№1398 思い出の海外旅行クロニクル 20.2003年ポルトガル 2

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 1回お休みしたが、ポルトガルの旅の「クロニクル」、続けます。
 さて、南部のラゴスで一泊の後、ローカル列車を乗り継いで、バレイロ経由でリスボンに戻ります。
 翌日もローカル列車を乗り継いでポルトへ。どちらも旧型DCが残っていました。

2002年 1月12日(日)

 なんとか7時まで眠りました。薄ら寒い。外は今日も快晴のようだ。
 レセプションは閉じたまま。傍らに椅子を並べて寝ていたお兄さんが、袋詰めの朝食を渡してくれました。

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 外に出ると、ちょうど朝日が上った所。街全体をオレンジ色に染める。それにしても寒いなあ。温暖な地、と聞いていたのに、少なくとも東京並みには寒かったです。

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 ファロ行客車列車。これも客車2連。今回はトゥネスまで乗ります。
 YHでもらった袋を開くと、朝食、と言っても中身はパン2個にマーマレードとジャム、それにマーガリンが2個。駅で缶紅茶を買って一緒に食する。

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 ポルティマンの鉄橋を渡る。前の日もそうだったが、10㎞/h程度でノッソリ、ノッソリ。後部の窓からのぞくと、確かに貧弱だ。

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 トゥネス駅。街そのものは、こちらは田舎っぽい。バレイロ行IRに乗継ぎ。

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 地面の草地は、日陰になっている所は真っ白だ。夜は相当寒いはず。沿線の民家の煙突から、煙が出ているのも見かけました。
 改めて路線を観察すると、駅構内はどこも大掛かりな工事が行われているが、駅と駅の間の本線は在来線を電化するだけで済ませるようだ。フンシェイラまで、こんな感じ。

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 フンシェイラ駅。

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 待っていたエヴォラ行は、えらく古い流線型のDC単行。モノクラスのはずだが、前方はかつては1等車だったらしい。元々2等だった部分は、ビニール地のクロスシートで、ピッチがかなり狭い。

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 フンシェイラからベジャまでの間は1日2往復のみ、明るい時間の列車はこの1本だけ。だからラゴスの出発も早くなったのだが。半室運転室で、もう半分は格好の展望スペースなのに、車掌が陣取っていたから、後部から過ぎ去る線路を眺める。オウリックで貨物支線を分岐したら、急に乗り心地が酷くなる。線路が貧弱で、木製枕木、バラストも少ない。

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 ひたすら牧草地の中を行く。
 やがてベジャの町が見えてくると、白い建物が並んでまぶしいくらい。

 カーサ・ブランカで進行方向が変わり、少しづつ高度を上げていくが、レールが更に貧弱になり、振動も大きくなる。
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 終点のエヴォラ。ここは旧市街地が世界遺産にも登録されている、この地方では中心のはずなのだが、駅自体は町外れで、観光客の姿もなく閑散。BARは賑わっていたが。駅員もいて、カーサ・ブランカからのICの予約もできました。
 駅舎のアズレージョは、いずれもエヴォラの町の歴史を描いているようでした。解ったのは1637(寛永14)年のカスティーリャ暴動位だったが。日本では島原の乱が起きた年だ。

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 カーサ・ブランカまで戻る。改めて線路を後部から観察すると、軌間がかなり狂っているようにも見えました。それでも60㎞/hで下って行く。

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 カーサ・ブランカ駅は、運転の職員はいるものの、窓口は閉まっていて使われている様子はないし、BARも閉鎖されている。駅付近の民家もほとんどなくて、今や乗り換えのためだけの駅になっているのでしょうか。

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 バレイロ行IC592列車。ICの、それも1等車はさすがに上等。乗り心地も先のDCとは全然違う。何より暖かいのがありがたいです。
 BAR車でカフェオレとサンドイッチを買って食べるが、おばさんが一人で切り盛り、と言ってもお客さんが少ないから、車掌とおしゃべりしている時間の方が長いように見えました。

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 戻ってきました、バレイロ駅。
 テージョ川の南は、数年後には大激変が起きるだろうなと、この時点で思ったものだが、バレイロ付近にまでは改良工事が及んでいるようには見えず、恩恵を受けるのは貨物輸送なのかなあ、とか思ったりしました。
 この後、テージョ川を横断する新線を経由して、アルファ・ペンドラーが南部に直通するようになったりするのだが、それは数年先の事。

