№1334 思い出の海外旅行クロニクル 16.2000年イタリア 1

画像

 今回の「思い出の海外旅行クロニクル」は、2000(H12)年10~11月のイタリア旅行について、8回に分けて書きます。
 イタリア単独の旅行は1995(H7)年にも行っていて、当ブログでも書いたが、あの時は最後の最後、ミラノで置き引きにあってしまって、自ら台無しにしてしまいました。ただ、もちろんあれは自分自身のチョンボから来るもので、イタリアそのものには悪いイメージはありません。多少私の感性には合わない部分はあるが、あくまで個人の性格からくる印象であって、イタリアそのものは今も昔も、十分魅力的な旅行先です。
 ただ、最後の置き引き被害に至るまでを考えると、夜行列車利用が多すぎて、南に北に右往左往し過ぎ、多少疲労を蓄積し過ぎて判断力を鈍くしていたのかも知れません。そこで今回はもう少しゆったりした日程として、ミラノを基点に、基本的に時計回りでイタリア半島を巡るスタイルとしてみました。それと、夜行列車は利用はするが、多少減らして連泊はなくしました。
 また、シチリア島と共にサルディーニャ島も訪ねます。この島にもイタリア鉄道(FS)が走っているので。
 多少は前回のやり直し、という意識も持って、この旅に臨みました。

2000年10月24日(火)

 イタリア入りは、JAL445便を選択しました。この頃には既に欧州路線は他社も含めてほとんど全便が直行になっていたが、当時のJALには週1便だけモスクワ経由ローマ路線があり、途中経由便そのものにも興味があったし、入出国審査がないトランジットのみとしても、ロシアに足を踏み入れられるのが面白そうで、わざわざ日程を調整して選択したものでした。

画像

 成田空港第2ターミナル。両替なのだけれど、小学生があちこちに見られる。社会科見学らしく、なんと目の前のアメリカ人の夫人にアンケートに協力してもらっていた。黄色い帽子が、何とも浮いている。話が通じるのがうれしそうで、折鶴をプレゼントしていました。
(アンケートに英語が書いてあったようだ)

画像

 JL445便。JA8917。1年前に就航した新鋭機。
 30分程遅れて出発。

画像

 離陸。東関東自動車道の成田インターを見下ろす。円形が印象的な建物はヒルトンホテル。

画像

 今回はアッパーデッキでした。ナローボディ機みたいな独特の雰囲気があります。
 取手が見えたところでベルトサイン消灯。

画像

 先にオツマミがサービスされます。この頃には長岡を経由して日本海へ。

画像

 離陸後最初の食事。洋食はパスタ。

画像

 キャビン最前部だったので、シートテレビは肘掛内蔵タイプでした。「シティ・オブ・エンジェル」のニコラス・ケイジとメグ・ライアン。
 シベリア上空は、ひたすら雲がかかって、何も見えやしない。
 と、アナウンスで、「後方のトイレで煙草を吸われる方がいたが、絶対に吸わないように」みたいなアナウンスがあった。ロシア上空では、何があっても緊急着陸はできない、とも。本当…?
(この時期には、既に全席が禁煙になっていた)

画像

 モスクワ到着前の食事。ボックスミールとは軽いが、東京~モスクワ間だけだと10時間弱程度だし、モスクワ~ローマ間でも食事が出るので、こういうスタイルになっているのだろう。それにしてもクロワッサンサンドとちらしずしとは、妙ちくりんな取り合わせだなあ?
 いよいよモスクワに向けてのディセンドにかかる。CAが背もたれに何やらシールを張って回っている。「OCCUPIED 使用中」と書かれていて、引き続きローマに向かう旅客の場所に張っているようだ。

画像

 名前は解らんが、着陸直前、左手に大きな湖を見ます。高速道路が横切っています。これがモスクワの、ロシアの街か。
 先にモスクワが目的地の旅客が降り、その後ローマまで通しの旅客が降りる形になる、通しの客はトランジットカードを受け取り、空港ロビー内で待つように、とアナウンスがありました。

