バンクーバー・オリンピックも終わり、テレビもようやく通常の編成になって…昨日の津波は今朝まで引きずりましたが…、いつもの生活リズムが戻ってきたような気がします。
この春はJR・私鉄ともお別れの車両が多く、今日取り上げる阪急でも昨日を持ってついに6300系が京都本線の特急から撤退(これは同時に阪急から2ドアの特急がなくなった事をも意味する。)、一つの時代が終わったという感がします。
今日の「私鉄の車両シリーズ」は、その6300系と同期の通勤車、6000系です。
6000系は、1976年~1980年及び1985年に合わせて130両が製造された、神宝線(神戸線・宝塚線)用の通勤車です。
2200系の車体と5100系の走行システムを組み合わせた系列で、後に2200系を編入して140両の世帯となりました。
まず6000系のベースとなった2200系ですが、同系列は電機子チョッパ制御の長期試験車として1975年に8連×1編成が製作されました。
正面は行先・種別表示幕を最初から設け、標識灯・急行灯は窓下に設けて阪急電車の新しい顔になりました。
スカートも初めから設けられています。
側面は当初は乗務員室の直後には窓がなく、初めて「H」マークが取り付けられました。
運転台もワンハンドルマスコンを初採用。
1985年の増備車2両はVVVF制御の長期実用試験用です。
2200系はあくまで試験車輌だったため、量産車としては5100系の走行システムを採用した6000系が製作される事になりました。
車体は2200系と同じですが、側窓自動昇降装置は設けられていません。
車内は木目の化粧版の濃緑の座席という、阪急伝統のインテリアが引き続き踏襲されています。
第一次の8連の内、6560・6570の2両は、阪急初のアルミ車体になりました。
塗装されているので、他車との区別はつきません。
後に6両をアルミ車体で製作、車輌を交換してアルミ車同士で編成を組んでいます。
以降は普通鋼製ですが、後継の7000系で本格的にアルミ車体が採用されます。
神戸線には6連+2連が投入されて、6連は1998年2月まで山陽電鉄須磨浦公園への直通運用にも当たっていました。
宝塚線には8両固定編成が投入されています。
1995年の阪神大震災において、2200系が大きな被害を受け、廃車も発生したため、残りの9両を全てTc・T化のうえ6000系に編入、さらに代替の新造車を加えました。
後に神戸線については本線の6連運用の廃止により編成替えが行われ、今津(南)線・甲陽線ワンマン運転のため3連を組成し、残りは今津(北)線で運用されています。
また、7000系の編成に組み込まれた車輌も存在します。
宝塚線は引き続き急行・普通等各列車で運用。
いずれも後に車体上部が白く塗られ、先頭車では、乗務員室横に小窓が設けられるようになっています。
その部分あった「H」マークにかわり、1992年9月制定の新マークが、各車輌の戸袋付近に書き込まれています。
なお、最近になって更新工事が行なわれているようです。
2200系の車体を引き継いで製作された6000系は、スタイル的には阪急電車に新味を与えるものになりました。
しかし、チョッパ制御は阪急としてもまだ時期尚早だったのか、5100系の抵抗制御をそのまま取り入れているため、システム的には多少古さも感じさせます。
1979年デビューの7000系より、いよいよ阪急も本格的なチョッパ制御の時代を迎える事になります。
【編成】
←梅田・今津方 宝塚・西宮北口方→
*Mc 6000* - T 6550 - M'c 6100 ※今津南線・甲陽線ワンマン編成
*Mc 6000* - M' 6500 - T 6550 - T 6550 - T 6550 - T 6550 - *M 6600* - M7c2 6100
* パンタグラフ
今回の記事は
「私鉄の車両5 阪急電鉄」(保育社 ※現在はネコ・パブリッシングによって復刻 ↓)
「鉄道ピクトリアル1989年12月臨時増刊号 【特集】阪急電鉄」(鉄道図書刊行会)
「鉄道ピクトリアル2000年12月臨時増刊号 【特集】阪急電鉄」(鉄道図書刊行会) 等
を参考にさせて頂きました。
「阪神大震災」という言葉が出てきましたが、次回の当シリーズは、震災復興でデビューし、去年から近鉄直通に抜擢された、阪神のステンレスカー・9000系です。
申し訳ありませんが、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。(名前は公表しません。)