№1398 思い出の海外旅行クロニクル 20.2003年ポルトガル 2
1回お休みしたが、ポルトガルの旅の「クロニクル」、続けます。
さて、南部のラゴスで一泊の後、ローカル列車を乗り継いで、バレイロ経由でリスボンに戻ります。
翌日もローカル列車を乗り継いでポルトへ。どちらも旧型DCが残っていました。
2002年 1月12日(日)
なんとか7時まで眠りました。薄ら寒い。外は今日も快晴のようだ。
レセプションは閉じたまま。傍らに椅子を並べて寝ていたお兄さんが、袋詰めの朝食を渡してくれました。
外に出ると、ちょうど朝日が上った所。街全体をオレンジ色に染める。それにしても寒いなあ。温暖な地、と聞いていたのに、少なくとも東京並みには寒かったです。
ファロ行客車列車。これも客車2連。今回はトゥネスまで乗ります。
YHでもらった袋を開くと、朝食、と言っても中身はパン2個にマーマレードとジャム、それにマーガリンが2個。駅で缶紅茶を買って一緒に食する。
ポルティマンの鉄橋を渡る。前の日もそうだったが、10㎞/h程度でノッソリ、ノッソリ。後部の窓からのぞくと、確かに貧弱だ。
トゥネス駅。街そのものは、こちらは田舎っぽい。バレイロ行IRに乗継ぎ。
地面の草地は、日陰になっている所は真っ白だ。夜は相当寒いはず。沿線の民家の煙突から、煙が出ているのも見かけました。
改めて路線を観察すると、駅構内はどこも大掛かりな工事が行われているが、駅と駅の間の本線は在来線を電化するだけで済ませるようだ。フンシェイラまで、こんな感じ。
フンシェイラ駅。
待っていたエヴォラ行は、えらく古い流線型のDC単行。モノクラスのはずだが、前方はかつては1等車だったらしい。元々2等だった部分は、ビニール地のクロスシートで、ピッチがかなり狭い。
フンシェイラからベジャまでの間は1日2往復のみ、明るい時間の列車はこの1本だけ。だからラゴスの出発も早くなったのだが。半室運転室で、もう半分は格好の展望スペースなのに、車掌が陣取っていたから、後部から過ぎ去る線路を眺める。オウリックで貨物支線を分岐したら、急に乗り心地が酷くなる。線路が貧弱で、木製枕木、バラストも少ない。
ひたすら牧草地の中を行く。
やがてベジャの町が見えてくると、白い建物が並んでまぶしいくらい。
カーサ・ブランカで進行方向が変わり、少しづつ高度を上げていくが、レールが更に貧弱になり、振動も大きくなる。
終点のエヴォラ。ここは旧市街地が世界遺産にも登録されている、この地方では中心のはずなのだが、駅自体は町外れで、観光客の姿もなく閑散。BARは賑わっていたが。駅員もいて、カーサ・ブランカからのICの予約もできました。
駅舎のアズレージョは、いずれもエヴォラの町の歴史を描いているようでした。解ったのは1637(寛永14)年のカスティーリャ暴動位だったが。日本では島原の乱が起きた年だ。
カーサ・ブランカまで戻る。改めて線路を後部から観察すると、軌間がかなり狂っているようにも見えました。それでも60㎞/hで下って行く。
カーサ・ブランカ駅は、運転の職員はいるものの、窓口は閉まっていて使われている様子はないし、BARも閉鎖されている。駅付近の民家もほとんどなくて、今や乗り換えのためだけの駅になっているのでしょうか。
バレイロ行IC592列車。ICの、それも1等車はさすがに上等。乗り心地も先のDCとは全然違う。何より暖かいのがありがたいです。
BAR車でカフェオレとサンドイッチを買って食べるが、おばさんが一人で切り盛り、と言ってもお客さんが少ないから、車掌とおしゃべりしている時間の方が長いように見えました。
戻ってきました、バレイロ駅。
テージョ川の南は、数年後には大激変が起きるだろうなと、この時点で思ったものだが、バレイロ付近にまでは改良工事が及んでいるようには見えず、恩恵を受けるのは貨物輸送なのかなあ、とか思ったりしました。
この後、テージョ川を横断する新線を経由して、アルファ・ペンドラーが南部に直通するようになったりするのだが、それは数年先の事。
バレイロの乗船場。
バレイロ~リスボン間のフェリー。それほど大型のものではありません。通勤・通学が主力か。
この日はリスボン郊外のオエイラスにあるYHに投宿。カスケイスへ行く路線で行くが、新型車両が入っていました。自動放送も。
YHは、案の定朝食が8時30分から、だって…。7時30分の出発はOK。夕食の提供はなく、YHがある敷地を管理するホテルの中のセルフレストランで取る事になる。とはいえ、ポルトガルに入ってから、初めて本格的な夕食を食する事となりました。
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2003年 1月13日(月)
