№2522 「よんさんとお」復刻版 読んでみた 3.特急時刻表を作ってみた
前回が去年の12月2日(№2426)、すっかり「忘れていた」(というわけでもないのだが)、JTBから復刻した「よんさんとお」、1968(S43)年10月白紙改正の時刻表を、その印象を書き記す企画。
まあ、「毎月1回程度読み進めて」と記しておきながら半年以上もほったらかしにしていては、「忘れていた」と書かざるを得ないのだが、久しぶりにやります。
前回のラストで、「次回は東海道新幹線と、新幹線を主体とする主要幹線連絡時刻表を読み進める」と書いたが、前提として、当時の在来線の特急の時刻をまとめておく必要があると思いました。「特急列車の大増発」と謳ってみても、当然現代とは大違い、今みたいに、列車や路線によっては30~60分間隔の高規格でフリークエントサービスを行う特急など存在するはずもなく、当時の主力は、まだ急行でした。従って、現代のような特急専用の時刻表などと気の利くページもありません。
なので今回はまず、「よん・さん・とお」当時の在来線特急の運転系統図と、特急オンリーの時刻表を作成し、当時の特急事情を整理します。
まず運転系統図です。①寝台特急 ②西日本 ③東日本 に分けます(いずれも多少簡略化しています)。
①寝台特急
寝台特急は、客車(いわゆる「ブルートレイン」(ブルトレ))・電車、一緒にしました。〔ゆうづる〕は両方あった。
まだ東海道・山陽本線経由九州行と、東北本線、それに大阪~青森間〔日本海〕だけで、山陰本線の〔出雲〕とか、奥羽本線の〔あけぼの〕のような、後に「名列車」と称されるような特急はまだ設定がない。
②西日本
昼行は、緑系…電車、赤系…ディーゼルカー(DC)に分けています。
東海道新幹線が開通して4年、さすがの東海道本線も、東京~名古屋間は昼行特急の空白域となりました。急行〔東海〕や、九州へ行く〔霧島・高千穂〕が、この区間は昼間の運行になるが、スピードを求める層へは、完全に新幹線に一本化された格好です。
一方で新大阪から西へ向かう特急が多数整備されています。〔うずしお〕は、新大阪~宇野間の当時の営業キロが213.2㎞。連絡船を介した四国へのルートの一部ではあるが、当時の特急では、全部は確認していないが、たぶん最短です。
③東日本
東北本線の全線電化完成が「よん・さん・とお」最大の目玉だったが、全体的な電化率は、まだまだ低い。主要幹線でさえ、北陸本線・信越本線の糸魚川~直江津~宮内(長岡)間などがまだ電化されていない。東海道新幹線開業の時点で、東と西を電車特急だけで乗り継ぐ事は、一旦できなくなっている。
必然的に(西日本も含めて)昼行特急の長距離列車は大概DCとなり、〔白鳥〕の大阪~青森間(湖西線開通前だから米原経由)1062.3㎞は、昼行特急では最長になりました。
常磐線は〔はつかり〕が電車化と同時に東北本線経由に変更したので、昼行特急が一旦なくなっています(〔ひたち〕の運行開始は翌年)。
ここから時刻表です。方面別に7枚に分けました。
①東京・名古屋~九州
この後もそうだが、寝台特急は地をブルーで着色しています。大半が夜行だが、名古屋~熊本間で、昼行の〔つばめ〕も走っていました。個人的には、名古屋始終着の〔つばめ〕というのは妙な感覚もあります。それこそ戦前から展望車を連結して東海道本線を走っていた、日本の鉄道史におけるスターのイメージ、、あるいは787系以降九州新幹線に至るまで、JR九州の看板列車として定着した昨今から見れば、だが。
この後に出す時刻表でもそうだが、寝台特急でも、午前2・3時台の客扱いの停車が相当ある。座席車を連結した急行ならまだしも、どの程度深夜の乗降があったものだろうか?