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 バレイロの乗船場。

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 バレイロ~リスボン間のフェリー。それほど大型のものではありません。通勤・通学が主力か。

 この日はリスボン郊外のオエイラスにあるYHに投宿。カスケイスへ行く路線で行くが、新型車両が入っていました。自動放送も。

 YHは、案の定朝食が8時30分から、だって…。7時30分の出発はOK。夕食の提供はなく、YHがある敷地を管理するホテルの中のセルフレストランで取る事になる。とはいえ、ポルトガルに入ってから、初めて本格的な夕食を食する事となりました。

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2003年 1月13日(月)

 6時30分には起床。今日も朝食を食べないで出発します。いい所なんだけれどなあ。

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 オエイラス駅は地下に窓口などがあり、駅舎は存在しない。

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 オエイラス駅構内で見られるアズレージョ。鉄橋が描かれています。

 月曜日になり、駅前には路線バスが次々発着、通勤通学客が吐き出され、ホームを埋め尽くします。この光景は、多少規模は違えども、日本のそれと対して変わらないと思いました。
 快速電車の車内で、あちらこちらからケータイの着信音が聞こえてくる所も。車内はクラシックが流れているな。

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 電車から、朝日が見えました。今回の旅は、日本出発の青砥以降、朝日に縁があります。

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 4月25日橋を、ダブルデッカーの列車が走って行くのが見えました。

 カイス・ド・ソドレ着後、サンタ・アポローニャ駅まではバス。エントロンカメントに向かうICの出発ギリギリに着きました。ICは全席指定で、いちいち指定券を買わなければならないのが辛い所。
 この路線は以前も乗った事があるが、いくらか変わった所も。屋根がえらく高いオリエンテ駅が開業していました。

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 ICのBAで朝食…と言っても、サンドイッチとクロワッサン、それにファンタ(合計4.60€≒590円)なんて、こんなの朝食じゃないよお。リスボンに着いてからこれまでの所、食事、特に朝食には恵まれていない。何しろホテルもYHも、朝が遅いので。

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 エントロンカメント駅は、1996(H8)年10月29日に降り立った事がありました。あの時はマドリードからのタルゴ夜行でいったんリスボンまでやり過ごしたのち、ローカルの乗り継ぎでポルトに向かう途中でした。あの時は本線直行でした。今回はローカル線経由、コビリャン乗継で行きます。 

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 エントロンカメント始発のコビリャン行。「R」=ローカル列車。
 アブランテスまでは、マドリード方面へ向かう本線を走ります。この路線も乗った事がありました。

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 アルモウロル城は、テージョ川の中州にあります。

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 さらにテージョ川の右岸をさかのぼり、ベルヴェルでリスボン行と行き違う。向こうは車運車を連結していました。
 ロダンでテージョ川と別れ、高度をどんどん上げて行きます。

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 サルナダス駅。

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 エストレーラ山脈。最初は遠くだなあと思っていたのだが、カスティーリョ・ブロンコ、アルカイデと過ぎるとだんだん近づいてきます。

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 フーンダン駅。ここでもリスボン行と行き違い。列車の外は寒かった。
 どの駅も、駅舎の腰部はアズレージョで飾られている。青ではなく緑、という駅も少なくない。フーンダンもそうでした。

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 終点のコビリャン。場違いとも思える高層ビルが多い。山腹の上の方まで集落が広がっている。山岳リゾート、なのでしょうか?
 グアルダ行のオンボロDCは、着いたホームの前方でポツンと待っていました。ずいぶん汚い。山道ゆえスピードはほとんど出ないのに、左右にローリングする感じでかなり揺れます。ドアも手動で、走行中も開きっぱなし。

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 ベルモントを出ると岩が多くなる。マサイーニャスを過ぎたら、乗客は5人だけ。

 ヨタヨタした走りだった割には、グアルダは早めの到着になりました。スペイン方面からの電化路線と合流。

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 このグアルダ駅、突然という感じの、ガラス張りの斬新な白亜の駅舎になっていて、とてもポルトガルの駅とは思えない。「i」と「r」を組み合わせたような青いマークが掲げられている。ここまであちこちで見かけてきたものだけれど、何のマークなのでしょうか?

