下の画像は1990(H2)年1月24日、新潟駅で撮影した夜行快速〔ムーンライト〕(後に〔ムーンライトえちご〕)です。後述する通り、当時台頭していた高速バスへの対抗策として、165系3連を改造して夜行快速専用車としていたもので、グリーン車から転用した座席を配置、読書灯や、小規模ながらフリースペースを設けた、夜行仕様に特化した意欲作でした(東京側で快速〔フェアーウェイ〕にも使用されたが)。こういう、〔青春きっぷ〕で乗れる夜行快速、やはりもう復活の目はないのでしょうかねえ…?新潟県時代、昭和末期~1990年代には新潟交通や蒲原鉄道の電車目当てで何度か足を運んだが(蒲原鉄道はバスもあったが)、両鉄道がなくなって以降は、何となく遠のいた感じがします。
新幹線主軸に 首都圏~北陸の中継点 役割を果たす
歴史的中小私鉄は全て消滅
歴史的中小私鉄は全て消滅
スピードアップと輸送力増強 上越新幹線二面作戦
1982(S57)年11月15日に開業した上越新幹線は、新潟県と首都圏の所要時間を大幅に短縮し、県の発展に大きく貢献してきた。開業当初は、速達タイプの〔あさひ〕と、各駅停車タイプの〔とき〕に2本建てだった。
1990(H2)年3月改正で、下り〔あさひ〕の一部列車が、改造工事を施した200系を使用して275㎞/h運転を開始、500系〔のぞみ〕がデビューするまでの、日本最速だった。
この年の12月、越後湯沢駅からの保線用車両が走行する線路を活用した、ガーラ湯沢駅までの路線が開業した。JR東日本が開発した「GALA湯沢スキー場」へのアクセスとして、冬季のみ、越後湯沢発着の列車が延長する形で乗り入れる。戸籍上は在来線の上越線の扱いとなっている。
平成の世になった時点では上野まで開業していた上越(東北)新幹線は、御徒町の陥没事故もあり、予定より遅れた1991(H3)年に東京まで延伸した。この時点では東京駅は1面2線のみで、臨時列車の大半は上野発着で残されていた。
1992(H4)年には、全2階建て「MAX」E1系がデビューした。首都圏の通勤利用の増大に対応した車両で、着席定員を増加させるため、自由席車両は3-3の座席配置としている。1997(H9)年には後継のE4系もデビュー。8連を基本とし、2本連結した16連運転も行う。
後の北陸新幹線となる長野行新幹線が開業した1997(H9)年10月、行先別に愛称が整理され、〔とき〕は〔あさひ〕と統合、新たに越後湯沢発着列車が〔たにがわ〕と命名された。しかし、〔あさひ〕の名が長野行新幹線に召し上げられた〔あさま〕と混同されやすいため、2002(H14)年には名称が改められ、〔とき〕の愛称が復活した。
2013(H25)年、1998(H10)年に導入されながら数年で撤退していたE2系が上越新幹線に復帰、その一方で、開業以来の顔だった200系が、3月に定期運用を終えた。新幹線で最後まで営業していた食堂車・ビュフェの営業終了も意味していた。
2016(H28)年3月より、秋田新幹線用E3系を転用した「GENBI SHINKANSEN」が営業を開始している。現代アートを車内で楽しむ、新しいコンセプトの観光列車で、越後湯沢~新潟間で週末を中心に運行されている。
越中・越前へのアクセス スーパー特急から新幹線へ
上越新幹線開業後の首都圏⇔北陸間の鉄道は、上越新幹線接続がメインとなった。1988(S63)年、長岡~金沢間に新設された特急〔かがやき〕には、専用色をまとい、グレードアップ改造された485系が導入されていた。しかし、1997(H9)年3月、高規格の第3セクター鉄道、北越急行ほくほく線が開業すると、新幹線接続の役割は、越後湯沢で接続し、北越急行経由で走行する〔はくたか〕に移った。北越急行は国鉄北越北線として計画され、国鉄の財政難により工事が一時凍結されたのち、第3セクター鉄道として建設が再開され、鍋立山トンネルなどの難工事の末開通した路線である。特急列車は最高速度140㎞/hで走り、2002(H14)年には在来線最速の160㎞/h運転を、JR西日本と北越急行の681・683系によって実現、最大13往復まで運行本数が拡大した。金沢~越後湯沢間は最速2時間30分に短縮された。一部は和倉温泉まで直通していた。
しかし、2015(H27)年3月の北陸新幹線金沢開業で、状況は一変した。〔かがやき〕は東京~金沢間を最速2時間28分で結び、開業前の上越新幹線+〔はくたか〕の最速3時間47分から大幅に短縮される事になった。在来線〔はくたか〕は廃止、北越急行保有の特急車両は、JR西日本に転籍していった。
