№12 なぜ、バスファンになったのか? -私の70’s- 7

 2回お休みしましたが、私の昔話の連載を再開します。
 今回はバスでなく鉄道です。東急バス新羽線が接続する、国鉄横浜線と、東急東横線を取り上げます。
 いずれも私が新羽に住んでいた頃の状況が中心です。

国鉄横浜線
〔路線〕
 沿線も含めてローカル色を色濃く残していた当時、複線区間は東神奈川~小机のみで、以降の大半の区間が単線。
 矢部以外は行き違いが可能でした。
 町田は当時は「原町田」で、現在の神奈中バス・町田ターミナル付近にありました。
 後に小田急との乗換の便を改善するために移転・改称する事になります。
 なお、十日市場・成瀬・古淵・八王子みなみ野はまだありませんでした。
 前者2駅は複線化の進捗に合わせて新設されましたが、成瀬は駅の設置が先になり、当初は上下線が共用でした。
 ホームは複線に対応して建設されており、開業時点では現在の下り線を使用、上り線側は空いたままでした。
 後者2駅はJR化後の新設です。
〔車両〕
 まだ73系が幅を利かせていて、4両編成と7両編成がありました。
 色々な形態があって、「63型」の面影を残す3段窓の車両が残る一方で、103系並みの車体になった車両も見られました。
 一方、スカイブルーの103系(7連)の投入も始まっていました。
 京浜東北線との誤乗を避けるため、有名な「横浜線」のプレートを正面に掲げていましたが、これは103系への完全置き換え後、ウグイス色に変わっても受け継がれ、205系に置き換えられるまで続きました。
 この他、夕刊輸送用として、日中の1往復(73系4連)にクモニ13が連結されて、横浜線の名物となっていました。
 73系引退まで続けられます。
 そういえば73系引退は1979年9月30日なので、間もなくちょうど30年になりますね。
〔運転〕
 複線区間が限られていたので、トータルの本数はまだ多くはありませんでした。
 時刻表がないので正確にはわかりませんが、日中だと15~20分間隔位だったでしょうか。
 当時は東神奈川を起点として、ラッシュ時を中心に小机折返しが多数設定されていた他、日中は中山・原町田・橋本と本数がだんだん減っていくダイヤでした。
 また、日中のみ根岸線の磯子まで乗り入れがありました。
 あと、見た事がなかったので詳しくは解からないですが、八王子~橋本~(相模線)南橋本に貨物列車の設定があったそうです。
(相模線は当時は非電化)
〔小机駅〕
 当時の自宅の最寄りで、東急バス新羽線の接続駅だった小机駅は、前述の通り、当時は複線区間の終点でした。
 2面3線に引き上げ線と留置線があり、構内は結構広かったですが、駅舎は比較的最近まで木造平屋建てでした。
 今NHK-BSで「木造駅舎の旅」という5分番組がありますけれど、今残っていれば、間違いなく取り上げられていたでしょう。
 駅前広場には東急バス新羽線の他、相模鉄道バスの横浜駅西口行が入っていました。
 現在も相鉄バスは乗り入れがあります(但し現在は休日運休)。
 東急バス川和線・第三京浜線や横浜市営バスは駅前の横浜上麻生道路にあるバス停に停車、駅前広場には入りませんでした。
 ただし、市営バス39系統で1往復設定されていた(現在もある)小机駅折返しは、広場に入って折返していたようです。
 横浜国際競技場=日産スタジアムの開場に合わせ、最寄り駅となった事で、小机駅もついに橋上駅舎化される事になります。
 現在、定期ダイヤでは小机折返しはありませんが(早朝の営業の始発はある)、クラブ・ワールドカップなど、大規模な大会が行なわれる時には折返し列車が設定され、元から余裕があった構内と、広い橋上駅舎が威力を発揮しているようです。