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 コインブラ行は電車。前後でタイプが違う3連ユニット×2の6連。

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 今度はどんどん下って行く。車窓も穏やかになってきて、羊の放牧も見られるようになってきました。

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 再びエストレーラ山脈が見えてきました。東側から北側を回り込む形で走ってきた訳です。だんだん赤く染まってきました。

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 驚いたのが、これ。カナス・フェレグレイロの駅の外れ、電車の車体がズラリ並んでいました。多分リスボンの地下鉄の廃車体だと思うが、なぜこんな所に?

 とか感じている内に、外は暗くなってきました。パンピローサで乗り継いでポルトへ。街全体がライトアップされたような感覚でした。

 ポルトは7年前にも来ているが、あの時は乗り継ぎだけで精一杯、市内観光や、まして乗り物乗り歩きなどできませんでした。
 今回は昼過ぎまでは市内で電車やバスに乗ったり、あるいは撮影したり、で過ごします。新型LRTの運行も始まっていました。

 ここで書いた路線の内、旧型流線型DCで乗ったフンシェイラ~ベジャ間と、コビリャン~グアルダ間は、後に廃線になってしまったようです。

 当ブログでは直接のコメントは受け付けないので、何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。
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《今日のニュースから》
12日  「さんふらわあ だいせつ」 室蘭港に接岸
13日 松阪市 市議会リコール不成立 市長辞表提出

№1397 どこへ行けばいいのか スカイマーク

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 スカイマーク(SKY)が5日の債権者集会で、ANAホールディングス(ANAHD)などを支援企業とする自らの再建案が可決され、この案を持って経営再建がスタートする事となりました。
 この件についてはチョコチョコと思う所を書いてきたが、昨日、NHKの公式Webサイトで、経済記者の署名入りの解説記事が掲載されたので、これを読んだ上で、改めて記してみたいと思います。
 私は経済オンチなので、本当に私が事の表面上から感じた事しか書けませんが、その辺はご了承を。

NHK NEWS WEB Business特集「羽ばたくか新生スカイマーク」
http://www3.nhk.or.jp/news/business_tokushu/2015_0810.html


 解説記事の要点として、まず5日の債権者集会は、ANAHD支援のSKY案と、デルタが支援企業に名を連ねたイントレピッド案が諮られ、投票の結果SKY支援案が可決されたとしています。
 私自身は、海外も含めてJAL・ANA以外の航空会社が入った方が良いと何回か書いていたし、デルタの名前が出た事で、流れが変わったかも知れないと感じていました。記者も「仕切り直し」の結果も予想していたとしています。しかし、債権総額の60%以上の支持でSKY案が選択されたとの事で、少々意外な大差だと思いました。もう少し僅差になるかと思ったので。

 ANAHDとデルタの争いになった要因として、羽田空港の発着枠があるとしています。現在SKYは羽田発着枠を36枠保有。ANAはこれを取り込めれば、ADO・SNA・SFJ共同運航便も含めて羽田枠の60%を占める事が出来る。デルタはこれを機に日本国内市場への足掛かりを築きたかったという事です。デルタは5年前、経営破綻したばかりのJALをスカイチームに取り込もうとして失敗しているだけに、何としてもSKYのネットワークは欲しかったのでしょう。今回も失敗した事で、日本国内線を組み込むのは、もう難しくなったかもしれません。
 ANAHDがSKYにこだわるのは未だ経営再建中のJALの存在があり、JALは2016年度末まで投資に制限があるので、それまでに少しでも差を広げておきたかったのだろう、としています。
(昨今のANA国際線の矢継ぎ早の新路線開設のアナウンスも、その一環でしょう)
 ここで、ANAHDは勝利のために、エアバスなどの大口債権者に対し、将来の航空機購入を「約束」したと言われている、という下りが、私にも気になる所です。このエアバス機購入者がANAHD(ANA)の事なのか、SKYの事なのかは解らないが。ANAHDは現在A320・A321の「neo」を合計30機発注しているが、これでは足りないというのか。大型機はB777Xを選定しているが、これを変える事が有り得るのか。同様にSKYはB737-800の後継機をB737「MAX」と発表しているが、これもA320に変える事になるのか。しかしそうなると今度はボーイングとの関係がギクシャクする事は十分予想されます。個人的には、航空機メーカーにとって航空会社は「お客様」のはずなので、購入に関して客にああしろこうしろというのはヘンな話だという気がします。航空機、特に大型機は「高い買い物」なので、買う側だけでなく売る側にもそれなりのリスクがあるので、こういう揉め事もあるのだろうが。
(A380がいい例だった)