北陸新幹線は、新潟県内は上越妙高(脇野田を改称)と糸魚川に停車、上越新幹線と合わせ、県内に(ガーラ湯沢を除き)7つの駅が設けられる事になった。岩手県と並び最多となる。〔かがやき〕は、新潟県は素通りとなり、新幹線に召し上げられた〔はくたか〕が両駅に停車する。東京~上越妙高間は最速1時間52分となり、長野新幹線〔あさま〕+信越線から1時間程度の短縮となった。上越妙高~金沢間はJR西日本によって運営されており、開業前から長野新幹線に導入されていたE7系に加え、JR西日本保有のW7系も使用されている。
E7系は3月16日改正より、上越新幹線にもデビューした。今後E4系MAX、E2系を順次置き換えていく事になる。E4系が引退すると、2階建て車両は、全ての新幹線から消える事になる。
北陸新幹線の開業により、北陸本線・信越本線の新幹線並行区間は、第3セクター鉄道に転換された。新潟県内はえちごトキめき鉄道の運営となり、旧北陸本線区間は「日本海ひすいライン」、旧信越本線区間は「妙高はねうまライン」となった。日本海ひすいラインは交直セクションを抱えているため、全線電化にもかかわらず、DC列車で運行されている。旧北陸本線はJR西日本、旧信越本線はJR東日本の運営だったが、移管前が別のJRの運営だったものが、単一の第3セクター鉄道に一本化される、初のケースとなった。なお、旧北陸本線の市振より西の富山県内区間はあいの風とやま鉄道により運営されるが、一部を除き、トキめきのDC列車が泊まで直通して乗り換えとなる。旧信越本線の妙高高原より南側、長野県内区間は、しなの鉄道北しなの線となった。
夜行列車 バスに対抗も県内から消滅
第3セクター鉄道開業により、新潟県内の信越本線は、直江津~新潟間のみとなった。新幹線開業前の特急〔北越〕・快速〔くびきの〕は廃止、新潟県内の特急〔しらゆき〕に再編された。〔フレッシュひたち〕から転用のE653系が導入されている。一部はトキめき・妙高はねうまラインの新井まで直通する。また、新潟~糸魚川間の快速が485系で設定されたが、2017(H29)年改正で廃止されている。日本全国の特急ネットワークに足跡を記した485系は、定期列車からは全て撤退した。
東北方面へは、上越新幹線開業後は特急〔いなほ〕が、新幹線から接続し、山形・秋田県の日本海側を結ぶ役割を果たした。2013(H25)年には、〔フレッシュひたち〕から転用のE653系が導入され、485系を順次置き換えて行った。2017(H29)年の新潟駅構内在来線ホームの一部高架化時より、同一ホームへの乗継ぎサービスを提供している。
大阪~青森間の「日本海縦貫線」では、昼行では特急〔雷鳥〕の一部が富山県から延長する形で乗り入れており、金沢~新潟間〔北越〕が補完していた。また、在来線最長となる特急〔白鳥〕が、大阪~新潟~青森間を結んでいた。夜行は大阪~青森間の寝台特急〔日本海〕の他、新潟向けには寝台特急〔つるぎ〕、急行〔きたぐち〕が大阪と新潟県内を結んでいた。しかし〔つるぎ〕は1994(H6)年に臨時格下げで事実上廃止、〔きたぐに〕は臨時格下げの後、2013(H25)年に廃止となった。583系最後の定期運用でもあった。昼行の〔白鳥〕も2001(H13)年3月改正で廃止、新潟県内は〔北越〕と〔いなほ〕に分割されている。
上越自動車道開通により開業した高速バスに対抗し、民営化直後の1987(S62)年、新宿~新潟~村上間に全車指定席の夜行快速〔ムーンライト〕が設定されていた。急行用165系にグリーン車と同等の座席を備えたサービス列車で、当初は編成毎に異なるカラーが注目されていた。後に〔ムーンライトえちご〕と改称、グリーン車組み込みの485系に置換えられたが、臨時格下げの後、2014(H26)年以降は設定がなくなった。
新潟県を経由する長距離夜行列車は、北陸方面行は長岡経由の寝台特急〔北陸〕と、長野経由の急行〔能登〕が、上野~金沢間を運行していた。また、信越本線長野経由の急行〔妙高〕は、上野~直江津間を結んでいた。しかし〔妙高〕は1993(H5)年に廃止、その名は、長野行新幹線開業後の長野~直江津間に設定された快速・普通列車の愛称に受け継がれ、北陸新幹線開業まで見られる事になる。また、寝台特急〔北陸〕は2010(H22)年3月廃止、急行〔能登〕は1993(H5)年の電車化の後、信越本線碓井峠区間の廃止により1997(H9)年に長岡経由に変更して運行を継続したが、やはり2010(H22)年3月に臨時列車に格下げ、以降廃止への道をたどった。
