琵琶湖両岸 アーバンネットワーク組み込み完了
大惨事と水害 第3セクター鉄道の苦難
大惨事と水害 第3セクター鉄道の苦難
琵琶湖東岸 京阪神通勤圏の仲間入り
北陸本線は、1957(S32)年に田村~敦賀間が電化、1960(S35)年には米原~田村間も電化されたが、当時は交流20,000Vで米原~坂田間に交直切り替えのデッドセクションを設置、米原への直通には、交直両用の車両を必要としていた。特急は483系や485系など、急行は475系などを使用していたが、普通列車は長らく客車列車が中心で、国鉄時代末期になって、特急形改造の419系や、廃止となった急行から転用の急行型などに置き換えられていたが(一部DCも併用)、京阪神方面へは米原での乗り換えが必要だった。
このため、琵琶湖湖東の自治体、特に長浜市より新快速電車の直通の要望が出されるようになり、これに応えるべく、1991(H3)年9月、米原~長浜間は直流1500Vに転換、東海道本線から直流近郊型の直通運転が始まった。
琵琶湖線(東海道本線)の新快速は、平成最初の改正が行われた1989(H元)年3月、JR西日本初の新型近郊電車となる221系の導入により、それまでの草津まで30分間隔、米原または彦根まで60分間隔だったダイヤが、一挙に米原まで30分間隔と大幅に増発。最高速度120㎞/h運転により、それまでの117系に対して、京都~米原間は2分の短縮を見た。長浜延長時には日中の全列車を含む大半の新快速と、一部の普通(京阪神区間快速)が長浜に延長され、新快速は大阪~長浜間を、最速1時間32分で直通した。
一方、湖西線は交直切り替え区間が永原~近江塩津間にあり、直流電車は永原まで乗り入れ、京阪神方面からの新快速は近江舞子まで直通運転を行っていた。線内は各駅に停車していたが、1996(H8)年3月改正で近江今津まで延伸されるとともに、山科~近江舞子間は西大津・比叡山坂本・堅田のみの快速運転となり、大阪~近江今津間は最速1時間19分で結ばれている。
一方、永原~近江塩津間の普通列車は8往復の運行にとどまり、北陸本線同様、419系や急行型電車などが用いられていた。近江今津~近江塩津~長浜間の直通運転も設定されている。
新快速 琵琶湖両岸でパワーアップ
2006(H8)年9月、北陸本線・湖西線の直流電化区間が福井県の敦賀まで延伸、滋賀県内のJR在来線は、全区間が直流電化となった。翌10月の改正で、湖東区間、湖西線双方の新快速が敦賀まで延長され、琵琶湖北部から福井県嶺南にかけて、「アーバンネットワーク」と称される、京阪神の通勤圏に組み込まれる事になった。直流で統一された永原~近江塩津間は新快速が1時間間隔で運行され、地域輸送も改善されている。
新快速は、1995(H7)年より導入された223系に統一された1999(H11)年より130㎞/hを開始し、大阪~米原間の所要時間は1989(H元)年3月改正時最速1時間27分→現行1時間23分に短縮された。2010(H22)年には225系も導入され、大半の列車が12連運転に増強された。琵琶湖線では1994(H6)年に開業した南草津駅が、周辺の開発と立命館大学の進出により利用者が増加、2011(H23)年3月改正時より、新快速の停車駅となっている。2019(H31)年3月改正時より、野洲発着の一部列車に「Aシート」車が連結されている。
通勤特急スタート JRネットワーク
米原駅は、東海道新幹線と北陸本線の接続駅で、主に東京方面⇔北陸方面の中継駅としてにぎわっている。1時間に1本停車する新幹線〔ひかり〕に接続して、北陸本線〔しらさぎ〕〔加越〕が接続する形態で、加えて1988(S63)年3月改正で、午前米原着、深夜米原発のビジネス特急〔きらめき〕の設定もあった。〔きらめき〕は、北越急行が開業した1997(H9)年3月に〔しらさぎ〕に統合、2003(H15)年には米原折り返しの〔加越〕も〔しらさぎ〕と改称、米原からの北陸本線特急は〔しらさぎ〕に一本化されている。同時に683系への置き換えが完了した。〔しらさぎ〕は、七尾線電化時に和倉温泉への直通も設定されたが、北陸新幹線開業の2015(H27)年3月改正で、金沢発着に統一されている。
一方湖西線は、一部〔雷鳥〕の西大津(現大津京)・堅田・近江今津停車があったが、大半の特急は滋賀県内への停車がない。東海道本線は、関西空港の開港により運行を開始した空港特急〔はるか〕のうち、1往復が1995(H7)年7月より臨時列車として草津まで延長、後に定期化の上、2003(H15)年6月には、米原発着2往復を設定、空港アクセスのみならず、京都・大阪方面への通勤の足としても利用されている。同時期に、ライナー列車という形で運行されていた〔びわこライナー〕を格上げする形で、米原~大阪間に特急〔びわこエクスプレス〕が設定された。2014(H26)年には、〔はまかぜ〕用キハ189系使用の2号が、大阪→草津間の片道のみ増発されている。一方で、JR東海区間から乗り入れていた〔しなの〕1往復は、2016(H28)年3月改正で名古屋~大阪間が廃止になっている。JR東海からは高山本線の急行〔たかやま〕も乗り入れていたが、1999(H11)年3月改正でキハ85系に置き換えられ、特急〔ひだ〕に格上げされた。〔しなの〕廃止後は、JR東海区間から湖南を経て京都・大阪に直通する、唯一の昼行優等列車である。
