№25 なぜ、バスファンになったのか? -私の70’s- 番外編

 「バス・ジャパン」の連載は1回お休みします。
 先月、なぜ私がバスファンになったのか、と言う事で、その原点といえる、小学生時代の東急バス・新羽営業所の思い出話を連載しました。
 少し前になってしまいますが、先週の3日(木)、久し振りに新羽へ行ってきました。
 ある目的があったのですが、今回はその辺を含めて、連載の番外編を書いてみたいと思います。

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 現在の東急バス・新羽営業所です。
 ご覧の通り、敷地の後方を横浜市営地下鉄ブルーラインの高架線が横切っていきます。
 このため、事務所棟・工場棟が移転・新築されています。
 以前の事務所棟は右手にありました。
 跡地は現在、伊藤園港北支店になっています。

 車両も当然、30年前とは全く変わりました。
 リムジンバスや新横浜溝口線用のワン・ロマ車、そして幼稚園バスとして運用されているローザなどが見えます。
 この他、現在の新羽〔営〕は、川崎市内の中原養護学校のスクールバスも担当しています。
 川崎〔営〕の方が圧倒的に近いはずですが、どうしてでしょうね?

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 ところで、本題はここから。
 新羽営業所の最寄のバス停は、「新羽営業所庚申堀」。
 ちょっと考えたら妙ちくりんな名称ですよね?
 私が小学生でバス通学していた頃、ここは「新羽営業所」と、「庚申堀」(新羽折返所・小机駅系統のみ)という、交差点を挟んで別々の停留所でした。
 しかし恐らくは道路事情により、だんだんと両者が接近していき、とうとう一つのバス停として統合されてしまいました。
 現地を見た感じでは、「新羽営業所」側で乗客の安全な待ち合わせ場所が確保できなくなったからだと考えます。
 (なお、勝田折返所方面と新横浜駅方面で、上下とも場所は異なる。)
 さて、それではなぜ、単純に両者の名称を合体させて、あえて変だとも思える名称にしたのか?
 東急としては、純粋に「新羽営業所」とだけすれば良かったはず。
 「庚申堀」の名前に由緒があり、簡単に捨てる事ができなかったのではないか?
 そう考えて、理由を調べるためにここに戻ってきました。

 しかし…。

 残念ながら、付近に「庚申堀」の由来を知る人はいないようです。
 新田地区センター(連載中に取り上げた、新田小学校の校舎を転用した所)に聞いてもわからないと言う答えでした。
 「堀」とつく位だから、御堀(御濠)と関係あるのか、とも思いましたが、この付近には城はなかったはずだし。
 当然、地名にもありません。(「残って」いない?)
 画像にある、バス停の後の交差点の名前は「庚申堀」、また、左手の地下鉄高架下の月極駐車場(横浜交通開発が経営)も「庚申堀(第2)駐車場」と呼んでいるのですが…。
 わざわざバス停に名を残す位だから、すぐにわかるかな、と思っていたのですが、甘かったですね…。
 こういうのはどういう人に聞けばいいのかな…。
 どなたか、わかる方が居られたら教えて頂けると幸いです。

 なお、入庫車の降車専用、及び営業所構内にある乗車専用のバス停は「新羽営業所」標記です。
 バスそのものの行先表示や、他の停留所の時刻表でも「新羽営業所」です。

 もう一枚ごらん頂きます。

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 「新羽営業所庚申堀」の次、「常真寺前」バス停です。
 道路の右手、木々の向こうに立つのが、新田地区センターで、ここが新田小学校だった頃は、バス停も「新田小学校前」でした。
 このバス停も位置が変わっています。
 左手、後姿の東急バスが停車しているのが「常真寺前」停留所(勝田・新横浜方面行)ですが、この写真を撮るために立っているこの位置が、昔の「新田小学校前」でした。
 ひょっとしたら、反対側の綱島方面行も少し変わっているかもしれません。(ちょっと忘れた。)

 このバス停付近自体は案外変わっていないようにも見えますが、左手の道路を入ると、ジャスコ(旧マックスバリュ)がオープンしたりしていて、やはり30年の年月は容赦なく地域に変化をもたらすようです。
 地下鉄の駅が近くにできたりすれば、なおさらですね。

 次回は「バス・ジャパン」の連載に戻りたいと思います。
 伊賀鉄道の撮り歩きについてはもう少し待ってください。

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