2001(H13)年は、私にとっては一大転機となりました。
早い話が、それまでの鉄道乗務員の職から離れ、別の部署に転属になった事です。
詳しくは記せないが(決してやましい事ではないですよ)、そういう事情もあり、この1年はそれまで続けてきた欧州旅行をお休みせざるを得なくなりました。
一度に長期の旅行の日程を組む事が出来なくなったためであり、代わって短期になるけれど、ついに初めてアメリカを訪れる事となりました。
航空雑誌にロサンゼルス空港での旅客機撮影ガイドがあったので、一度アメリカに行って、彼の地の旅客機をガンガン撮りまくろう、そういうプランでした。
ところがご存じの通り、この年の9月11日、あの「同時多発テロ」が発生、アメリカはもちろん、世界の全てが大混乱に陥る事になります。
そういう状況の中の10月、当初の構想通り渡米。それが私のノーテンキぶりを現してしているのですが。
実質4日の短期ではあったが、ロスはほぼ全日快晴。テロ警戒の警官によって場所の移動を余儀なくされた事も一度二度ではなかったが、ともかく旅客機を撮りまくってきました。結構満足できる旅はできたと思っています。
今回から4回に分けて書きます。
2001年10月26日(金)
今回は初めて、往復ANAの利用となりました。クラシックはフランクフルト線で乗った事があるが、ダッシュ400は初めて。
当時のANAでは、1999(H11)年に開設されたシカゴ線に3機が導入された「シカゴスタイル」が一押しでした。上級クラスにビジネスコーナーやバーコーナー、エコノミークラスにも全席パーソナルモニターを備えた最新のサービスを誇っていました。
ただ当時のシカゴ線は利用が定着しなかったのか一時休止(「9.11」とは関係ない)、この3機は「スーパースタイル」と呼称し、成田→ニューヨーク→成田→ロサンゼルス→成田のパターンを3日で完結させる運用に就いていました。
ロサンゼルス行NH006便、JA404A。
当時のANAは第2ターミナル発着。旧JASのマークも見えます。
出発はサテライトのD95。当時はシャトルで移動。
D95番ゲート。パッと見た限り、お客さん、すごく少ない…。「搭乗時にパスポートの写真を拝見します」とのアナウンスも。
ANAは既にスター・アライアンスに加盟していて、この便はNH便名の他、UA8232・AC6845のナンバーもついていました。
搭乗開始。ボーディングブリッジに出ると、分岐部でまた荷物検査(これはランダムで、私は調べられず)。成田で既にテロ警戒が始まっていました。
エコノミーのキャビンに収まると、お客さん、やっぱり少ない。全体の1/4以下?
10月後半の17時過ぎとなると、もう外は真っ暗。
天井のモニターで離陸の様子を放映。パーソナルモニターでは見られなかったのが残念。
離陸直後のアナウンスでは、食事のナイフ・フォーク類は保安強化のため全てプラスチック製になるとの事。事前に知っていた事だけれど。
離陸直後のオツマミ。
パーソナルモニターにはルート表示。鹿島を経由して東に向かう。
キャビン。ご覧のとおりガラガラ。CAに旅客数を聞いてみた。Yクラス、46人!座席数228だそうだから、利用率20.17%。上級クラスは健闘しているようだが、やはり観光客が激減しているという事だろう。全体では86人、26.87%。
離陸後の食事。アナウンスの通り、ナイフ・フォーク・スプーンはプラスチック。私はエコノミーだし、割り箸も使うからあまり気にはならないけれど、上級クラスでも同じ事、ビジネス・パーソンやセレブの心境はいかに。
ゲーム。将棋。全く歯が立ちませんでした…。
日付変更線を越えるのは初めて。夜は明けても日付は同じ。
天井のモニターでは、エクササイズのプログラムを放映。パーソナルモニターでも見られます。「エコノミークラス症候群」対策だと思います。CAの実演で、当時のユニフォームも注目。
到着前の食事。ワッフル。
ずっと太平洋上を飛んできたが、だんだん大陸が近づいてきた。カラッカラ。これがカリフォルニアの大地か。
ロサンゼルスの大都会。白っぽいという印象。当たり前だが、欧州とは大分趣が違う。人工的という印象。
都心は快晴なのに、空港付近は霧が発生していた。KEのB747-400が離陸して行くのが見えるが、すぐに姿が見えなくなってしまった。他にもアジアのキャリアが目立つ。
直接スポットには入らず、トーイングカーの牽引で到着。
トム・ブラッドレーターミナルの到着ロビー。ここへ来るまでの間、入国審査で帰りの航空券の提示を求められたり、税関へ申請書の提出が必要、などやはり欧州とは手続きがかなり異なりました。テロ直後だから、というより、不法移民対策だったのではないでしょうか。
雲は広がったままだが、中心部の天気からして、すぐ晴れるのではないだろうか。とりあえず下見。「LAXシャトル」のバスで、撮影ポイントを下見。その途中垣間見たフリート群。ANA以外にもアジア勢が並ぶ。JALは2機だ。
「LOTCA」で降りて、階段を上がった陸橋上の歩道から、北側のR/W24Lに着陸する機体が撮れそうだ。ただし、コミューターの小型機は300㎜でも小さく、B737でもギリギリだ。離陸機はちょっと無理。
思った通り、青空が戻ってきてくれました。いつどうなるか解らんから、どんどん撮ります。
日本より遥かに浮き沈みが激しいアメリカの航空業界の事、既になくなってしまったキャリアも多数あるし、現存のキャリアでもカラーが今と異なる所が多くあります。もちろん、今では見られない型式もあります。日本では見られない、それらのフリートを中心にご覧頂きます。
ATA(アメリカトランス航空) L-1011-100 N163AT
今はもうないが、かつては日本の米軍基地にも頻繁に来ていたそうです。
ユナイテッド航空 B737-300 N394UA
当時のUAの低運賃部門“Shuttle by UNITED”。
ANA機が成田へ向けて帰る所を見る事も出来ました。今の目で見ると、コクピットの窓が街路灯の柱と被ってしまったのはまずかったかな。あまり意識がなかったのか、あるいは側面の「全日空」の3文字を入れたかったのかも知れない。
LAは滑走路が4本もあるのに、離陸機が数珠つなぎ。さすが航空大国。
サウスウエスト航空 B737-300 N609SW
スペシャルカラー「カリフォルニア・ワン」。
ブリティッシュ・エアウェイズ B747-400 G-CIVA
台湾路線対応のブリティッシュ・アジア・エアウェイズタイトル。当時のワールドイメージ「チェルシー・ローズ」。
カナダ3000 A320-200 C-GVXD
今はないカナダのキャリアです。
16時前には再び雲が広がってしまったので、今日はここまで。
サンタモニカのYHまで、バスに乗っていきます。「Big Blue Bus」(サンタモニカ地区のバス 画像は後で出します)3系統はさすがアメリカ!人種のるつぼ。
サンタモニカの海岸線。
サンタモニカの通り。
カモメ。
夕陽が、水平線の向こうにゆっくり消えていきました…。
来て良かったです。
サンタモニカ全景のポストカード。
もうとてつもなく眠い。思えば、日本より東に行くのが初めて。時差の影響がバリバリ出ていました。先のバスの中もひたすら居眠りだったし。21時にはさっさと床につきます。長い長い10月26日でした。
次回以降も、日本では見られないフリートを中心に、旅客機をふんだんにご覧頂きます。
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