№86 JASフリートの16年・そして思い出

 昨日はお休みしてしまいましたが、一昨日の「JTB時刻表大研究 2004年」の十大トピックスの中で、「日本航空・日本エアシステム 完全経営統合」を挙げました。
 日本エアシステム(JAS-Japan Air System)は、1988年4月1日、東亜国内航空(TDA-Toa Domestic Airlines)から改称し、2004年3月31日をもって、日本航空との完全統合により日本航空ジャパン(JAL-Japan Airlines Domestic)となるまで16年間存在した、日本の航空会社です。
 TDAは、1985年に国内幹線・国際線の進出が本格的に認められるまでローカル線が中心で、結果的にフリート構成がJAL・ANAとはかなり異なるものになりました。
 それは、JASになっても引き継がれていきます。
 ここでは、JASの16年間に在籍したフリートを、一部個人的な昔話も交えつつ、デビュー順に振り返ってみます。
 なお、JASになった後、地方自治体との合弁による日本エアコミューター(JAC)、北海道エアシステム(HAC)が設立されていますが、ここではJAS本体のみに絞ります。

YS-11
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(1965~1996)
 ご存知の通り、今の所日本唯一の国産旅客機です。
 母体となった東亜航空(TOA)、日本国内航空(JDA)時代から使用されていた機体で、合併後のTDAでは1機毎に日本の地名をつけていました。
 当時の地方空港はジェット化が進んでおらず、TDA時代は東京(羽田)~女満別線という、所要3時間以上の大変な路線にも就航していました。
 社名変更後も、ジェット機の就航に制限があった大阪(伊丹)空港発着のローカル路線を中心に活躍していましたが、MD-87就航後は老朽化やJACへの路線移管もあって、急速に数を減らしていく事になります。
 JASでは東京(羽田)~南紀白浜線が最後の就航路線でしたが、南紀白浜空港のジェット化により、1996年3月8日を持って引退しました。
 東急の「電車とバスの博物館」に機種部分が保存されて、シミュレーターとして公開されています。

 JASのYS-11には、1995年11月7日、南紀白浜→東京線386便で搭乗した事がありました。

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 ジェット化前の南紀白浜空港ターミナル。
 ターミナル、といっても、ゴルフ場のクラブハウスのような平屋建て。
 羽田や関西空港が東京・新大阪駅ならば、ここは地方ローカル線の急行停車駅のような風情。


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 羽田からYS-11が到着しました。
 雨が降っていたのですが、ここはボーディングブリッジどころかバスすらなく(必要なほど大きくはない)、タラップを降りた乗客は傘を借りて、ターミナルまで歩いていきます。
 ちなみに後で知ったのですが、秋篠宮殿下が(お忍びで)搭乗されていたらしいです。


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 羽田に向かう機内。
 さすがに古さは隠せないですね。
 でも、所要時間が長かった事もあって、距離の割にはゆったりしたサービスが楽しめたと思っています。


 
DC-9-41
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(1974~1997)
 TDAでは1971年にB727-100を就航させましたが、本格的なジェット機はこの機体になりました。
 A300導入まではTDAの顔となります。
 A300導入以降はローカル線中心の運航になりました。


A300B2K
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(1981~2006)
 ローカル線中心だったTDAとはいえ、幹線もある程度の便数を運行するようになっていた事、ローカル線でも一部は需要が伸びていた事で、いよいよワイドボディ・ジェットの導入になりました。
 とはいえ、就航する空港は地方が中心になるので、多少短い滑走路でも離着陸できるよう、「クルーガー・フラップ」を装備したB2Kというモデルになりました。
 また、カラーリングはエアバス社のサンプル・カラーがそのまま採用され、以降TDA~JASのカンパニー・カラーになります。
 JA8472は「フレンドリー・バード」になっています。
 こちらをご覧下さい。


DC-9-81
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(1981~1999)
 DC-9の胴体延長型。
 本来は次のMD-81と同型と扱われるのですが、JASではコクピットの違いから、別の機種として運用していました。
 ただし、時刻表上では区別がつきませんでした。
 JASでは21世紀を迎える事なく、姿を消しました。


MD-81
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(1985~)
 DC-9-81の追加発注ですが、この頃にはダグラスがマクドネルとの合併でマクドネル・ダグラスとなっていた事で、機種名も変わる事になりました。
 ただ、JASでは前述の通り、DC-9-81とは区別して運用されていました。
 
 それから、3機が「ハーレクイン・エアライン(HLQ)」に移籍し、うち1機(JA8552)だけ、同社のオリジナルカラーに塗り替えられました。
 HLQは本来はチャーター便専門のエアラインとして設立されたのですが、MD-81はJAS本体から受託した路線を運航していました。