寝台特急は、平成の世になった時点で既に、東海道本線・北陸本線(湖西線)とも、滋賀県内への停車がなかった。夜行急行は寝台専用の〔銀河〕、中央本線からの客車急行〔ちくま〕、それに米原経由で運行されていた〔きたぐに〕があったが、〔ちくま〕は1997(H9)年に〔しなの〕と共用の383系に置き換えられたが、臨時格下げの後、2005(H17)年秋に廃止となった。〔銀河〕は2008(H20)年3月に廃止、〔きたぐに〕も臨時格下げの後、2013(H25)年に廃止されて、県内に停車する定期夜行列車は消滅した。〔きたぐに〕は、寝台電車583系最後の定期旅客列車であった。
草津線は、全線電化後もDLけん引の客車列車が京都~柘植間で2往復残されていたが、1989(H元)年3月改正で電車化された。朝夕は引き続き京都への直通列車を設定、新快速から撤退した117系も戦列に加わっている。なお、栗東市内の東海道新幹線との交差地点(草津~手原間)に、東海道新幹線の新駅の建設が一時決定していたが、2006(H18)年7月就任の新知事の公約により計画は撤回、とん挫した。
北陸新幹線の敦賀~大阪間は、2017(H29)年、福井県小浜経由での建設が発表になった。今後の滋賀県のJR各線は、並行在来線とみなされる可能性がある湖西線の行方を含めて、北陸新幹線の動向に左右される事になると思われる。
運行形態一新 京阪大津線
「大津線」と総称される、京阪京津線と石山坂本線は、小型車両により共通運用がなされていた。石山坂本線は1997(H9)9月に穴太~坂本(現坂本比叡山口)間が複線化され、京阪電鉄は全路線が複線以上となった。
直後の10月12日は、大津線にとって転機となった。路面区間を含んでいた京津線の京都市内区間は、京都市営地下鉄東西線開通のため前日限りで廃止、御陵駅より東西線に直通して地下鉄に直通する形態となった。同日に600V→1500Vに昇圧、京津線は東西線直通対応の800系が導入されている。石山坂本線は京津線と運用が分離され、近年はアニメのラッピング電車でファンの注目度が高まっている。
近江鉄道 経営危機表面化
近江鉄道は、昭和末期より閑散線区対策として、電化鉄道でありながら、2軸レールバスLE10形を導入していた。しかし、時間帯によっては輸送力不足で、1991(H3)~1996(H8)年にかけて、モハ220形を導入した。同社初の電車の冷房車でもある(2015(H27)年まで使用)。LE10形は、実働わずか10年程度で終わった。その後は西武鉄道から中古車両を多数購入し、自社のオリジナル車両を更新して体質改善を行った。1編成は開業100周年記念として大幅に改造された、転換クロスシート車の「あかね」号である。また、企業の立地場所を中心に平成の30年間で8駅を開業させ、通勤などの利用の増加を図ってきた。
しかし、開業120周年を迎えた2018(H30)年12月、近江鉄道は経営状況を公表し、事業の単独継続は困難として、沿線自治体に今後の在り方を問う事となった。時を同じくして、2007(H19)年に彦根駅構内に開館していた「近江鉄道ミュージアム」が閉館、戦前製のELなど、展示されていた貴重な車輛群が失われる事となった。この状況を受けて設立された「近江鉄道活性化再生協議会」では、令和の世になった2020(R2)年3月に、当面は存続の方向性を打ち出した。しかし、廃線の可能性が全くないわけではないともしており、動向は予断を許さない。
上下分離方式導入 信楽高原鐵道
1987(S62)年7月に特定地方交通線信楽線からの転換で開業した信楽高原鐡道は、陶芸の街として知られる信楽と、草津線の貴生川の間を結ぶ小鉄道だったが、1991(H3)年には信楽で世界陶芸際が開催される事になり、来場客輸送のため信号所を増設した上で、JRから多数の直通列車を受け入れていた。
しかし、会期中の5月14日、JRからの直通列車と自線内の列車が正面衝突を起こし、42人死亡、628人負傷の大惨事となってしまった。通常の信号機の故障による代用閉塞方式の施行時に、列車の存在の確認を失念した事が直接の原因とされたが、この事故のため、運行は12月半ばまで停止され、信楽高原鉄道は、遺族補償など、重い負担を背負わされる事になった。1995(H7)に事故車両の補充で導入されたSKR300形は、事故の遺族を中心に発足した安全推進会議の提言を基に、事故防止対策を盛り込んで設計されている。
その後、2013(H25)年4月に上下分離が行われ、線路施設は甲賀市(2004(H16)年に沿線の5町が合併して成立)が保有する方式になった。この直後の9月、台風被害で杣川橋梁が流出し、翌2014(H26)年11月まで、1年以上の運休を余儀なくされる事となる。上下分離がなされていなければ、路線の存続は難しくなっていたと思われるが、大惨事と水害による2度の長期不通は、小規模第3セクター鉄道の経営の脆弱性を思い知らせる事ともなった。
次回はデータ編です。
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