画像

 当時のJALは、モスクワ市中心部より北にある、シェレメチェボ空港の発着。着陸すると、当然アエロフロート(SU)機が多いが、西側のLHやAFも見られる。誘導路の状態は、あまり良くないように見えました。「ターミナルが小さいね」と後方から声が聞こえてくる。

画像

 遅れを取り戻せないまま、5番ゲートに到着。ここで1時間程度駐機になります。

画像

 あまり評判が良くなかったシェレメチェボ空港ターミナルだが、トランジットオンリーでは実態は解らない。古びていて、やや狭いのはまあ予想通り。ただ、ロシア語が意外に少ないなあと思った。
 免税品店では、日本人旅客も思い思いに買い物を楽しむ。エリツィンやゴルバチョフのマトリョーシカ人形が並んでいました。当時大統領になったばかりのプーチンの人形はまだなかったよう。値段は米ドル建てでした。
 再度搭乗が始まるが、大改修前の成田第1ターミナルのサテライト同様、入国客と出発客が同じ平面で交差する形になっていて、やや待たされることも。なお、モスクワ~ローマ間オンリーの利用も可能だが、そういうお客さんはいなかった模様。

 再度出発する頃には、外はかなり暗くなってきた。この便のクルーはモスクワでの交代は降機はせず、機内のエグゼグティブクラスの中央部に便乗で乗っていました。
 タキシング中外を見ると、エンジンカバーをかけられた機体がやたら多かった。IL-86も何機がいたが、全て使われていないように見えました。

画像

 離陸。

画像

 モスクワ近郊の団地。

画像

 モスクワ~ローマ間の食事。トレイだがコールドミール。

画像

 イタリア上空。もう日は沈み、この後は暗くなる一方。

 この後はもう真っ暗になってしまい、一方で時差ボケ+やや体調不良もあったのか?全然写真を撮っていないし、あまり記憶もなくて、ローマ・フィミチーノ空港の印象が薄くなってしまっているのは、申し訳ありません。せっかくの初降り空港なのに。到着ゲートからターミナルまでゴムタイヤの新交通システムだった事、マシンガンを担いだ警備兵が多かった事、この便のお客さんの大半は団体ツアー客だった事は、記してあるのだが。

画像

 従って次は、空港からテルミノ駅までの空港アクセス鉄道「レオナルドエクスプレス」の始発駅。ホームまでは地下道で移動します。

画像

「レオナルドエクスプレス」はプッシュプルトレイン。先頭の制御車には車椅子専用のコンパートがあり、JALの札をつけた親子らしき日本人がいた。成田で優先搭乗が行われた時に、先に乗り込んだ人たちでしょう。
 淡々と闇夜を走る。放送や検札は何もなく、ウトウトする間に、テルミニ駅に着きました。
 駅から徒歩5分程のホテルに投宿。

********************

2000年10月25日(水)

 本格的に鉄道の旅が始まる。ミラノ行ESで出発。当時は「ユーロスター・イタリア」と呼称していました。

画像

 ミラノ行9404列車。日本で予約済み。7時30分出発なので、ホテルの朝食は食べないで出てきました。サマータイム終了直前のローマは7時でもまだ薄暗いが、駅には活気があります。
 前回イタリアに来た時は、旧型のETR450に乗りました。ETR500は初めて。

画像

 2等車の車内。ボックスシート中心。指定された6号車は7~8割方埋まっていました。
(私は日本で予約済み)

画像

 食堂車はレストランと立食のBARに分かれています。レストランは、私の他はご婦人一人だけだったが、ぱらぱらお客さんが増えてきました。

画像

 朝食はコンチネンタル・ブレックファースト1種類のみ。13,000ITL(≒650円)。

画像

 BARコーナーは終始賑わっていました。

画像

 高速新線に入ってグングンスピードが上がる。川を渡る。
 グングンスピードが上がるが、車内は静寂だ。ただ、あちらこちらからケータイの着信音が聞こえてくる。1等ではノートPCを使うビジネスマンの姿も。そういう時代になりつつありました。

