。
離陸すると、白い平原の背後に山々がそびえて、雄大な眺めだ。ジリジリ高度を上げていく。町も見えてくる。白い平原の中に、固まって形成されている。モノトーンの世界だ。
その先は、こんもりした山々を越えていく。
残念ながら、この先は雲の中に入って、窓の外は真っ白になってしまった。幸い揺れはなし。
改めて、Tu-154のキャビン。古びているのはまあ想像通り。トイレは鍵をかけても明るくならない。
コクピットはドア開けっぱなし。当時としても、大丈夫?とか思った。
透明なプラスチックのパックで配布された機内食はちょっと意表を突かれた。でもハム中心の軽食は、西側と差はないと思いました。ブルガリアと言えば「ヨーグルト」。アプリコットだったが、舌触りが日本と比べるとあっさりした印象。
1時間30分弱のフライトで、ウィーン到着。ターミナルからは遠く離れた場所に着いて、ここもターミナルまでバス移動。
ウィーン・シェベヒャート空港のターミナルは、ソフィアの空港とか、ギリシャの駅を見てきた身には、とてつもなく斬新に見えました。
バルカン・ブルガリア航空はこの4年後に運航停止に追い込まれ、ブルガリア・エアが後を継ぐ形になります。
シェベヒャート空港は、当時は空港アクセス鉄道が整備されていなくて、市中までは空港バス。70ATS(≒770円)。シティターミナルからは地下鉄で西駅へ。
ウエスト駅からのEC63列車。フランクフルト始発。DBの客車はとにかくモダン、ギリシャとは根本的に違うと思わされました。
オーストリア/ハンガリーの国境通過は昨年も経験していて、他の西側同士とは違って厳しいなあとか書いたはずだけれど、それでも前日のギリシャ/ブルガリアに比べたらはるかにスムーズでした。
もちろん食堂車も、きちんとした食堂車でした。ハンガリー行なのだからグヤーシュを食べたかったのだが、売り切れ、だって。オムレツ。
ブダペスト・ケレティ駅には18時頃の到着。もう真っ暗。雨模様。
当初のブルガリア・ルーマニア経由のプランより、3時間30分早く着きました。ただ、やっぱり列車乗継でたどり着きたかった…。
時間に余裕ができたので、ブダペストの地下鉄に乗ってみました。
2号線・3号線どっちだったっけ?はっきり旧ソ連製。加速が凄かったです。
これは1号線。屋根に手が届きそうなくらいで、日本のリニア地下鉄以上に狭い。車両も工事の作業用車両というイメージ(黄色という事もあるし)。これでも架線集電式だったりする。
日本出発前に予約しておいたホテルに投宿。TVをつけたら、ギリシャとインドネシアで航空機事故が起きたらしい…。
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1997年12月21日(日)
何やかやあったが、とにもかくにも、いよいよ帰国。飛行機でまたウィーンまで戻って、今度はそのままオーストリア航空便で成田に向かいます。
フェリヘジ空港へ行くバスはデアーク・フィレンツェ広場から出発。広場までは地下鉄で移動する必要があります。座席が17しかないミニバス。運賃600HUF(フォリント。≒340円)。
フェリヘジ空港ターミナル。ソフィア程ではなかったとは思うが、やはり古めかしくて、あまりフレンドリーな感じではない。
それでも、出発ロビーに飾られたクリスマスツリーが目を楽しませてくれるのでした。
チェックインカウンター。
搭乗口。狭い。ソフィアよりは広かったけれど。
ウィーン行OS804便は、系列のチロリアン航空(現オーストリアン・アローズ)VO804便のコードシェア運航。DHC-8-Q300。
バスで移動して搭乗。DHC-8は全シリーズを通じて初搭乗。
定刻に出発。
すぐに離陸。雲海に突っ込んで、何も見えなくなる。下層の雲海を抜けると上も雲が広がるが、やがて青空になりました。
所要時間わずか1時間弱ではあったが、ちゃんと機内サービスもありました。
キャビンの最前方が向かい合わせになっているのが、物珍しく感じられました。
機内食も出たけれど、左側のケーキ2つの方がメインに感じられた。
40分強のフライトでウィーン・シェベヒャート空港に着陸。ものすごく視界が悪い。
ここもターミナルから離れた位置に着き、バスで移動。
今回は成田行への乗り継ぎ時間が30分しかなく、あわただしくターミナル内を移動。
成田行OS555便が出発する、A2搭乗口。さすがに新しくてモダン、ソフィアやブダペストとは比べ物にならない。ただ、搭乗待合室に入る前のチェックが意外に厳しく、ピピピピ赤外線探知機の警報音がやかましい。
息つくヒマなく搭乗。今回はOS便名で搭乗しているが、ANAコードシェアも行っていて、ポケットにはOSと共にANAの機内誌も入っていたし、当時はANAのCAが3人乗務していました。壁にはクリスマスの飾り付け。
ここは定刻より10分遅れて出発。相変わらず視界が相当悪く、先に離陸していく機体が滑走路を離れるのが見えないほどだった。
離陸してほんの数秒で、地上が見えなくなってしまいました。しばらくは雲の中の飛行で窓の外は真っ白だが、2分程で抜けると、いきなり強烈な陽射しが差し込んできました。
しばらく飛ぶと雲海は消えて、雪原が広がる。チェコかポーランド?
A340も初めてだったのだけれど、当時はまだ真新しかったし、インテリアがオシャレな感じ。
ストウェージから展開されるTVでNHKニュース(日曜昼の録画)を見ていたら驚いた、伊丹十三監督が飛び降り自殺!?
上昇中からサービスが始まり、ANAのCAが重そうにカートを押し上げながら、ドリンクとオツマミのサービスに回っていました。
離陸後、最初の食事。
冬場となると夜の訪れは急で、離陸から1時間程度でいきなり暗くなります。大都市の街明かりは島宇宙、西へ行くジェット便は流れ星のよう。
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1997年12月22日(月)
映画を見て、しばらく眠って、目覚めるともう朝。朝食のサービスが回っている。間もなくシベリア脱出、という頃。
朝食。
ひたすら白と黒のモノトーンだったシベリアから、いよいよ日本海へ。絶壁という感じ。
ついに日本。こちらも真っ白な上越の山々。
成田へのアプローチ。九十九里を見て右旋回。
成田空港着陸。
最後に、このOS555便では機体そのものを撮る機会を作れていなかったので、参考までにこの旅の直前の11月22日に撮影した、今回搭乗したフリート、A340-300(OE-LAK)の画像を掲げておきます。
何とか日本に帰って来れました。
後1回、ギリシャOSEの鉄道車両と、アテネの駅(ラリッサ・ペロポネソス)をご覧頂いた後、当時のギリシャの鉄道の印象を記して、終わりとします。
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