上りの〔あさかぜ1号〕と〔あさかぜ2号〕は、東京の到着が2時間開いている。通勤ラッシュにかかるので、7時30分~9時30分の東京到着を外しています。東海道新幹線開業時点では急行の到着があったが、当時は高度経済成長の真っただ中だったし、激化するラッシュ輸送に耐え切れなくなったという事だろうか。これが、平成のブルトレ全廃まで続く事になります。本当は、夜行列車の到着時刻としてはこの時間帯が適切だと思うのだが。
②京都・大阪~山陽・九州
東京~大阪間はほぼ新幹線に譲り、新大阪での新幹線との接続を重視したダイヤになっています。なので、特急と接続する新幹線の時刻も加えました。接続する時刻はグレー地にしています。
〔はと〕〔月光〕の斜字は、特定の日の運行です(この後もそう)。
前述の通り、名古屋~熊本間に〔つばめ〕があり、新大阪での新幹線との接続も可能なのだが、新幹線連絡の時刻表にはなぜか掲載がありません。なので参考として、青文字で加えてあります。
九州の電化は、鹿児島本線が熊本まで、日豊本線が大分の先の幸崎までで、長崎本線・佐世保線は非電化。なので、南・西九州へ行く昼行特急〔かもめ〕〔なは・日向〕はDC。そして、この両列車は上下とも、東京方面との接続がありません。鹿児島や宮崎、長崎・佐世保は、東京からだと必ずどこかで夜行にする必要がありました。東京から長崎へ、〔ひかり31号〕→〔あかつき1号〕で16時間21分かかってるが、鉄道ではこれが最速でした。
その他の列車は、基本的に下りは東京発毎時00分の〔ひかり〕から接続するため、新大阪発は毎時28分、上りは新大阪発毎時00分の〔ひかり〕に接続させるべく、新大阪着が毎時42分と規格化されています(一部例外あり)。新大阪では18分の接続時間を見ているわけです(新幹線の時刻表における「のりかえ必要時間」では、新大阪は12~20分としている)。
〔かもめ〕の佐世保編成は、博多でなく筑豊本線を経由しています。当時はまだ石炭輸送が盛んで、石炭で栄えた直方・飯塚も無視できなかったのだろう(夜行は京都~熊本間の急行〔天草〕が経由していた)。
東京・名古屋発着もそうだったが、北九州市内の停車駅が、ブルトレが門司、電車・DCが小倉とはっきり分けられているのが目に付く。
③紀勢本線・山陰本線・九州
全部DC。〔くろしお〕は、名古屋発着の1往復以外は、食堂車の連結がありませんでした。
④北陸本線・高山本線・中央西線
湖西線開業前で、大阪から北陸を目指す列車は全て、米原経由でした。
北陸本線は、〔白鳥〕も含めた昼行特急全てが動橋に停車しているのが目に付く。今は小駅でしかないが、当時はここから北陸鉄道山代線があり(新動橋という別の駅だったが)、山代温泉へのアクセスとなっていました。また、大聖寺(〔白鳥〕は通過)からも北陸鉄道の山中線が、山中温泉まで走っていました。しかし様々な事情から、この両駅の間にある、普通列車しか停車していなかった作見駅がこの2年後、移転の上加賀温泉と改称、特急停車駅として統合される事になります。もうすぐ新幹線も停車するまでに出世した加賀温泉、一方、北陸鉄道も廃線となり、普通列車のみの停車となった動橋。見事な逆転現象が起きる事になりました。
〔しなの〕はこの改正で特急に格上げになり、また、181系DCが初めて導入されました。
⑤中央東線・信越本線・上越線
この後の東北特急にもあるが、〔あさま〕〔とき〕は1往復ずつ、東京を発着する列車がありました。大宮を通過する特急があった、というのは、今の感覚では信じがたいかも(今の新幹線は全列車停車)。東京発着の〔とき〕は、上野~水上間がノンストップ。高崎さえ通過だ。189系デビュー前なので、〔あさま〕は8両編成。食堂車もなし。〔はくたか〕は翌年に上越線経由に変更、その後北越急行の特急となり、北陸新幹線開業で元のルートにリバイバルした格好。
⑥東北本線
「よん・さん・とお」最大の目玉商品。山陽本線と並ぶ「特急街道」になったと言っても良い。
東京発着の〔ひばり〕(下り6号・上り1号)は、上野~郡山間が完全ノンストップ、上野~仙台間の途中停車駅は郡山・福島のみで、所要3時間53分は今に至るまで、在来線の最速です。