画像

 南欧調の薄茶色の屋根が印象的な、山間部の集落。

 フィレンツェで進行方向が変わる。フィレンツェは郊外を列車で走っている限りは、普通の大都会の一つ、と見えました。
 高速新線は終わり、山越えの区間は目立ってスピードが落ちる。

画像

 ボローニャを過ぎてミラノへの本線に合流すると、平坦な田園地帯となり、畑が広がってくる。
 太り気味の車掌さんが検札に回ってきた。制服はやはり、以前に比べてずっと良くなっていた。以前はファッションの国にしては野暮ったいなあと感じたものだったが。

画像

 ミラノ中央駅到着。定刻の到着でした。

画像

 イタリア東部はヴェネチアは行った事はあるが、その先は足を踏み入れた事は無い。ウディーネ経由で、大陸側では最東端のトリエステを目指します。ウディーネ行IC。落書きが酷いのは、相変わらずか…。

画像

 ミラノ方面行とすれ違い。

画像

 ウディーネ駅。もうスロベニアとの国境とはそんなに遠くないです。

画像

 トリエステ行のローカル5989列車。釣り掛け駆動の旧型車。この電車もまた落書きが酷く、先頭車は車号(Le 803 024)が読み取れない程でした。
 ウディーネ発車時点では帰宅の客でそれなりに込んでいたものの、2つ3つ駅に停車したらもうガラガラ。

画像

 イタリアでは特に変哲のない、近郊タイプの車内。荷物棚が、日本の過去の修学旅行電車みたい。

 トリエステに着くころにはもう真っ暗。YHに電話したら空きがあるとの事で一安心。ただ、アクセスのバスが解りづらく、乗り間違えたりしながらなんとかたどり着きました。海に面して良いロケーションと映ったが。
 翌朝の朝食は7時30分だって。遅い…。午前中はトリエステ滞在なので、たっぷり寝ます。

 当ブログでは直接のコメントは受け付けないので、何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。
 当ブログ上からでは発表できない緊急の事態が発生した時は、本体でお知らせします。

 今日は全国的に風が強くて、成田ではIBEX機が着陸時に主翼を接触させたらしい。各地で被害も相次いでいるようです。戸塚はようやく収まってきたでしょうか。遠くからはまだゴーゴー聞こえてくるが…・。

《今日のニュースから》
 4日 上西小百合衆議院議員 維新の党より除名処分 
 5日 バスケットボール女子Wリーグ JX-ENEOSが7連覇達成

№1333 バスマガジンvol.70(講談社ビーシー/講談社)

 青函トンネルの〔スーパー白鳥〕の発煙は、もう少し情報がないと、今の所は何とも言えないです。でも、JR北海道はまだ落ち着きを取り戻せていないのだろうか…。とりあえず、人的な被害がないのは何よりだと思います。

「バスマガジンvol.70」が先月末発売になりました。

画像

いすゞエルガ・シリーズのすべて
 早いもので、いすゞエルガのデビューから、今年で15年になります。
 今号ではマイナーチェンジのエルガ・ハイブリッドと現行モデルのラインナップ、そしてその歴史。
 エルガ・ハイブリッドは昨年乗る機会がありました。最後部座席に座ったのだけれど、バッテリー搭載部のために、出入りがやや不便に感じられたものでした。マイナーチェンジ車では車体の軽量化で着席定員が3人になったそうだが、もう少し搭載部を小型化して、出入りが楽になれば良いと思う。
 形態の識別としては、KL-LVは公式側エンジン部メッシュあり → PJ-LVはなし → PK(D)G-LVは長方形の小型メッシュあり → LK(D)G-LVは再びなくなり、後輪前にアドブルー供給孔あり、という所でしょうか。QP(K・D)Gは外観上の判別はほぼ無理か。
 個人的には、ほぼ唯一のライバル・三菱ふそうエアロスターのマイナーチェンジが、エルガ(及びブルーリボンⅡ)にどう影響を与えるかを注目したいと思います。