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 主に福岡空港発着のJAS路線に就航していたようです。
 MD-81の方は、JAL統合後も全機が引き継がれ、一部はさらにJALエクスプレス(JEX)に移管されています。
 ただし、B737-800導入により、2010年度までには退役が進められる事になっています。


A300B4
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(1986~2006)
 B4はB2の出力増強型。
 需要の増加により、A300は増機が計画されましたが、この時点では新造ではなく、中古機を集めてフリートに加える事になります。
 写真のJA8277は、元々はシンガポール航空機で、ハパグロイドを経由してTDAに加わりました。
 JASは社名変更直後の1988年7月、初の定期国際線となる東京~ソウル線を開設、JA8263と、写真のJA8277が使用されました。
 B2K、B4共一部はJAL統合後まで使われたものの、新JALカラーにはなりませんでした。
(座席備え付けのセーフティ・インストラクションのイラストでは新JALカラーになっていましたけれど。)

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 2004年9月12日のJAL1211便(東京(羽田)→青森線)搭乗時の撮影。
 セーフティ・インストラクションは、600Rとは違う物が備え付けられていました。



MD-87
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(1988~2007)
 JASになってからは初の新機種。
 MD-81の胴体短縮型で、離着陸時の騒音を抑えられるため、主に大阪(伊丹)空港発着のローカル線で使用され、YS-11路線のジェット化に貢献。
 また、新空港移転前の北九州空港は滑走路長が短かかったため、東京~北九州線はMD-87が専用で使用されていました。

 その旧空港時代の2002年7月13日、JAS348便でMD-87に搭乗した事がありました。
 JASのMD-87は、これが唯一の搭乗になりました。


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 旧空港は山に囲まれた内陸にありました。
 航空便に合わせて小倉から西鉄(当時は西鉄バス京築)の連絡バスもありますが、JR日豊本線・下曽根駅からも歩いて行けます。
 駅からは15分位だったでしょうか。


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 何しろ当時はJAS東京線が1日4便だけ、という空港なので、ターミナルビルもこじんまりしています。
 ちなみにこの日は松山・坊ちゃんスタジアムでプロ野球のオールスター戦が行なわれていて、出発ロビーのTVで中継も行なわれていました。
 TVに映っているのは、近鉄(当時)のタフィー・ローズ選手。


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 MD-87の機内。
 この日はちょっとお客さんが少なくて、30人程度。
 この頃のJAS機材は座席が花柄で、華やかさを強調していたようです。



DC-10-30
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(1988~2000)
 JASのDC-10-30については、「№16 JAS DC-10-30」で取り上げました。
 そちらをご覧下さい。
 JASとしては、期待されながらも、あまり運がなかったフリートでした。


A300-600R
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(1991~)
 1990年代に入り、いよいよJASもハイテク・ワイドボディ機の時代になります。
 A300-600Rは、A300在来型をベースにして、先にハイテク機としてデビューしていたA310(日本では採用例なし)のコクピットシステムを採用して、2人乗務で飛べるようにしたタイプ。
 結果的にこれが、長くJASの顔となります。
 1994年の関西空港開港時には、関空~広州線をこの機種で開設。
 広州は日本のエアラインは初就航だった(JALもANAも乗り入れがなかった)事もあり、JASも随分力を入れていました。
 また、国内線用は後に、後述のB777-200導入に合わせて、スーパーシートが設定されています。
 JA8562は「ポカリスエット」の胴体広告機になりました。
 こちらをご覧下さい。
 JAL統合後も全機が引き継がれています。
 ただし、スーパーシートは「クラスJ」になりました。

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 600Rに関しては、統合前から新JALカラーへの塗り替えが進められましたが、その内の1機、JA8377は、JALのB747-400Dとともに、「松井ジェット」として就航しました。
 JAS機材からスペシャル・カラー機が抜擢されたのは、JAL・JAS融合の象徴だったのかと思います。

 A300は、B2K、B4、600Rいずれもそうですが、B747やDC-10、トライスター等とと比べれば小型ではあるものの、幹線でも、ローカル線でも、さらには国際線でも就航できるという事で、JASでは一番使いやすいフリートだったのかな、と感じます。


MD-90-30
(1996~)
 DC-9-81の後継機で、新エンジン搭載で低騒音化が計られました。
 しかし、JASの場合はなんといってもカラーリングに特徴があります。
 黒澤明監督がデザインした、7種類の機体デザインが話題になりました。
 ここに、今はもう見られない7つのパターンを、一挙公開してみます。

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 JA8064・JA8004・JA005Dの3機がこのデザイン。

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 JA8065・JA8020・JA006Dの3機がこのデザイン。
 デザインはこちらが先だったらしく、黒澤監督のサインが入っています。
 なので、世界の航空ファンの間では、これが一番の人気だそうです。