東北方面へは、秋田行寝台特急〔出羽〕が設定されていたが、1993(H5)年12月改正で廃止、代わって、山形新幹線工事のためルートを変更した〔あけぼの〕を改称した青森行〔鳥海〕が運行。後に秋田新幹線開業時に〔あけぼの〕の愛称を襲名したが、2014(H26)年3月改正をもって臨時列車に格下げ、事実上廃止となる。この結果、新幹線開業までは昼夜問わず特急・急行列車が行き交っていた上越線は、旅客輸送では普通列車のみのローカル輸送に徹する事になった。
SL列車の始発地新津 JR車両製造の拠点に
磐越西線は、かつては急行〔あがの〕なども運行されていたが、現在は快速〔あがの〕の他は、普通列車のみの運行になっている。県内の馬下・五泉までは増発も行われた。1999(H11)年4月29日より、SL列車〔SLばんえつ物語〕が運行されている。旧新津市内の小学校で静態保存されていた、C57 180号が動態復元され、グリーン車を含んだ12系客車を牽引して、新潟~会津若松間を結んでいる。
新潟県内のローカル列車は、信越本線や北陸本線、越後線、白新線や羽越本線などの直流区間では115系、米坂線や只見線などの非電化区間ではキハ40系が主力となっていたが、115系の代替として通勤型のE127系、後には近郊型のE129系が導入された。E127系は、後に一部がえちごトキめき鉄道に譲渡されている。米坂線や磐越西線には、他路線から転入の110系に加え、2008(H20)年にはキハ120形が導入され、110系と共通に運用されている。羽越本線では、50系客車による秋田県方面への直通運転が見られていたが、電車化・DC化により、大半は村上で系統が分割された。
大糸線はJR西日本により運営されているが、北陸本線の第3セクター転換により、在来線としては他線から孤立する事になった。民営化後、スキーシーズンには大阪方面からの〔シュプール号〕が運行された時期もあった。長らくキハ52形が使用され、最後の現役車両としてファンの注目を集めていたが、2010(H22)年にキハ120形に置換えられ、姿を消したが、その末期には、1両毎に異なる国鉄時代の旧塗装を復刻して運行していた。1両が千葉県のいすみ鐵道に引き取られている。
「鉄道の町」として発展した旧新津市のJR新津工場は、1994(H6)年10月、新津車両製作所として再編され、209系を手始めに、車両の製造を行うようになった。後に相鉄・東京都・小田急など向けの車両の製造も行っている。その後、JR東日本が東急車輌を買収して生まれた総合車両製作所が、新津車両製作所の車輌製造事業を統合した事により、2014(H26)年4月より、同社の新津事業所となった。新津には別に「新津鉄道資料館」がある。
ローカル私鉄 経営努力も新世紀迎えられず
新潟県内にはかつて、頸城鉄道や越後交通など、全域にわたってローカル私鉄の路線が見られたが、昭和末期までには大半が廃線となり、新潟交通と蒲原鉄道の小規模な路線が残るのみだった。燕~白山前間を結んでいた新潟交通は、新潟市中心部に近い東関屋~白山前間が、公道上の併用軌道を走るユニークな路線だったが、同区間は1991(H3)年3月いっぱいで廃止、東関屋駅にバスターミナルを新設し、新潟駅からの連絡バスを発着させていた。その後、1993(H5)年7月いっぱいで燕~月潟間が廃止、他鉄道路線から孤立する形態となり、残存区間も1999(H11)年3月いっぱいを持って、全線が廃止となった。
蒲原鉄道は元々、五泉~村松~加茂間を結ぶ路線だったが、1985(S60)年3月の村松~加茂間廃止以降は、残存区間4.2㎞のミニ私鉄として、磐越西線との接続に徹していた。しかし、利用の減少、車両・施設の老朽化に加え、村松~新潟間の高速バスの運行を同社自らが開始した事により、1999(H11)年9月いっぱいを持って、全線が廃止となった。現役車両の電動車両は、最後まで全車両吊り掛け式だった。両鉄道の廃止により、新潟県内からは、昔ながらのローカル私鉄路線は全滅した。
次回はデータ編です。
当ブログでは直接のコメントは受け付けないので、何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。
当ブログ上からでは発表できない緊急の事態が発生した時は、本体でお知らせします。
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