画像

 2007年12月16日撮影の、現在の小机駅です。
 木造駅舎時代を知る者としては驚くべき大変化です。
 この日は横浜国際総合競技場(=日産スタジアム)でクラブ・ワールドカップの決勝戦(ACミランVSボカ・ジュニアーズ)と、その前に3位決定戦(浦和レッズVSエトワール・サヘル)が行なわれ、昼前から大勢のサポーターであふれていました。
 駅舎内にはユニフォームのレプリカなどのグッズや弁当を発売する特設コーナーも設けられていました。
 21時以降、始発の東神奈川行8本を含め、臨時列車が多数設定されています。
 

◆東急東横線
〔路線〕
 さすがに東京(渋谷)~横浜間を結ぶ大手私鉄の大動脈だけあって、駅等の姿や沿線のたたずまいは変わってきているものの、今の目で見てもある程度完成された感がありました。
 その中で、武蔵小杉は上下線を挟むように相対式のホームが並ぶだけで、現在とは大違いでした。
 田園調布や日吉も地上に駅があり、田園調布の洋館風駅舎も現役で使用されていました。
 田園調布~日吉の複々線化工事が本格的に始まるのは、90年代になってからです。
〔車両〕
 (旧)7000系や7200系が主力となっていて、(旧)5000形もまだ走っていました。
 急行は正面に加えて、側面の上にも赤地の白文字で「急行」のプレートを掲げていました。(東横線では、特急の運転開始まで、急行と各駅停車は運用は完全に分離されていた。)
 大型の8000系はまだそんなには走っていなかったと思います。
 それと、一時期8500系が走った事があったはずです。
 ちなみに目蒲線は全車(旧)3000形でした。
〔運転〕
 渋谷~桜木町は急行が15分間隔で各駅停車がその間に2本。
 急行は上下とも日吉で先行する各駅停車1本を追い抜き。
 このパターンが、特急の運転開始までずっと続く事になります。
 日比谷線からの直通は、日吉まで15分間隔でした。
〔綱島駅〕
 既に高架駅になっていましたが、特徴的なのは、バスの乗場は高架の橋脚の下にあり、バスが誘導員の誘導でバックして橋脚間に入ってくる事です。
 駅前広場がない事も理由の一つで(駅前には有名な綱島温泉がある。)、土地の有効活用という意味もあるでしょう。
 このような例は、他には神姫バスの三宮バスターミナルがあるものの、全国的に見ても珍しい例の一つではないでしょうか。
 時間がなくなると、そのままバス停に据え付けて、乗車を扱ってすぐに発車する事もあります。
 なお、新羽線の勝田折返所行は高架下ではなく、高架に沿った1番乗場に据え付けて乗車を扱います。
 また、臨港バスの鶴見駅西口行は、駅前から少し離れた場所に独立したスペースを設けて、乗車を扱っています。(ここもバック式)

画像

 2006年2月12日撮影の綱島駅。
 たたずまい自体は今もほとんど変わりません。
 ただ、屋根が増設されているのが目に付きます。
 乗場は①…新羽線(勝田折返所行)、高架下は橋脚間を一つ空けた後②…新羽線(新横浜駅・新羽駅・新羽営業所行)及び新吉田線 ③…綱島線 ④…新城線 ⑤…駒岡線及び市営バス59系統 ⑥…市営バス13系統(手前のCNG車ですね)及び臨港グリーンバス〔川51〕系統。
 また、臨港バス〔鶴04〕系統は、駅前の道を直進して右手の⑦番です。


 多少とりとめのない話になってしまったでしょうか。
 小学生の身分ではバスはまだしも、電車はまだそれ程乗る機会は多くなかったので、さらに記憶があやふやになってし待っているのは申し訳ありません。
 ともあれ、東急バスによってバス趣味に目覚めたのなら、横浜線や東横線が鉄道趣味に目覚めるきっかけとなったのは事実だと思います。

 長々昔話に付き合って頂きましてありがとうございます。次回がいよいよ最終回になります。「その後の新羽営業所の路線と車両」といった話になるかと思います。

 申し訳ありませんが、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
 また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。(名前は公表しません。)

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