〔はつかり〕は、下りでは2号が列車番号1Mで、最エース格と言って良かった(下り1号は2021M)。上野~仙台間は3時間58分で〔ひばり〕に譲るが、上野~青森間は途中宇都宮・福島・仙台・盛岡のみの停車、上り1号(2M)共々8時間30分で走りました。
常磐線は〔はつかり〕が東北本線経由になった事で、昼行特急は一旦なくなりました。ただ面白いと思えるのは、上野~青森間の夜行に関しては、常磐線経由の方が東北本線経由より多いこと。常磐線は〔ゆうづる〕2往復+急行〔十和田〕定期3往復、対して東北本線は〔はくつる〕1往復+急行〔八甲田〕1往復。国鉄の民営化のあたりまでは、本数的には常磐線優位の傾向が続きました。勝手な推測だけれど、東北本線は、奥羽本線や磐越西線への直通列車も多いし、当時は貨物列車も今より遥かに多かっただろうから、線路の容量がまだひっ迫していた、という事情があったのではないか。常磐線は単線区間もあるけれど、夜行だと昼行ほどガンガン早く走る必要はないから、東北本線救済の意味でも、それなりの本数が設定される事になった、のだと考えます。
〔あいづ〕もこの改正で設定されたが、思いのほか早いかも?
⑦北海道
当時の北海道の長距離列車は函館を中心にダイヤが組み立てられていて、特急も全列車が函館発着でした。ここでは、特急に接続する青函連絡船、及び本州側の特急の時刻も添えています。
石勝線開業前で、釧路発着各列車は滝川経由。
1M〔はつかり2号〕~1便~1D〔おおぞら〕のラインで、上野~札幌間は17時間15分、上野~釧路間は23時間11分、また函館から11D〔北海〕利用で上野~旭川間は19時間36分でした。特急利用でも、全部通すと大変な旅だったろうなあと思う。当時は特急でも、普通車はリクライニングシートではないし。
という感じで、当時の特急事情を時刻表から考察してみました。と言っても当然当時の列車には乗った事がないので、時刻表から思いめぐらせるしかない部分が少なくなかったが。
でも、「大変な旅」とは書いたけれど、もし叶うなら、時代を遡れるなら、ここに記された特急列車の旅って、「チャレンジ」してみたいかもなあ。特急と言っても現代と比較すれば水準は大幅に劣る、という評価になるはずだが、大半の列車に食堂車があるのも魅力だし、あくまで個人的な印象だけれど、「至れり尽くせり」というサービスは、正直得意ではないんです。のんびりと(「特急」だからのんびり、じゃないか)車窓を愛でながら、夜行だったらレールと車輪が奏でるリズムに身を委ねつつ、長距離列車の旅を楽しみたいなあ、と妄想しています。日本では二度とそんな旅はできないが。
「よん・さん・とお」考察、次回こそ東海道新幹線と、新幹線を主体とする主要幹線連絡時刻表を読み進めます。
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10月1日に全線の運行を再開する、只見線の再開時のダイヤが発表になりました。ダイヤは基本的には、11年前の被災前と同形態に戻る事になります。繰り返しになるが、相当な額を費やして再開させる以上、JRも地元自治体も、相当な覚悟を持って運営にあたる必要があるでしょう。鉄道を最大限生かした街づくりと営みが必要だと思います。
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コロナ禍はついに「第7波」になってしまいました。いつもの事ながら、減少は緩やかでも増加は爆発的です。ウィルス感染とはそういうものなのだろうが。今回の「BA.5」はワクチン3回接種済み・ウィルス感染済みでも感染する可能性が今までより高い、らしい。とにかくウィルスはどんどん「アップデート」していくので、厄介です。今のところは行動制限は考えられていないようで、これからもそうあって欲しいとは思うが、夏休みが迫っているので、ちょっと心配です。とにかくしつこいけれど、他はどうでもいい、我が身と自由な暮らしは、自分自身で護りぬかなければならない、これに尽きます。しかし今月に入って、コロナ禍以外でもいろいろありすぎて、頭がグチャグチャしそうだ。穏やかに生きたい。