「横軽」廃止 碓氷峠鉄道文化むらオープン
東武〔りょうもう〕新車両導入で特急格上げ
東武〔りょうもう〕新車両導入で特急格上げ
長野新幹線開通 信越本線分断・ローカル線化
翌年に長野オリンピック・パラリンピックを控えた1997(H9)年10月1日、高崎~長野間に新幹線が開業した。当初は長野行新幹線の名称が使われていたが、後に長野新幹線の名称が、2015(H27)年の北陸新幹線開業まで使われた。
高崎~軽井沢間は、在来線の碓氷峠区間を大きく迂回するルートを取って急勾配を緩和したが、それでも新幹線では最急の30‰勾配が控えていて、急勾配と、軽井沢での周波数変化に対応する専用車両、E2系が導入された。
着工は1989(H元)年、当初は軽井沢までがフル規格で、長野県内は新在直通方式を採る予定だったが、オリ・パラ開催の決定で、全区間フル規格が採用される事になった。群馬県内には安中榛名駅が新設されている。
この開業は、在来線の信越本線に多大な影響を与える事になった。横川~軽井沢間の碓氷峠越え、通称「横軽」が廃線となったのである。1893(M26)年開業から、104年後の事であった。「横軽」はJR線最急の66.7%の勾配を控え、専用のEL・EF63型が後補機として、全ての列車の横川方に連結されて、急勾配を行き交う列車を支え続けてきた。しかし、整備新幹線として建設された新幹線の並行在来線はJRからの経営分離が基本となり、特急〔あさま〕が新幹線に転換されて廃止となると、残存の列車はわずかな本数の普通列車のみとなり、存続させた場合、運行のコスト面での懸念が避けられなかった。廃止後はバス代替となり、JR東日本のバス分社・JRバス関東が運行を担っている。信越本線は長野県側と分断され、普通列車のみとして、ローカル線化した。
横川には歴代の補機が配置されていた横川機関区があった。この跡地を活用し、1999(H11)年、「碓井峠鉄道文化むら」がオープンした。EF63型を中心に50両の車両が展示されている。EF63型4両は動態保存され、旧信越本線の線路を使用した運転体験を楽しむ事ができる。軽便蒸気のトロッコ列車も運行され、一大テーマパークとして通年賑わっている。
高崎線 「特急街道」から神奈川県への動脈へ
上越新幹線開業前の高崎線は、首都圏への通勤の足のみならず、信州・北陸及び東北地方日本海側への動脈として機能していた。上越新幹線開業後も、信越本線へは、189系特急〔あさま〕が主力として、上野と長野県北部を結んでいた。民営化後にはリニューアルも行われ、サービス向上も図られている。また、上野~金沢間〔白山〕も、JR西日本の489系によって運行が継続されていた。平成になった直後の1989(H元)年3月よりリニューアルされ、「ラウンジ&コンビニエンスカー」も連結された。
夜行列車は上野~直江津間〔妙高〕、上野~金沢間〔能登〕が「横軽」経由で運行されていたが、1993(H5)年には〔妙高〕が廃止、〔能登〕は客車から〔白山〕と共通の489系に置き換えられている。長野行新幹線開業により、〔能登〕は上越線経由に変更され、寝台特急〔北陸〕と共に首都圏~北陸間の足として走り続けていた。
この他、東北方面へは秋田行寝台特急〔出羽〕の他、1990(H2)年改正では〔あけぼの〕の内1往復が〔鳥海〕に改称の上、高崎・上越線経由に変更された。
高崎線では近距離の〔新特急谷川〕〔新特急草津〕〔新特急あかぎ〕があった。いずれも185系による運行で、高崎線内は併結運転も多く設定されていた。この他、軽井沢行〔そよかぜ〕など、季節に応じて多数の臨時列車が設定され、群馬県の北部から長野県・新潟県方面に向かっていた。
一般の列車は普通の他、快速〔アーバン〕と〔タウン〕(後に通勤快速)が運行されていた。長野行新幹線開業で在来線の〔あさま〕が廃止になると、空いた枠で普通列車の増発が図られている。長らく115系・211系が運用されたが、2000(H12)年よりE231系が導入され、在来車両を置き換えて行く事になる。
上越新幹線は、長野行新幹線開業と同時に愛称が整理され、新潟行は〔あさひ〕、越後湯沢・高崎発着は〔たにがわ〕と呼称するようになった。しかし〔あさひ〕は長野行〔あさま〕と混同されやすく、後に一度廃止した〔とき〕に変更された。