画像

ヒュンダイ自動車 南陽研究所探訪記
 現代の日本販売車両は今の所ユニバース(HD)だけだが、今後他のバス、路線車などを売り込むプランはないのだろうか。九州で走りだしたファイバー社製の電気バスは、現代には刺激を与えたのでしょうか。
 試験もさる事ながら、南陽の研究所そのものとか、ソウルのバスターミナルの記事が興味深く読めました。南陽は鉄道が走っていない町で、出退勤はどうしているのだろう?社食のランチメニューは2種類だけ?日本だと定食の他にうどんやラーメンなどを食べられたりするけれど。無料とはすごいが。
 現代は韓国を代表する大財閥だが、「ナッツ・リターン」事件もあって、財閥に対する国民の目はいつになく厳しくなっているようです。現代に対してはどうでしょうか。
 高速バスターミナルは4年前に訪れていて、№502で書きました。広いなあとは思ったが、あれでもほんの一部でしかなかったのか?韓国はソウル・釜山だけでなく、地方のバスターミナルもかなり広いらしく、日本以上に高速バスがポピュラーなんだなと思わされました。高速道のバス専用レーンもうらやましい限りだが、片側4車線を確保できないと設定は難しいか?

路線バスで行く!アニメ聖地巡礼
 PART3にして、「聖地巡礼」のもはや代名詞と言える「あの花」が登場。過去2回もそうだが、テキストを書いている人って、アニメも詳しいんだろうなあ。
 吉田の龍勢祭りは、以前から私も知っていました。「あの花」ではなくって、№538で取り上げたSFコミック「プラネテス」で、主人公ハチマキの弟・九太郎が龍勢祭りについてウンチクたれるシーンがあったので。ロケットのルーツなのだとか。
 西武秩父駅は出てくるが、バスそのものはなかったのか。秩父巡礼バスのボンネット車は、元々は西武高原バスの軽井沢向けに導入された車両でした。
 他のアニメでもそうだが、この「聖地巡礼ブーム」が、そのままバス利用の定着に結び付く事が望まれます。

帰ってきた 路線バス全方位レポート
 新シリーズのvol.02は宮城県で、2009(H21)年のvol.38以来。当ブログスタート直後の刊行で、№95で書きました。
 やはりこの間の大震災が、宮城県のバスに与えた影響は大でした。BRTもそうだし、仙台市営バスも未だ運行を再開できていない区間があります。「るーぷる仙台」は今年2月にようやく震災前のルート・ダイヤに戻ったそう。
「ノンステップ率は政令指定都市のある県では最低レベルだそう」と前回書いたが、仙台市営に限ると今回は195台・31.25%と、前回の74台、14.56%から大きく上がりました。「規模縮小傾向」なのは今回も変わらないらしいが、全体の車両数は508台→624台と大幅に増えています。登録番号9000番台は、震災支援車両でしたか。上2桁は年式(西暦下2桁)と思われるが、9801号車は写真はあるのに、リストには含まれていない。廃車になったのか?
 宮城交通・ミヤコーバスは、車両数の記載はありませんでした。前回は他に愛子観光バス・桜交通・仙南交通・松島国際観光バス・グリーン観光バス・新栄観光バス・黄金バスが独立して記されていたが、今回は愛子観光バスのみ独立して記され、他は「自治体運行バス運行事業者」の一覧に記されています(桜交通・松島国際観光バスは廃止)。あと、東日本急行バスは記されているが、JRバス東北はありませんでした(前回は掲載あり)。仙台~古川線が引き続き運行されているのと、仙台市営バスを一部受託しているので、載せても良かったと思います。