 また記者は、破綻後のSKYは「主導権争いの連続だった」と指摘しました。今回通ったSKY案にしても、メインスポンサーの投資会社インテグラルと、支援企業に応募したANAHDの間で、出資比率や経営陣の体制を巡って激しい対立があり、監査委員の仲裁で何とか形になった。それもつかの間、イントレピッドが対抗案を提出、さらにデルタの名前が出た事で争いは激化する事になった、として、結果として「利用客の視点に立った議論が深まらなかったという印象はぬぐえない」と記しています。
 私は、マイナスから建て直す企業の経営再建とは、結局そういうものだろ?とか思っています。まして先の羽田枠のように、とてもオイシイ所を我が手中に収めん、とするなら、こういう事にもなるのでしょう。

 その後、社用車のナンバー「380」「330」「129」について触れた後、記事は最後に「かつて日本の空に『価格破壊』をもたらし、風穴を開ける役割を果たしたSKYは、存在感のある航空会社として生まれ変わり、再び羽ばたく事が出来るだろうか」と結んでいます。この辺は当たり障りのないまとめ、という感じです。

 今後はANAとの共同運航を軸に、利用者の増加を図り、再建を目指す事になるでしょう。ただ、懸念材料として、これが独占禁止法に抵触する事になりはしないかという事。羽田枠全体の60%はいいとしても、路線によっては共同運航をやると、70%弱はANAが関わるフライトになります。福岡線は8月ダイヤでANA18便、JAL17便、SKY11便、SFJ8便。ANAは既にSFJとコードシェアを行っており、これにSKYを加えると、54便中37便、68.5%はANAの便名が付く事になります。新千歳路線も似たようなものになり、公正取引委員会がスンナリ認めるのかどうか。

 SKY独自の方向性は、個人的にはやや難しい所もあると思います。再建の過程で路線網を縮小、仙台や米子などからも今後撤退するが、それでもある程度は全国規模のネットワークはあります。ただ、ADOやSNA、SFJはある程度地域に密着した営業政策もあるが、SKYは逆にそれがやりづらくなるでしょう。となるとどういう方向に行くべきなのでしょうか。私には解らない。個々の関係者がうまく考えるのだろうとは思います。「地に足をつけて」というのは、SKYの発足の経緯や会社のカラーからして馴染まない言い方かもしれない。ただ、前社長の元で起きたような「ウケ狙いの一発勝負的な営業政策」だけは、ここではやめてもらいたいと思います。今回はANAHDの重しがあるので、そうはならないだろう、とは思いますが。
 SKYそのものの今後は、私自身ももう少し様子を見た方が良いのかなと思います。

 ついでに感じた事をいくつか。まず、西久保前社長の経営責任の追及はきちんとなされるべきです。単に会社の経営を破綻に追い込んだだけではなく、先に記した「ウケ狙い」の政策(CAユニフォーム問題とか)で社の内外を混乱させた一方、、5年前には運航に直接介入して、機長を「クビ」にした事例もあるからです。
№161で書きました。国土交通省から厳重注意も出た割には、なんだかウヤムヤのまま終わっている気がする)
 これはSKYという会社そのものの問題もあるが、外野の問題もあるかと思います。昨今のIT企業隆盛の影響なのか、本来個々の社員や中間管理職などの地道な努力・熱意などが会社を支えているはずなのに、それが特定の「カリスマ」経営者の功績にすり替えられている傾向が、航空に限らずどの業界もこの十数年、非常に強く出ています。SKYに対しても、そんな所はなかったでしょうか?
(最近だと、エアアジアあたりもそんな所があります)
 もう少し外野のジャーナリズムが、少しは醒めた眼で彼らのやる事を見るべきでしょう。それは10年前のライブドア事件でも浮き彫りになった事のはずです。