高崎線では2001(H23)年12月、新宿を経由し、神奈川県の東海道本線・横須賀線へ直通する湘南新宿ラインの運行がスタートした。民営化の時点でラッシュ時の赤羽折返し、日中の大宮折返しがあり、後に池袋まで延長されていたが、これをさらに延ばした形である。当初は日中のみ1時間に1本程度の本数で115系・211系が使われていたが、池袋・新宿付近の改良工事が完成した2004(H16)年改正ではE231系に統一され、運行本数・時間帯も大幅に拡大した。高崎線からの直通先は主に東海道線となり、〔アーバン〕を建て替える形で特別快速が設定された他、普通列車も快速と称する事になった。新宿~大船間で通過駅があり、横須賀線などと区別するためである。115系は淘汰された他、同時に、上野発着列車で使用される211系を含め、全ての快速・普通列車にグリーン車が連結される事になった。
〔あさま〕に代わって高崎線の主役となった新特急群は、「新特急」の3文字がなくなり、〔谷川〕は上越新幹線の愛称となったため〔水上〕と改称、〔草津〕〔あかぎ〕との3本建てとなった。〔水上〕は後に廃止となっている。急行時代から長らく高崎線特急で使用されてきた185系は、2014(H26)年以降、〔スーパーひたち〕から転用の651系に順次置き換えられ、通勤時間帯に、新たに全席指定の〔スワローあかぎ〕が設定された。一方夜行列車は、北陸方面は2010(H22)年に〔北陸〕が廃止、〔能登〕も臨時列車化の後廃止となった。東北方面行は1997(H9)年に〔鳥海〕から名を改めた〔あけぼの〕が2014(H26)年改正で廃止となり、この結果上越線は、渋川以北の特急・急行が消滅した。関越道の高速バスに対抗して運行されていた快速〔ムーンライト〕(後に〔ムーンライトえちご〕)も臨時列車に格下げにうえ、2015(H27)年以降設定がなくなり、廃止となって、群馬県から夜行列車が消滅した。
この2015(H27)年3月改正では、上野東京ライン開業により、高崎線は大半の列車が東京を経由し、東海道線へ直通運転する事となった。211系は高崎線から撤退して高崎以北のローカル運用に転用、代わってE233系が導入され、E231系との併結運転も見られるようになった。
上越線の普通列車は民営化の時点で、水上で系統が分断されており、水上より北は新潟の115系が運用されていた。2017(H29)年にはE129系の入線も始まっている。高崎~水上間では1988(S63)年よりSL列車が運行されており、後閑駅前で静態保存され、大宮工場で修復工事を受けて復帰したD51 498に加えて、2011(H23)年にはC61 21号機も戦列に加わった。また、ELやDLの牽引による運行もあり、信越本線に運行される日もある。旧型客車牽引による「レトロ」としても運行も多い。
両毛線は、前橋までは特急〔あかぎ〕系の他、東京方面からの高崎線直通も数多く設定されているが、前橋以東は線内ローカルのみで、伊勢崎までは毎時2本、その先は1本の設定である。115系に加えて、165系を更新した107系が使用されていたが、2018(H30)年までに211系に置き換えられた。107系の一部は、上信電鉄に移籍している。
吾妻線は、〔草津〕の他は普通列車のみで、〔草津〕は長野原草津口発着に短縮されている。さらに万座・鹿沢口より先、大前まで運行される列車は4.5往復しかない。岩原~長野原草津口間は2014(H26)年10月、国政の争点ともなった八ッ場ダムの建設によりルートが変更され、中間の川原湯温泉駅も移設された。「日本最短のトンネル」として知られた樽沢トンネル(7.2m)は、このルート変更により消滅した。
八高線は1996(H8)年3月に八王子~高麗川間が電化、川越線との直通運転に系統を変更し、高崎発着の非電化区間は高麗川折返しとなった。この時点で車両は、1993(H5)年より導入されたキハ110形に統一、キハ30系・キハ38形を置き換えた。
東武 〔りょうもう〕強化とローカル列車合理化
群馬県下における東武のスターは、浅草発着で館林・太田・赤城と、県南東部の主要都市を結んだ、全席指定の急行〔りょうもう〕であった。1969(S44)年以来、特急並のアコモデーションの1800系が使用され、平成の世になった時点では最新編成の1819Fも増備され、最盛期にあった。1991(H3)年には後継車両200系がデビュー、1800系を順次置き換えていく。DRCを種車にした新造車両で、スピードアップも視野に入っており、全車両200系と、その後継の250系で統一された1999(H11)年3月改正では最高速度を110㎞/hに引き上げた上、特急に格上げとなった。浅草~赤城間では最高で18分の所要時間短縮が実現している。1800系は一部が日光線急行用の300系・350系に転用、また一部は通勤車改造を行って、佐野線・小泉線に転用されたが、比較的短期で終了している。1819Fのみ、団体列車や、シーズン中の臨時快速として、2018(H30)までその姿が見られた。