おじゃまします バス会社潜入レポート vol.70 近江鉄道・湖国バス

画像

 グループ全体で滋賀県全体を網羅しているが、南高(近江鉄道本体エリア)北低(湖国バス)なのはやはり変わりはないよう。湖国バスは琵琶湖の西の高島市にも路線があるが、長浜〔営〕からの回送だと、かなり距離があって不経済だと思うが、分車庫でもあるのだろうか。
 立命館大学のキャンパスを結ぶ路線で高速バスに再参入、という事だが(今日現在は正式発表なし)、一つの大学のキャンパス同士を結ぶとは、それほど学生の行き来が多いという事なのか?草津キャンパスのターミナルには案内所もあるそうで、京阪バスは既に中書島駅~草津キャンパス路線を運行しているし、この地域で立命館大学とは、バス輸送の点で無視できない存在と見えます。ただ、衣笠キャンパスは北部の竜安寺の方角なので、一本で結ぶとは考えにくいが。
 一方で栗東市のコミュニティバスを受注しているが(6路線中2路線で、他は帝産系が運行)、市の財政難の影響で、土曜日の運行を取りやめたとか(休日はもともと運休)。京都・大阪にも近い上に、JRAのトレーニングセンターもあるのに、市の収入は増えないのでしょうか?
 リバイバルカラーは、写真だからかも知れないが、一目見て「あれ、こんな色使いだったっけ?」と思った。手元に昔取った旧塗装車の写真があるが、グリーンはもう少し濃かったです。再参入の高速バスは「レジェンドブルー」になるが、昼行路線ではやや重いカラーだと思います。といって先代のライオンズカラーは、肝心のライオンズがもう使っておらず、そもそも西武系だからって、近畿圏でいつまでもライオンズカラーとはどうなのかとも思う。オリジナルカラーを模索しても良い時期ではないでしょうか?
 車両面では当然西武から転籍の日産ディーゼル車だが、来年には連接バスが走るそうで楽しみ。
(南草津駅のJR新快速停車は、2011(H23)年3月12日改正から)
 歴史的には、一度早くに分社しながら、再度鉄道に統合して現状を維持しているのが、昨今の業界全体の傾向としては異例。

終点の情景を求めて 第2回 三戸海岸
 京急バスの三浦半島南端のローカル路線は、これまでも他誌で取り上げられているが、京急電鉄の駅に接続しない系統もあり、その歴史は興味深いです。ここでは出てこなかったが、営業所に近い三崎東岡の乗場もローカル色を感じる佇まいでした。
 三戸海岸のバス停は、三崎口駅から歩いて行った事があります。歩いて行けるので、便数が限られたものになっているのでしょう。

 次号は、首都高速中央環状線に注目したいと思います。特に空港バスはどう変わるでしょうか。

 当ブログでは直接のコメントは受け付けないので、何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。
 当ブログ上からでは発表できない緊急の事態が発生した時は、本体でお知らせします。

 今日は全国的に風が強くて、成田ではIBEX機が着陸時に主翼を接触させたらしい。各地で被害も相次いでいるようです。戸塚はようやく収まってきたでしょうか。遠くからはまだゴーゴー聞こえてくるが…・。

《今日のニュースから》
 2日 イラン核開発協議 最終的解決の枠組みで合意
 3日 タイ-日本路線増便 条件付き認可 国土交通大臣が表明
 タイはICAOより安全上の課題を指摘されていて、これを受けて日本が新路線就航や在来路線の増便の認可を見合わせていたものです。とりあえず、既に就航済みのキャリアの在来路線の増便やチャーター便の就航を、5月一杯まで認める方向。

№1332 バスジャパン・ハンドブックシリーズS87 都営バス

 新年度になりました。ウィラートレイン(京都丹後鉄道)に四日市あすなろう鉄道など今日から新たにスタートするもの、熊本市営バスや小松島市営バスなど昨日を持って終わってしまったものと、交通の世界も様々変わりました。2015年度はどう移り変わるでしょうか。私なりの目線で見て行きたいと思っています。

画像

「バスジャパン・ハンドブックシリーズS87 都営バス」が先日発売になりました。

画像


 都営バスは国鉄・JRバスと並ぶ人気事業者で、前身の「バス・ジャパン」(BJ)創刊号(1986(S61)年)では早速特集で取り上げられ(都市新バス「グリーンシャトル」スタートもある)、その後ハンドブックシリーズに移行した後も、シリーズが変わる度に必ず取り上げられてきました。1993(H5)年のシリーズ1、1997(H9)年のNEW21、、2005(H17)年のR56です。
 ハンドブックシリーズではこれまで「東京都交通局」のタイトルだったが、今回は通称の「都営バス」としています。西鉄と同じです。

◆ 都営バスの車両たち
 車両数に若干違いがあるように思います。深川〔営〕の日野が1両少なく、全体では1,461両が正しいのではないでしょうか。これをベースに分析します。

