№621 福知山線事故 一審判決

 今日から年末年始の旅行について書く予定でしたが、1回飛ばします。

 2005年4月26日に発生した福知山線脱線事故で、業務上過失致死の罪に問われていたJR西日本の前社長に対し、一審で無罪の判決が出ました。
 これで確定になるとは思えず、高裁、場合によっては最高裁まで裁判がもつれる事になるのでしょう。
 私は関係者でも被害者や遺族でもないし、デリケートな問題なので第三者が突っ込んでは言えません。
 ただ、別に社長の弁護をする訳ではなく、鉄道会社のトップだったから事故に関する社会的な責任は厳しく問われなければならないのですが、では一人だけに刑事的な罪を被せて刑を執行しても、じゃあそれでイコール鉄道の安全性が向上、という訳ではなく、根本的な解決にはならないと思います。
(昨年のJR北海道の社長の自殺もそうです)
 もちろん被害者感情は理解するし、日本ではどんな業界のどんな事故であれ、個人的な断罪が行なわれないとよしとしない風潮があり、とりあえずトップの罪を追求しなければならない、という事はあるのでしょうが。
 まして「鉄道先進国」のはずが、21世紀に入ってまで、なんで事故で100人も命を落とさなければならないのよ、というのも正直な印象でしたから。
 JR西日本という会社の姿勢は問題だというのはその通りとは思いますが、それなら尚更個人を糾弾するのではなく、では会社組織のどういう部分が問題だったのか、会社の風土のどこをどう変えなければならないのか、その部分を考えなければならないと思います。
 私は、これは会社組織全体のモラルの低下が招いた問題で、経営も労働者も関係なく、一致団結して改善しなければならない事だと思っています。
 この部分で海外はどうなんだろう、例えば1998年に発生したドイツのICEの大事故の時はどんな論調が展開され、当時のDBの幹部などの責任の追及はどう行なわれたのか、そして事故の教訓はどう生かされるのか、その点を知りたい、とふと感じました。

 ここからは№507の繰り返しになりますが、ご了承下さい。
(そこでもこの事故に間接的ながら関わる裁判の判決について書きました)
 事故の直後からしばらくは、ジャーナリズムは大小様々、大事な事も、実はどうでもいい事も根掘り葉掘りやって報道合戦を繰り広げていました。
 でも、「実はこうだった事が解かりました」という言い回しが昔も今も多いけれど、例えばこの惨事にしても、何も事故を起こした電車だけが突然暴走した訳ではなく、よくよく読めば以前からスピードオーバーが日常茶飯事だったなんて、かなりあからさまに目の前に見えていた事ではないですか?
 なぜ誰もそんな事が解からないまま、事が起きてから大騒ぎするのか?
 中国など他国で何か惨事が起きると「日本ではありえない」という論調ばかりで、それで何かあると「何を今更」的な話ばかり。
 今回の事故 … だけじゃない。福島第一原発事故もそう … は、JR西日本だけでなく、日本のジャーナリズムの体質をも問われていたのではないかと感じます。
 ひょっとしたらこうしている今も、原発事故さえかすむような大事故の芽が、私たちのすぐ目の前に見えているのかも知れません。
 朝鮮半島の国家の新体制を面白おかしく書くのもいいけれど、もう少し足元を真剣に見て欲しいと思います。
 少なくともジャーナリズムの立場にある者は。

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《今日のニュースから》
社員食堂レシピ本ヒットの「タニタ」 丸の内にレストラン開店

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