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 JA8063・JA8029の2機がこのデザイン。

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 JA8062・JA001Dの2機がこのデザイン。

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 JA8066・JA002Dの2機がこのデザイン。

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 JA8069・JAJA008Dの2機がこのデザイン。

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 JA8070・JA004Dの2機がこのデザイン。
 キャビンでは、JASのナローボディ機としては初めて、小型ながらモニターが備えられました。
 A300でさえ、B2K/B4では大型スクリーンすらなかったのに比べると、JASのキャビンサービスもかなりグレードアップされてきました。
 もっとも、A300-600R同様、離着陸時には天井に収納されてしまうので、前方の光景が見られなくなってしまうのが残念ではありますが。
 全機JALに引き継がれ、クラスJも設定されています。


B777-200
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(1996~)
 JASは当初、長距離国際線用にB747-400を発注していましたが、湾岸戦争を発端とする航空業界の経営危機の影響でキャンセル。
 代わって、国内幹線用に導入されたもので、それでもJASでは、B727-200以来のボーイング機になりました。
 機体のデザインは公募によるものです。
 ポートサイド側と、写真のスターボード側ではデザインが異なるのですが、ポートサイドは機内で頂いたポストカードでご覧頂こうと思います。

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 キャビンはJASでは初めてとなるスーパーシートと普通席、そして1000円の追加料金で利用できる「レインボーシート」と、国内線では初の3クラス制を採用。
 また、全席にパーソナルTVを装備しました。
 幹線ではANA・JALと競合するので、サービスに差をつけて立ち向かおう、という事でしょう。
 最後の3機ではゲームも装備されました。
 JAL統合後は、キャビンの配置の違いから「7J2」の記号で、「772」のJAL機材とは区別されています。
 スーパーシート・レインボーシートは全て「クラスJ」として提供されています。


B777-300
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(2003~)
 JALへの完全統合を控えた2003年10月に2機導入。
 最初から新JALカラーで、キャビンもそれまでJALが導入していた同型と同じになっています。
 とはいえ、JAS史上最後にして、最大の機体ということになりました。
 JAL統合後も東京(羽田)~札幌(新千歳)・福岡・沖縄線などの幹線で運航されています。

 私は、JAS便には全部で28回搭乗しました。
 一番数多く搭乗したのがA300-600Rで、12回。
 在来型のA300(B2K・B4)が7回。
 B777-200が3回。
 DC-9-81とMD-81が合わせて2回。
 MD-90-30も2回。
 YS-11とMD-87が各1回。
 DC-10-30は搭乗した事がありませんでした。
 ローカル線中心でナローボディが大半というJASとはいえ、東京に住んでいると、やはりワイドボディが中心になるものですね。
(なお、B777-300はJAL便として搭乗した機会あり。)

 JASで導入された機材とか、あるいは路線網(特に国際線)の歴史を紐解くと、JAL・ANAとの2大エアラインに挟まれ苦闘する姿が見えるような気がします。
 それだけに、2社に負けまいと先進的なサービスがいくつもあったし(何しろ「レインボーシート」はJAL統合後の「クラスJ」に生かされている。)、何よりCAや、加えていうとコックピットクルーもよりフレンドリーで、拙い旅行者の私のリクエストにも親切に応えてくれて、印象的だったエピソードがいくつもあります。
(別にJALやANAがフレンドリーじゃない、と言う事では決してないので誤解のないように。)
 そのJASがJALに完全に統合されて5年が過ぎましたが、ご存知の通り、現在JALは深刻な経営難に陥り、それが元で連日のように、マスコミ・ジャーナリズムにある事ない事面白おかしく書き立てられ、現場の人々は心を痛めつつ、それでも懸命に日々の業務に励んでおられるのだと思います。
 今のJALの職員の中には、かつてJASでホスピタリティあるサービスを提供してくれた人々がまだ数多くいるはずです。
 その精神は、統合後のJALグループ全体にも生かされているはずです。
 少なくとも私はそう信じます。
 当分苦境からは抜け出せず、辛い日々は続くと思いますが、ぜひJAS譲りのサービスマインドで、世界の航空業界をリードするJALが蘇って欲しいと、心から思います。

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当時設定されていたバースディ割引で搭乗した、2001年12月21日の沖縄→東京(羽田)線・JAS552便で、CAの方から頂いたグリーティング・カードです。


 今日の記事については、
「日本の旅客機」各年度
「旅客機形式シリーズ4 AirbusA300&A310」
「旅客機形式シリーズ7 DC-9/MD-80/MD-90&Boeing717」
(いずれもイカロス出版)
を参考にさせていただきました。

 申し訳ありませんが、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
 また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。(名前は公表しません。)

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