 それと関連して、JAL・ANAに伍する「第三極」の確立をSKYに求めていた部分は大きかったと思います。
(JALのJAS統合後は特に)
 でも、「第三極」って、そんな簡単にできるものなのでしょうか?JALにしろANAにしろ、方向性は違えどもどちらも戦後民間航空の再開から60有余年の年月をかけ、様々な苦難を乗り越えつつここまで来ているのです。新興航空会社に、わずか数年でここまでの成長を促せるものでしょうか?小国の日本で、既にある程度航空輸送がポピュラーになり、一方で新幹線など航空業界外との競争も厳しい、となると相当大きな資本力などのエネルギーが必要になるはずです。「第三極」ではないが、韓国のアシアナ航空、台湾のエバー航空は一気に世界的メジャーにのし上がり、先発の大韓航空やチャイナ・エアラインに対抗しうる勢力になりました。しかしアシアナはクムホグループという大財閥が、エバーはエバーグリーンという世界有数の海運企業が共にバックに控え、莫大な資本力でのし上げてきた部分も大です。日本に、それだけのエネルギーを持つ大企業グループは、あるでしょうか?
 私たち自身も、海外の事例を見てないものねだりをしたくなる部分はあるけれど、それが出来得る環境にあるのか?法規制以上に物理的な要素がタイトな日本(羽田枠はいい例)で、海外と同じような事はできるのか?イケイケドンドンではなく、もう少し冷静に見る事も必要なのではないでしょうか。

 ともあれ、今後のSKYがどこへ向かうは、それこそ日本の航空業界全体の動向にも関わってくる事でしょう。確かに、その道筋は、目に見える部分見えない部分それぞれに注視すべき事となるでしょう。
 私自身は、ある程度運営が落ち着いた時点で、再度SKYを利用してみようと思っています。あくまでSKY便として。

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 次回は、ポルトガル旅行の「クロニクル」に戻る予定。

 JR北海道が留萌本線・留萌~増毛間の来年度中の廃止の方針を、留萌市と増毛町に伝えました。この区間は1日の乗降人員が39人だそう(多分、深名線末期より少ない)で、安全対策の投資も考えると、これ以上の存続は不可能という事です。JR北海道では既に石北本線や室蘭本線で数駅の廃止が打診されているが、現在の状況ではこの先も、路線や駅の廃止の話が矢継ぎ早に出てきそうです。
 東武鬼怒川線のSL運転の話は驚き。再来年度目標で、東武では51年振りだそうだが、大手私鉄全体ではいつ以来?

《今日のニュースから》
10日 「宇宙栽培」の野菜 油井航宙士らが初試食
11日 落語家 桂歌丸 高座に復帰

 レッドソックス・上原浩治投手の右手首骨折が判明し、今シーズン残りは絶望となりました。来月7日、フェンウェイパークでの試合観戦を予定しているのだが、ここで見る事はできなくなりました。来年まで契約があり、復帰できるかどうかまでは解らないが、年齢も考えると、少なくとも野球人生最大のピンチになったのは間違いないのではないですか?

№1396 思い出の海外旅行クロニクル 20.2003年ポルトガル 1

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「思い出の海外旅行クロニクル」、今回は欧州大陸の西の果て、ポルトガルです。私としてはやや異例だが、年明けの1月の旅になりました。
 このポルトガル旅行については既に、昨日再公開した本体の「ポルトガルのバス 2003」上で、PDFファイルで記しています。私が所属している海外鉄道研究会の会報に寄稿したもの(亡くなられた長真弓さんの依頼で書いたものでした。読み直してみると、テキストの記述法は、長さんの影響をかなり受けている)で、鉄道を中心に、ポイントごとにまとめて記したものです。
 ここでは改めて時系列どおり、日本出発から帰国まで旅の全体を、やや短いが5回に分けて書きたいと思います。
 ポルトガルは1996(H8)年、2度に渡って訪れています。どちらも欧州全体にまたがる旅のルートに組み込んだもので、ポルトガル単独は初めてでした。過去2回は訪れていない、テージョ川の南も訪れています。
 また、2年前に貨幣が流通したユーロ(€)を、今回初めて使う事になります。

2003年 1月10日(金)