1. 気づくのは、型式数の少なさ。25型式しかありません。もちろん個別の型式の中にバラエティもあるが、NEW21が70型式、R56が47型式だから大幅な減少になりました。
(車体メーカーが異なる場合は、同じ型式に含めた)
 特定車が全滅、貸切車も5両(1型式)のみになり、特殊なシャーシーの観光車両もなくなった事、低床試作車・リフト車の全廃、メーカーの統合(J-BUSの発足、UDトラックスの撤退)、何よりも購入方式が入札になったため、一つの年度ではほぼ全車が同型になった事が理由として挙げられます。
 また、一時期は一定の割合があった中型車も、現在は〔市01〕系統専用のエルガミオ7両のみ。
 車体メーカー統合もあり、BJ創刊時のような、形態的な面での趣味的な面白さは失われてしまったと思います。利用する分にはどうでも良い事だが。
 日産ディーゼルPKG-RA274KANが171両で都営路線車全体の11.74%、三菱ふそうLKG-MP37FKが166両で11.40%、日野KK-HR1JNEEが160両で10.99%を占めています。

2. 乗合車の車両数は1,456両で、「R56」と比較して27台減になりました。
 BJ創刊号(1986(S61)年)では1,887両だったそうだから、30年近くで430両、20%以上も減りました。1997年では1,814両だったが、2005年では1,456両なので、21世紀に入ってから大きく落ち込んでいます。大江戸線全線開業に伴う再編成の時期と一致します。 
 23区に限定し、やや強引だがナンバープレートの地名で「品川」「練馬」「足立」のエリアに分けてみました。足立エリアが50.63%と半分以上になった一方、練馬エリアは29.94%と30%を割っています。都営バスは元々この傾向にあったが、シリーズ1時点では品川エリア20.56%、練馬エリア37.62%、足立エリア41.83%だったので、重心がだんだん東の下町方向に移動している事が、車両の配置からも伺えます。
 営業所別では江戸川176両、深川154両、品川125両と、大規模な団地を控えた臨海部の営業所が多くなっています。一方で早稲田は本所ながら43両、小滝橋50両、千住65両と少なく、営業所によって所属両数にはかなりのバラつきがあります。用地の問題もあるかも知れない。

3. 乗合車の平均車齢は7.84年。R56の5.18年からはかなり延びました。
 営業所別では品川が4.74年、深川が4.79年と若い一方、青砥〔支〕12.86年、臨海〔支〕11.44年、青梅〔支〕11.28年、港南〔支〕11.08年、杉並〔支〕10.78年と、支所の平均車齢が高くなる傾向があります。
 最経年車は2001(H3)年式で64両。大塚〔支〕に12両あり、支所廃止で運命を共にするかも知れません。
 年によって導入数にかなりバラつきがあり、2003(H5)年は300両、2005(H7)年は247両に対し、間の2004(H6)年は6両しかありません。2013(H25)年も20両に留まっています。

4. 乗合車のノンステップ率は99.93%、江東区コミュニティ用リエッセ1両を除いて全面ノンステップ化が達成されました。リエッセはCNG車なのであと5年は走れると思われるが、それまで走る事になるのでしょうか。
 ハイブリッド車は2005年110両(乗合車の7.43%)→2014年130両(8.93%)に増加。逆にCNG車は2005年149両(10.06%)→2014年33両(2.27%)と大きく落ち込みました。

5. メーカー別では(貸切5台を含める)、いすゞ24.23%、日産ディーゼル18.82%、日野34.22%、三菱ふそう22.72%で、日野が全体の3分の1以上を占めています。
 日産ディーゼルは元々割合が低く、(貸切・特定も含めて)1993年でも20%に達していませんでした。三菱ふそうも20%の前後を行き来する感じ。1997年まではいすゞが3分の1強だったが、2005年で日野が逆転しています。