〔りょうもう〕は2017(H29)年より、全列車が埼玉県の久喜に停車、JRとの接続を改善している。また、同年デビューの新特急車500系「リバティ」を使用した〔リバティりょうもう〕が、浅草→館林間に設定された。
伊勢崎線の館林以南は、羽生~川俣間が単線で残っていたが、1992(H4)年に利根川の橋梁が完成し、複線化された。一般列車は浅草から直通する準急が主力だったが、南北の輸送量の格差が大きくなってきており、2006(H18)年3月より太田で系統を分断、太田~伊勢崎間は800・850系によるワンマン運転となった。浅草~太田間も日中は久喜で系統が分断され、地下鉄半蔵門線直通列車に接続する形態となっている。2013年にはワンマン区間を館林~太田間にも拡大した。ワンマン運転は2003(H15)年開始の小泉線(太田~東小泉間)が初めてで、その後佐野線・桐生線にも拡大されていく。2006(H18)年には、太田駅の高架化完成に合わせ、小泉線~桐生線の直通運転が始まった。
日光線は板倉町を通過するが、以前は駅がなかった。東洋大学の板倉キャンパスが開設された事もあり、地元からの誓願により、1993(H5)年に板倉東様台前駅が開業した。当初から快速停車駅で、2013(H25)年からは、一部特急の停車も行われている。
ローカル鉄道の動向
上信電鉄は、平成の世が始まった時点では急行・準急の設定があったが、現在は全て普通電車である。輸送量の減少が続いていたため、1996(H8)年にはワンマン運転が始まった。沿線の富岡製糸場跡が世界文化遺産に登録された事で、近年は観光客の利用が増加、高崎~上州富岡間では増発も行われている。近年の中小私鉄では珍しく車両のオリジナル指向が強く、2013(H25)年には7000形がデビューした。貨物輸送は1994(H6)年に廃止、シーメンス製のELは定期仕業を失っている。
上毛電気鉄道は前橋と桐生を結ぶインターバンとして機能していたが、両毛線の電化・フリークェントサービス強化により、徐々に地域輸送にシフトしている。平成に入り2度の車両の入れ替えがあり、西武からの旧型車両は、元東武3000系を経て、2000(H12)年には元京王3000系の710+720形に置き換えられた。上毛では初の高性能冷房車である。同時にワンマン化も行われている。通勤時の区間運転で使用されていたオリジナルのデハ101は、貨物列車の機関車代用としても使用されたが、現在はイベント列車や工事用としての運行が見られるのみである。
県内唯一の特定地方交通線・足尾線は、平成の世になってすぐの1989(H元)年3月29日、第3セクター鉄道・わたらせ渓谷鐵道に転換された。国鉄・JR時代と比較して大幅な増発が行われたが、その後は観光輸送に活路を見いだす事になり、1998(H10)年より、「トロッコわたらせ渓谷号」の運行を開始した。DE10型DLが牽引するトロッコ客車は、元京王5000系を大改造している。2012(H24)年にはDCの「トロッコわっしー」も運行を開始している。第3セクター転換に合わせ、東武の〔りょうもう〕は、接続駅の相老を停車駅に追加した。神戸駅構内には、元東武特急DRCの車両を使用したレストラン「清流」がオープンしている。
データは次回、木曜日です。
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《今日のニュースから》
8日 明治時代製造の木造客車 展示に向け搬入 高知県佐川町
(シリア アサド大統領夫妻 コロナウィルス感染発表)
9日 カーボンニュートラルLNG普及へ協力 大手企業15社記者会見
(「7回接種可能注射器」調達検討 河野規制改革相表明)
佐川町に搬入された客車、というのは、1906(M39)年に製造され、大正から昭和にかけて高知県内を走り、その後は佐川町で展示されていたが、1968(S43)年に旧国鉄多度津工場で保管されていたというもので、町では来月上旬から公開したい意向のようです。
ガンバ大阪はコロナ感染陽性者が増えて、明日の大分トリニータ戦も中止になりました。2週間程度は活動を休止するとの事で、土曜日の札幌戦、来週水曜日の仙台戦、さらに日曜日のマリノス戦も難しいだろう。まずは感染者全員が現場に復帰、選手が存分にプレーできる状態に回復する事が望まれるが、ガンバはこの後ACLも控えているので、早いうちに体制を建て直して、チームとしても復帰を目指して欲しい。