 今回はパリ経由、往復ともJALのB747-400です。成田空港までは京急と京成を乗り継いで行きました。

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 7時前、青砥駅の高架ホームから仰ぎ見る朝日。冬の朝はさすがに遅い。ポルトガルはもっと遅くなるのだが。

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 第2ターミナルのJALチェックインカウンター。前年にJASとの経営統合が決まり、「Arc of the Sun」の新デザインも発表になっていて、カウンターにもロゴが掲げられていました。

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 パリ行JAL415便。JA8921。サテライトのD96番スポットに、既にスタンバイ。
 遠くにはJAAのB747クラシックの姿が。

 定刻10時に出発。「パリは曇り時々雪」のアナウンスに、「雪だって!」とオバサマ方がどよめく。

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 タキシング。新カラーのA300-600Rが現れた。まだJAS便としての運航でした。

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 R/W34Lからテイクオフ。貨物地区を見下ろす。

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 牛久駅上空を通過し、右手には筑波山。隣の女性2人組は「富士山」とかのたまっていた。何を寝ぼけた事を。イタリアの情報誌を読んでいた。

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 離陸から10分で小山上空。

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 定番のオツマミ。

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 離陸後、1回目の食事。洋食は、チキンのコルドンブルーがメイン。

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 キャビンの様子。

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 映画「K-19」。

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 ゲーム。「インベーダー」だ!
(若い人には解るかな?)

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 日本海を越えて、離陸から2時間でアムール川。川というより、真っ白な「雪原」?

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 パリが雪だというなら、シベリアは当然ガチガチ。
 でもキャビンの暖かさに浸っていると、外気温-65℃が信じがたい。

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 JALのキャビンでは、手作りのマップにルートを記し、ギャレー付近に貼ってある事が多かった。クラシックからの伝統なのだろうか。「MAGIC」機だからシートテレビでもルートは表示されるが、この心遣いには温かみを感じる。
 この日は北のルートを飛行、ウラル山脈上空は通過しない。

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 リフレッシュメントの菓子パンとコーヒー。

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 到着前、2回目の食事。パスタグラタン。

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 ストックホルムのアーランダ空港。前回のノルウェー旅行の時は、ここから帰国の途に就きました。成田離陸から10時間弱。

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 すぐ真下、AYのA320が見えました。ジリジリと追い抜いて行く。
 アナウンスでパリまであと1時間と告げられるが、同時に「パリは-3℃」とアナウンスがあると、キャビンは再びどよめく。

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 オランダ・フローニンゲン上空。オランダも真っ白。

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 CDG着陸。サァッと雪煙が上がる。パウダースノーだ。
 それにしても、ターミナルが遠い。10分以上走って、まだが見えてこない。ようやく、もう1機JALのB747-400がターミナルFにいるのが見えたのに…。

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 なんとターミナルに背を向け、オープンスポットに着いた。日本発欧州路線で、降機にバスを利用するのは、今回が初めての体験になりました。外に出るとさすが-3℃。やはり寒かったです。

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 左はAF。右はレバノンのMEA。
 バスで2~3分走って、ターミナル到着。

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 リスボン行が出発する、F26番ゲートがあるフィンガー。カーブがかかった、ガラス張りの屋根が印象的。ゲートの境界がないので、相当広々見える。

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 リスボン行AF1924便。A320-200。
 搭乗はスムーズだったはずだが、何故か20分以上の遅れで出発。

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 タキシングの最中、コンコルドを見た。現役のコンコルドを見るのは、これが最後になりました。
 R/W09Rからの離陸は、例によって待たされました。出発から35分かかってようやく離陸。CDGは平行滑走路が2組あって成田より遥かに広いのに、どうしていつもこんなに離陸まで時間がかかるのだろう?

