№929 思い出の海外旅行クロニクル 5.1995年イタリア 7<終>
イタリアはいよいよ最終日。
メインは「ディレッティシマ」を突っ走る高速特急ETR。
そしてミラノ中央で乗り継ぎ、再びチューリヒに戻る…のですが、自ら大事件を招き、長旅を台無しにしてしまう事になるのです。
ミラノ行高速特急、ETR450。
やっぱり古めかしい印象は、もはや否めない。
※この画像は、11月28日に撮影したものです。
ローマ・テルミニ9時45分発ミラノ中央行、P502列車の指定券。
車内は2等車でも2-1配置の3列。
でも車内も古めかしい。
車内アナウンスは伊英の2ヶ国語でした。
ミニバー。
高速新線「ディレッティシマ」に入るとグングン加速、やはり日本の新幹線のよう。
違うのは一般の列車も走る事で、途中で普通のICとすれ違ったりしました。
車窓。
どこか東北新幹線にイメージが似ているように思えたのは、気のせいだったでしょうか。
ミラノ中央は3分早く着きました。
さて、ミラノ中央駅では数日前に、一時預かりに不要な荷物を預けていました。
すぐ接続のチューリヒ行IC536列車の座席にバッグを置いて一時預かりに向かい、戻ってくると…。
ない!
バッグがない!
何と、置き引き!
駅の係員に告げて一緒に見てもらった所、別の乗客が、「数人のグループがバッグを持っていった」…だって。
確かに、ここはイタリア。
最大限油断せずに事を進めなければならない所。
しかしまさか、既に他の乗客が座って待っている車内で起こるとは、正直思わなかった。
まして、別の少し離れた場所には日本人のグループも見えたので、油断が生まれてしまったのだろう。
このバッグの中にはカメラ(2台所持していたうちの高い方)や、使用済みのフィルムなども入っていました。
今回の「クロニクル」で、特に後半は写真がほとんどなくなったのは、こういう理由があったからでした。
一応、警察には届けたけれど、帰ってくる望みは、ほぼ100%なし…。
この列車は見送らざるを得ず、次のICでチューリヒに向かいます。
食堂車で夕食を食べたりしたけれど、真っ暗になってしまった事もあったが、何だかほとんどやる気がなくなってしまった。
とはいえまだ帰国前だし、何もかも失った訳ではないと自らを奮い立たせました。
チューリヒは土曜の夜で寂しいはずだったのに、なぜかホッとさせられました。
もちろんミラノの一件が起きたばかりだったし、それまでのどこか騒然とした空気もあったイタリア各都市と比べての事だったかも知れない。
ホテルでは何もやる気が起きず、すぐ寝てしまいました。
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1995年12月 3日(日)
帰国便に乗る日になりました。
チューリヒ・クローテン空港からアムステルダム経由のJAL412便に乗るが、夕方の出発になるので、それまでの間は、空港の展望デッキで過ごす事としました。
天気が良くなかったし、前日の事もあって、街歩きという雰囲気にはならなかった。
ここではもう一台のカメラを使って、旅客機をかなり撮りました。
実はこの日の事は、翌年以降の海外旅行のプランニングや行動に影響を与える事になりました。
展望デッキは入場料2SFR、有料はともかく、手荷物検査を受けなければならないのが、日本と違って厳しい。
R/W16から離陸する旅客機。
この空港のR/Wは10-28、14-32、16-34があり、南からの風が強いと14着陸、16離陸が通常のパターンらしい。
今はなき、スイス航空。
DC-9やMD-81が中心。
撮影した旅客機の画像から、数枚御覧頂きます。
スイス航空 B747-300
長距離国際線路線用だったが、既に主役はMD-11に取って代わられつつあった。
(日本路線もMD-11になっていた)
エル・アル イスラエル航空 B757-100
驚かされたのは、スポットインに装甲車が帯同していた事。
テロを相当恐れているようです。
この後、他の欧州の空港でもエル・アルを見る機会があったが、皆同じでした。
JATユーゴスラビア航空 DC-9
旧ユーゴ解体により、現在はセルビアのJAT航空。
エミレーツ航空 A300-600R
当時はまだ、中東の一新興エアライン、という位置づけに過ぎなかったと思います。
ブリティッシュ・ミッドランド航空 B737-300
このキャリアの便でチューリヒに着いた訳だが、真夜中で真っ暗だったから、どんなデザインだったか解らん、という方々も多いでしょう。
当時は、こんな色でした。
ガルフ航空 B767-300ER
バーレーンのエアライン。
このチューリヒ・クローテン空港での旅客機ウォッチング&撮影は、後の私の海外旅行に影響を与えました。
「海外で旅客機を撮影する」事が、プランニングや、旅行中の行動に組み込まれる事が多くなったのです。
空港で購入した絵葉書から。
カラベルが並んでいて、ターミナルも古い。
絵葉書もう1枚。
スイス航空の主要フリートの写真です。
スイス航空は後に経営が破綻、子会社のクロスエアが吸収する形で、「スイス・インターナショナル・エアライン」と変わる事になります。
チューリヒ空港のカウンター。
JL412便は、アムステルダムまではKL306便のコードシェア。
コードシェアといっても今とは多少性格が違い、以前JAL自体が運行していた成田~アムステルダム~チューリヒ便の欧州区間を、KLMに肩代わりして運航させていた、という言い方が正しかったと感じられます。
JAL412(KL306)便が出発する、E08ゲート。
JALの職員による、日本語のアナウンスもありました。
搭乗が始まると、ボーディングブリッジにはJALの機内誌「WINDS」や朝日新聞の衛星版も並び、この点も今のコードシェア便とは異なる所。
乗員自ら実演する、離陸前の非常デモ。
救命胴衣の使い方はやらなかった。洋上飛行がないルートだから?