◆ 都営バスのあゆみ
 2005年までは繰り返し取り上げられているので、それ以降の目立った動きを整理すると、

1.はとバスへの委託の開始
2.PASMO導入
3.観光路線バス運行開始
4.東日本大震災による経営環境の悪化(特に東電株の下落)
5.終夜バスの試行

が挙げられるかと思われます。
〔梅70〕系統については「協議中」としていたが、昨日を持って柳沢駅~小平総合庁舎間は廃止、代わって今日から花小金井駅北口への乗り入れが始まりました。以前柳沢~青梅間を乗り通した事があって、特に廃止区間を含めた東側は、西武新宿線に並行するし、西武バス路線網もあって、人の流れに若干合っていないなあ、いずれ見直しがあるかも知れないと感じていました。
 なお、大塚〔支〕も29日を持って廃止になったが、S87全体でこれについて触れられた個所はありませんでした。

◆ 都営バスの路線エリア
 大泉学園駅・等々力への路線がなくなった事で、23区内では環7より西へ行く路線がほとんどなくなりました。元々山手線の西側は有力な民営事業者が早くから綿密な路線網を張り巡らせていたからあまり路線が多くなく、過去に存在した系統には、民営との共同運行がかなりありました。東側に重心が位置するのは、路線網からも見えています。

◆ 都心を貫く<銀71>系統
 昨年秋、レイルウェイライターの種村直樹氏が亡くなりました。紹介記事の通り、種村氏はBJ創刊時から、都営バス特集以外でもルポを書いていて、馴染みの存在でした。
 鉄道ほぼ専門だった種村氏がバスにも本格的に取り組むようになったのは、国鉄時代末期、鉄道・連絡船に国鉄バスまで組み込んで作成した、竹下町(佐賀県)→鵡川(北海道)の最長片道切符の旅を実践した事が大きいと思います。営業規則も変わり、特定地方交通線の廃止も行われ、何よりJRの一般路線バスネットワークが壊滅に近い今、同じような旅は二度とできません。
(鉄道ジャーナル誌連載→「さよなら国鉄 最長片道きっぷの旅」(実業之日本社)として単行本化)
 追悼企画として、BJ創刊号に掲載された〔銀71〕系統のルポが再度掲載されました。改めて読み直すと、写真の点数は絞られているものの、「美濃部カラー」のモノコックも現れて懐かしい。白黒写真だけれど。ルポで同乗したD-M284は1983(S58)年式日野P-RT223AAで、初のスケルトンボディとなった車両です。
「すぐに改善できるのは接客サービス」と結ばれているが、それは正解ではあるものの、通常の所要時間の5倍もかかる大渋滞が日常茶飯事、休憩時間を削って乗務しなければならないのでは、ドライバーにとっては肉体的にも精神的にもたまったものではなく、接客サービスどころではないだろうとも感じる。「ドライバーの平均年齢が47~48歳」の、当時の杉並自動車営業所長のコメントを読むと、30年経っても、バス業界の課題は変わっていないなあ、というのが正直な印象でした。
〔銀71〕系統はこの直後に都市新バス「グリーンアローズ」の〔都03〕系統になり、本文で出てきたイレギュラーの「東京返し」は〔都05〕として独立するが、大江戸線開通時の再編成で〔都03〕は運行区間を短縮(深川〔営〕に移管)、今は1時間に1本程度と、当時の面影はほとんどなくなりました。

◆ 終点の構図 平井操車場
 シリーズ1は東大構内、NEW21は若洲キャンプ場、R56は上成木でした。
 平井操車場を終点とする〔上23折返〕〔平28〕は面白いルートを走り、平井地域では循環系統に近く、操車場終点は先に通過する平井六丁目交番バス停とはそれほど離れていないようです。
 昔ながらの神社に町工場+スカイツリーと、新旧が交錯した新たなシーンが展開されているようです。