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 A320のキャビン。

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 機内食は欧州内路線のナローボディ機にしては意外にもホットミール、魚がメイン、ライスが添えられている。比較的長距離だから?食後は少しウトウト。時差が…。

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 夕暮れ時の、エストレーノ山脈。南側がオレンジ色に染まっています。これから、列車からも見る事にもなります。

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 着陸間近、リスボン上空。街明かりが美しい。

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 到着は定刻より28分遅れ、さらに増幅してしまった。CDGの「渋滞」がたたったか。

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 到着ロビー。ポルテラ空港は首都の空港ながら、ターミナルは成田やCDGに比べたら小ぢんまりした感がありました。

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 ポルテラ空港は1996(H8)年7月10日にも降り立ち、バスで市中に向かっています。あの時はミニバスだったが、大型のノンステップバスにグレードアップしていました。渋滞に悩まされつつ、中心部のロシオに着いたのは、もう19時を回っていました。
 ホテルに投宿するが、明日は土曜日で、朝食は7時30分になるそう。翌日はテージョ川を渡ってバレイロから列車に乗るプランなので、どうしようか。

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2003年 1月11日(土)

 考えた末、翌朝は朝食を食べずにホテルを出発、テージョ川を渡るバレイロ行フェリーの乗場(テレイドロパソ)へ向かいます。それにしても朝がとても遅い。7時を回って、ようやく東の空がボンヤリと明るくなってきました。
 このフェリーは鉄道の連絡船、という訳ではないようで、鉄道のパスでは乗れません。1.05€(≒135円)。

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 テージョ川にかかる、4月25日橋。
 8時になってようやく朝日が昇り、リスボンの町をオレンジ色に染める。航行時間30分でバレイロに着きます。町の中心から離れているのか、案外殺風景な場所。

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 バレイロからの鉄道は、当時は電化されていませんでした。ファロ行IR871列車はDL牽引で客車4両。その車内。

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 しばらくは複線区間が続く。ただ、信号機は少なく、列車の本数はそれほど多くはなさそうだ。
 セトゥーバルからは架線が見られるようになるのだが、まだ電気運転は行われていないようでした。この後、あっちこっちと電化の単線の合流・分岐が繰り返されるようになる。貨物専用路線?

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 グランドゥーラから先は、あちらこちらで線路が新線に切り替わり、旧線の跡が見られるようになる(左手の鉄橋もそう)。新線は架線も張ってあるし、どうやら南部では総合的な改良工事が進行中のようでした。この時点では、エルミダス・サドまで。

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 オレンジの三角屋根と白い壁の民家が印象的な、山間部の農村地帯が続きます。

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 バレイロから4時間半でファロ駅。駅そのものは田舎っぽいが、高層ビルも遠くにいくつか見られ、思ったより都会っぽい。列車は引き続きヴィラレアル・デ・サン・アントニオ行となって、すぐに出て行きました。

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 ドン・フランシスコ・ゴメス広場。

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 ラゴス行ローカル列車。客車2両。トゥネスまでは今乗ってきた区間を戻る事になります。普通列車だと思うのだが、いくつか駅を通過して行く。停留所然として、停車がない所もあるようだ。ローレまではノンストップでした。

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 ローカル列車の車内。ガラガラ…。
 という訳で、メガネをかけたひげの太った車掌は、列車走行中は知り合いらしき女性とひたすらオシャベリ。IRでもそうだったが決まった車掌の居場所がなく、ドアは手動、放送設備もない旧型車両だから、異常がなければ他には仕事がないって事でしょう。

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 シルヴェスでファロ行と交換。向こうも客車2両。

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 終点のラゴス駅。ファロから1時間半。大西洋に面したビーチリゾートらしいが、何しろ真冬なので観光客は少ない。だからだろう、駅も市中も、ホテルの客引きがしつこい。この日の泊りはYHと決めていたから、全部振り払って足早になる。
 そのYHは空きがあったが、朝食タイムが何と朝9時~11時。これでは8時の出発には間に合わんと持ちかけると、出発の時に朝食のパックを渡してくれる、と言ってくれました。

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 美しいヨットハーバー。中心部は道がクネクネ曲がり、石畳という事もあって、車だと走りづらいはずだ。

 さて困った事に、YHの部屋は暖房がなくて寒い。レセプションに聞いても、毛布で調節してくれというだけ。幸い部屋は他に誰もいないから、毛布を3枚被って早々床につくが、良く眠れるかどうか心配…。

 当ブログでは直接のコメントは受け付けないので、何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。
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《今日のニュースから》
 8日 「或る列車」運行開始 大分駅でセレモニー
 9日 日本バスケットボール協会制裁解除 国際バスケットボール連盟が正式決定