機内食は短距離という事もあってか、クロワッサンサンド(ハムかチーズの選択)とドリンク。
その後にクリームのパイのサービスもありました。
飛行中は少々天候が悪く、どこをどう飛んでいるのかは良く解りませんでした。
アムステルダムに向けて降下が始まると雲が切れ、下界の街明かりは島宇宙のよう。
定刻より心持ち早く、E2ゲートに到着。
その直前、成田行のMD-11を見ました。
降りると、プラカードを掲げたお兄さんが日本語で、東京行はE8体と教えてくれました。
改めてKL306便、B737-300。
折返しもJALコードシェアでチューリヒに戻るようで、日本人が何人か待っていました。
JL412便が出発するE8の隣のE9はKLMのテルアビブ行だったが、空港の職員?警備?が全部の乗客を並ばせ、一人一人に色々質問をさせています。
荷物検査も、相当厳しそう。
チューリヒのエル・アルを思い出しました。
(これがあるため、当時はどの航空会社もテルアビブ行だけ、チェックインの締切を他の路線より大幅に早くしていた。今もそうだろう)
半年前にも乗った(№894で書きました)、JL412便・MD-11。
今回はJA8582で、ウィングレットには丹頂鶴が描かれていました。
同じ時刻ながら、半年前と違って、もう真っ暗。
キャビンはガラガラ。窓際ではあったのだけれど、隣に女性がいたので、出発直前に後方の席に移動させて頂きました。
離陸すると、街明かりが美しい。
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1995年 12月 4日(月)
飛行中のキャビン。
離陸後の食事。
牛フィレ肉 ロベールソース(又はかじき 照焼ソース)、フレッシュサラダ 柚子風味ドレッシング、アプリコットタルト、ロール バター、日本風味、コーヒー・紅茶・緑茶。
機内で見た映画が、「アポロ13」。
人気作品だけあって、真夜中ながら見ている乗客が少なくなかった。
東行はあっという間に真っ昼間になり、既に日本海上空。
到着前の食事。
プレーンオムレツ・ソーセージ・ポテト/トマト、フルーツヨーグルト、アップルコンポート、モーニングロール・バター/ジャム、コーヒー、紅茶、緑茶。
半年前とほぼ同じですかね。
雪の上越国境。
成田に向け、降下が続く。
霞ヶ関と、手前の陸上競技場のようなトラックは、JRAの美浦トレーニングセンター。
日本時間で15時を回って、成田に着陸。
貨物専用のB747(塗装を省略したポリッシュドスキン)を見かけました。
理由はちょっと解らなかったが、30分程の遅れで成田に到着しました。
これで、今回のイタリア旅行は終わりました。
御覧頂いたように、最後の最後でドジを踏んで、トホホな結果に終わってしまいました。
その事が、今回の記事の作成にも響き、非常に見辛い物になってしまった事は申し訳ありません。
改めて振り返ってみると、それ以前にも「バッグのベルトが壊れた」「会社からの支給品を紛失した(もちろん始末書もの)」「寝坊して列車に乗り遅れた」など、あまりにも様々なミスが多く、これが積み重なった結果、最悪の事態を招いたように感じます。
当時のイタリアはトリノ→パレルモ間のような長距離夜行が相当あり … 新幹線が整備される前の日本の在来線も、あんな感じだったのでしょうかね? … ホテル代を浮かしたいがため、夜行を最大限活用すべく南へ北へ、相当ドタバタした行程になった事が伺えると思います。
この事も、結果的に疲れを増して、油断を招いたのかな、とも思いました。
これを教訓として、この後の海外旅行は、若干方向性が変わってくる事になります。
といってもこの後も、大小さまざまなヘマをちょくちょく起こす事にはなるのですが…。
イタリアの鉄道自体は、やはりそれまで行った北部のフランスやドイツ、スイス等に比べると若干見劣りするのは事実だったかなあ。
ダイヤも確かに大幅な遅れも少なくなく(決して全部ではない。早着もあったし、「アバウト」という事だろう)、車両の質も落ちるなあというのは、当時の正直な実感でした。
乗務員の制服も、ファッションの国にしてはダサイなあとか思ったし。
(この後変更されて良くなった)
とは言え、北部ヨーロッパとは別の意味で車窓は美しいし、ローカル線の旅も楽しいものでした。
スイスに負けず、個性的な私鉄が多数走っているのも魅力的です。
FSも、年を追う毎に良くなっていきますし…。
イタリアは、この5年後(2000(H12)年にまた訪れます。
今回は訪れなかったマテラやソレント、サルディーニャ島、さらに今回は乗れなかったフランス国境の山岳ローカル線なども訪れる事になります
決してイタリアに悪いイメージはなく(肌に合わない部分は多々あったのは事実だが)、もう少し腰を落ち着けたプランを組みさえすれば、イタリアの旅も楽しいものになるはず、と思いました。
これまで5回の欧州旅行は周遊型だったが、次の旅行は縦走型になります。
次回の「クロニクル」は来月、1996(H8)年7月のポルトガル・カスケイス→ノルェー・ナルヴィクの、西から北への旅について書きます。
(ミラノも2回経由します)
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