№3 なぜ、バスファンになったのか? -私の70’s- 1

 昨日は更新がありませんでしたが、やはり毎日毎日はちょっと書けないですね。
 その日の気分とか、あるいは仕事上の疲労とかもありますから。
 今後も、更新が数日途絶える事もあるかと思いますが、その辺はご理解下さい。
 できるだけ多くの日に更新したいとは思っています。

 さて、私はわざわざホームページを作成する位、バスが好きです。
 もちろん、鉄道も旅客機もやりますけれど、ではなぜバスファンになったのか?
 はっきりこれだ!というものはないですが、恐らくは小学校低学年の頃のバス通学が大きく影響しているはずです。
 この事についてはこれまでも本体で書いてみようかなと思った事はありますが、今回ブログを始めた事で、こういう個人的な昔話は、なんとなくブログの方が向いているかな、と思い、今回連載形式で取り上げてみる事にします。
 マニアックな部分が多々ある事、何しろ小学生の頃の事ですから記憶があやふやになっている部分もあって、一般の方にはついていけない部分があるかも知れません。
 その点はご了承下さい。
 一応、一般の方にもわかるように書くつもりですが。
 あと、ローカルネタ(神奈川県横浜市港北区)になりますので、その辺もご容赦を。

 まず、本題のバスの話に入る前に、簡単に私のプロフィールに関わる思い出話を書いていきます。
(この後のバスの話を多少なりともわかりやすくするために。)
 私は共に青森出身の両親の下に産まれました。
 産まれたのは鶴見区だったらしいですが、物心ついた頃には横浜市港北区新羽町にある安(いと思う。家賃の事など両親に聞いた事はないが)アパートで暮らしていました。
 私には3歳上の兄と、2歳下の弟がいましたが、当然個室なんてあるはずもなく、夜は一部屋に三兄弟が並んで寝ていました。そんな所です。
 目の前には鶴見川が流れていましたが、その向こうはひたすら田畑が広がるばかりでした。
 遠くに国鉄の横浜線が走り、73系電車をよく見かけたものです。

 最寄のバス停は、東急バスの綱島駅=小机駅線 -今は廃止になりましたが、これは後で書きます- の「亀甲橋」。
 私が住んでいた頃はこの亀甲橋を渡ると、新羽踏切 -本体の「ア・ラ・カルト」で取り上げています。- までずぅーっと直線で道路が続いていました。
 今は「日産スタジアム」がそびえている所で、まさか後年ここでワールドカップ・サッカーの決勝戦が行われる事になるとは考えもしなかった。
 いや、「ワールドカップ」の存在すら知りませんでしたけれどね。
 なにしろ新横浜駅付近も開発が全然進んでいなかったという事か、原っぱが広がる一方で、「ラブホ街」というありがたくないあだ名がついていた時代です。
 私たち一家はこの地に、小学校4年生の9月まで住んでいました。
 そして、当時は近くに小中学校がなかったので、東急バスで通学する事になります。
 ここから東急バス、そして日本のバスとの付き合いが始まる事になるのです。

 ところで、つい最近、その昔住んでいた新羽町の地を訪れたのですが、ビックラこきました!
 アパートも、お隣さんも、企業も、給食の調理センターもみんな消えてしまっているのです。
 首都高速の「横浜北環状線」建設のためとか。
 真下をトンネルが走るのだそう。
 それに、丘の上に建っていた資生堂研究所 -東急バスが小机駅、後には新横浜駅からワン・ロマ車で特定輸送を行なっていた- も移転したのか姿を消して、中小企業の団地に変わっていました。
 うーん、30年も経つと、みんな変わってしまうんだなあ。

 続きはまた次回に。

 申し訳ありませんが、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
 また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。(名前は公表しません。)

 あとプロフ(↑)をちょっと修正しました。

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