◆ 都営バスで探す 明治・大正・昭和の余韻
 ハンドブックシリーズになってからの紀行3回も種村直樹氏によるもので、シリーズ1は都営バス最東端だった篠崎駅→最西端の上成木(日着)、NEW21は竹ノ塚→岩蔵の温泉めぐり(日着・種村氏は竹ノ塚在住だった)、R56は赤羽駅東口→テレコム(一泊二日)でした。
(R56が、ハンドブックシリーズにおける、種村氏最後の紀行となった)
 今回の谷口礼子さんの紀行は、初日は佃島→万世橋→東大キャンパス→都電おもいで広場→大和町は銭湯、2日目は小平ふるさと村→村山織物協同組合→青梅の「昭和幻燈館」などを巡る旅。23区内は東京駅から東へ、佃島から一転北へ、さらに西と反時計回りにグルリと回る感じ。
 大国の首都ともなれば日々の変化は著しく、特に山手線の西側では、時には変化について行くのがしんどいけれど、今回の紀行はそこを外しているので、探せば昔ながらの光景はあるものだとも感じました。全然知らなかったが、石川島はオリンピックの年まで渡し船しかなかったとは少々ビックリ。
 実はこれも知らなかったが、〔王78〕系統は23区内では最長の都営バスとか。公式な資料が見当たらなかったで何キロというのは解らなかった。〔王78〕と〔梅70〕、2つの都営バス「最長系統」が出てきた事になります。

 今後の都営バスの課題については№732を初めとして何回か書いているが、改めて記すと、都営バスのこの20~30年位は、地下鉄等の鉄道網の整備に伴って路線の縮小や減便が相次いだ歴史でもありました。ただ、2008(H20)年のメトロ副都心線と日暮里・舎人ライナーの開通を持って、都営バスに直接影響を与える鉄道の開通は一段落したはずなので、現状の路線網を維持しつつ、質的な向上が図られる事が求められます。と言っても経営環境の悪化で、郊外はまた一段の見直しが求められるかも知れないが。便数については需要や沿線のロケーションもあるが、23区内路線は最低10分に1本程度の確保が望ましい。現状は一部を除いて、やや少ないかも知れません。
「次の100年」はどうなるか解らないが、すぐ目の前にある課題は2020(H32)年の東京オリンピック・パラリンピック。BRTの計画もあったりするが(運行事業者がどうなるかはまだ解らないが)、観客輸送をどう行う事になるのか。また既に外国人観光客が急増していて、五輪が増加をさらに加速させる事も十分予想されます。バスに限らないが、特にインフォーメーションの充実は急務でしょう。英語以外に、少なくとも中国語・韓国語の整備は必要。
 多摩地域については〔梅70〕の短縮はあったが、歴史的な経緯もあるからエリアそのものは残るでしょう。ただし民営事業者への委託はあるかも知れません。
 車両面では乗降性の改善について、以前の低床車のようにもっとメーカーにコミットメントしてもいいかも知れません。東京が前面に出て変われば、日本全体も変わるように思います。
 それとしつこいのだけれど、「都営交通博物館」の整備。本当は100周年の時にやって欲しかったが、先の紀行でも出てきたあらかわ遊園やおもいで広場の都電の他、地下鉄やモノレールの保存・保管車両が各地にあるので、今の内に1ヶ所に集めて、本格的な博物館を作って欲しい。ただバスはどこまで見つかるか、心元なくなってしまいました。グリーンシャトル初代車両が、せめて車体だけでもどこかに残っていてくれると良いのだけれど…。
 ともあれ世界有数の先進国の首都のバスにふさわしい、量・質とも充実したサービスで世界に誇れる都営バスを目指して欲しいと願います。

 次回刊は京都バスと京福バスですか。どちらも京福電気鉄道のグループだが、京都と福井に大きく分かれているので、意外なラインナップ。シリーズ初登場になります。
 またその次の東武バスは、次回は東野交通と一体で取り上げられるよう。東野は東武グループではあるものの、東武バスとの結びつきはあまり強くはなく(宇都宮市で東武バスを引き継いだ路線はあるが)、これもやや意外な組み合わせではないでしょうか。
 さらにその次は越後交通。「NEW34」で取り上げられた事があります。

 当ブログでは直接のコメントは受け付けないので、何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。
 当ブログ上からでは発表できない緊急の事態が発生した時は、本体でお知らせします。

《今日のニュースから》
31日 ミャンマー 少数民族各派・政府側 停戦に向けた合意文書に署名
 1日 中国国立「北京語言大学」東京に開校 開港式典・入学式開催