6時30分には起床。今日も朝食を食べないで出発します。いい所なんだけれどなあ。
オエイラス駅は地下に窓口などがあり、駅舎は存在しない。
オエイラス駅構内で見られるアズレージョ。鉄橋が描かれています。
月曜日になり、駅前には路線バスが次々発着、通勤通学客が吐き出され、ホームを埋め尽くします。この光景は、多少規模は違えども、日本のそれと対して変わらないと思いました。
快速電車の車内で、あちらこちらからケータイの着信音が聞こえてくる所も。車内はクラシックが流れているな。
電車から、朝日が見えました。今回の旅は、日本出発の青砥以降、朝日に縁があります。
4月25日橋を、ダブルデッカーの列車が走って行くのが見えました。
カイス・ド・ソドレ着後、サンタ・アポローニャ駅まではバス。エントロンカメントに向かうICの出発ギリギリに着きました。ICは全席指定で、いちいち指定券を買わなければならないのが辛い所。
この路線は以前も乗った事があるが、いくらか変わった所も。屋根がえらく高いオリエンテ駅が開業していました。
ICのBAで朝食…と言っても、サンドイッチとクロワッサン、それにファンタ(合計4.60€≒590円)なんて、こんなの朝食じゃないよお。リスボンに着いてからこれまでの所、食事、特に朝食には恵まれていない。何しろホテルもYHも、朝が遅いので。
エントロンカメント駅は、1996(H8)年10月29日に降り立った事がありました。あの時はマドリードからのタルゴ夜行でいったんリスボンまでやり過ごしたのち、ローカルの乗り継ぎでポルトに向かう途中でした。あの時は本線直行でした。今回はローカル線経由、コビリャン乗継で行きます。
エントロンカメント始発のコビリャン行。「R」=ローカル列車。
アブランテスまでは、マドリード方面へ向かう本線を走ります。この路線も乗った事がありました。
アルモウロル城は、テージョ川の中州にあります。
さらにテージョ川の右岸をさかのぼり、ベルヴェルでリスボン行と行き違う。向こうは車運車を連結していました。
ロダンでテージョ川と別れ、高度をどんどん上げて行きます。
サルナダス駅。
エストレーラ山脈。最初は遠くだなあと思っていたのだが、カスティーリョ・ブロンコ、アルカイデと過ぎるとだんだん近づいてきます。
フーンダン駅。ここでもリスボン行と行き違い。列車の外は寒かった。
どの駅も、駅舎の腰部はアズレージョで飾られている。青ではなく緑、という駅も少なくない。フーンダンもそうでした。
終点のコビリャン。場違いとも思える高層ビルが多い。山腹の上の方まで集落が広がっている。山岳リゾート、なのでしょうか?
グアルダ行のオンボロDCは、着いたホームの前方でポツンと待っていました。ずいぶん汚い。山道ゆえスピードはほとんど出ないのに、左右にローリングする感じでかなり揺れます。ドアも手動で、走行中も開きっぱなし。
ベルモントを出ると岩が多くなる。マサイーニャスを過ぎたら、乗客は5人だけ。
ヨタヨタした走りだった割には、グアルダは早めの到着になりました。スペイン方面からの電化路線と合流。
このグアルダ駅、突然という感じの、ガラス張りの斬新な白亜の駅舎になっていて、とてもポルトガルの駅とは思えない。「i」と「r」を組み合わせたような青いマークが掲げられている。ここまであちこちで見かけてきたものだけれど、何のマークなのでしょうか?
コインブラ行は電車。前後でタイプが違う3連ユニット×2の6連。
今度はどんどん下って行く。車窓も穏やかになってきて、羊の放牧も見られるようになってきました。
再びエストレーラ山脈が見えてきました。東側から北側を回り込む形で走ってきた訳です。だんだん赤く染まってきました。
驚いたのが、これ。カナス・フェレグレイロの駅の外れ、電車の車体がズラリ並んでいました。多分リスボンの地下鉄の廃車体だと思うが、なぜこんな所に?
とか感じている内に、外は暗くなってきました。パンピローサで乗り継いでポルトへ。街全体がライトアップされたような感覚でした。
ポルトは7年前にも来ているが、あの時は乗り継ぎだけで精一杯、市内観光や、まして乗り物乗り歩きなどできませんでした。
今回は昼過ぎまでは市内で電車やバスに乗ったり、あるいは撮影したり、で過ごします。新型LRTの運行も始まっていました。
ここで書いた路線の内、旧型流線型DCで乗ったフンシェイラ~ベジャ間と、コビリャン~グアルダ間は、後に廃線になってしまったようです。
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《今日のニュースから》
12日 「さんふらわあ だいせつ」 室蘭港に接岸
13日 松阪市 市議会リコール不成立 市長辞表提出