№1264 思い出の海外旅行クロニクル 14.2000年台湾 1

 これまで13回の海外旅行は全て欧州でした。
 そろそろ違う場所に行く事も考えて良いのではないかとも思い、当時はまだ暮らしにも少しは余裕があった事もあり、通例になった年2回の欧州旅行にプラス、初のアジア旅行として、台湾の台北行を決定しました。
 どうして台北にしたのか、今となっては思い浮かない部分もあるのだが、確か当時の航空雑誌に、市中にある松山空港の撮影ガイドが記されていて、それを見て旅客機の撮影に行ってみようか、と考えたのだと思います。もちろん台北市内の都市交通も(MRT)や、時間があれば郊外への列車の乗車、みたいな事も考えていました。
 一昨日、2回目の台湾訪問から帰ったばかりだが、当然ながら14年も経てば、違っている部分が相当ありました。今回の「クロニクル」に関しては、今回との比較も、記録・記憶にある限りは、少しは触れてみたいとも思います。

 ところで、出発前日の2000(H12)年3月18日、台湾では史上2度目の直接総統選挙が行われ、世界的に注目を集めていました。 民主進歩党の陳水扁氏が勝利し、国民党からの初の政権交代が行われる事となったが、背景として、国民党陣営の分裂劇がありました。この選挙結果は台湾全土で大変な騒動を引き起こす事になり、私自身、その現場をわずかながらも垣間見る事となります。

2000年 3月19日(日)

 今回は今は無き、日本アジア航空(JAA)の利用としました。
 1972(S47)年の日中国交正常化で台湾との関係が断絶、空路も途絶える事になってしまいました。後に空路を再開させる際、中国メインランドに路線を開設していたJALでは台湾への乗り入れができないため、子会社としてJAAを設立したものです。

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 JAAにもB747はいたけれど、このEG205便はB767-300でした。台北経由高雄行。日本発着の国際線でB767に乗るのは、初めてでした。
 9時出発と成田としてはやや早め、なので出国審査や手荷物検査場もは少なく、普段の成田ではない雰囲気。

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 C86番ゲート。中高年のお客さんが多いようだった。

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 搭乗口を通過、ボーディングゲートブリッジには各種新聞が並んでいました。台湾紙もあるが、前日のもの。

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 三里塚の方から黒煙がなびいてくる。火事ですか?運航には影響がなさそうではあるが。

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 そんな中を離陸。眼下のジャンボはBA機。

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 九十九里。しかし段々景色が白っぽくなってきた。

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 キャビン。B767としては新しい方で、座席が当時のJALのB777-200「スタージェット」と同じ柄。オシャレだと感じました。

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 オツマミのサービス。コカコーラの缶は中国語だ。日本のキャリアなのに、現地で調達したのか?

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 機内食。洋風の肉と和風の魚の選択で、洋風を選択。中華風味も添えられている。さつまいもがユニーク。

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 ビデオプログラムには台湾の電車が映っています。機内誌やオーディオプログラム、トイレの注意書きにも表れているのだが、JAAは台湾路線専門だけあって、日本と台湾、両方をバランスよく扱っているように感じられました。

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 離陸から約3時間、降下の最中、台湾の淡水河が見えてきました。

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 滑走路に向け、地上で大きく左にUターン。農村地帯だが、当然の話だけれど、やはり日本とも、欧州とも趣きが大きく違って見えて、新鮮でした。ああ、これがアジアの農村なのかと。

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 市街地。ごみごみした感じ。

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 到着しました。当然チャイナ・エアライン(CA)機がズラッと並ぶ。
(当時はエバー(BR)はまだ少なかった)。
 JAAのB767も他に2機いました。
 今は桃園と呼んでいるこの空港、当時は中正国際空港と称していました。

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 到着したA11ゲート付近は、成田空港第1ターミナルの改築前の各サテライトに雰囲気がよく似ていました。入国審査までやたら歩く。動く歩道も少ないし。ただ、各地で改修工事が進行中でした。

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 入国審査がどこも大行列。20分は並びました。アジアだとこんなものかと、ある程度は予想していたけれど。

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 到着ロビー。

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 台北車站(台北駅)の空港バス。当時は台汽客運という会社でした。この後、國光客運と改められる事になります。
 後ろ2軸の旧型車。もう冷房が入っている。当時は110新台湾ドル(TWD≒390円)。
(一昨日乗った時は125TWD)。

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 高速道路は片側4車線と広いのだが、車の流れは、今一つ秩序がないように見えました。車線に一般・追い抜きの区別がなくて、追い抜きの車は、隣の車線の隙間を伺うように左へ右へ、車線を変えていく。ちょっとヒヤヒヤ。
 先日台北→高雄の高速バスに乗った時も感じたが、トラックが少なかったのが印象的。両日とも日曜日という事もあったかも。

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 市内に入ると、まずバイク・スクーターが多いのにびっくり。しかも、その半分は2人乗り。

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 台北駅前も、歩道上がバイクでびっしり。日本より遥かにひどいなーというのが第一印象。

 市内のホテルに2泊、先にチェックインを済ませて身軽になり、一日乗車券を購入して、MRTを乗り歩く事にします。

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 当時の一日乗車券。150TWD(≒530円)。紙製で自動改札機は通れず、改札通過の度に職員に言って、専用のドアを開け閉めしてもらう必要がある、少々面倒なシステムでした。

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 当時のMRTの路線図。一般的な電車は、台北車站で交差する、実質2路線だけ。
 中孝復興で交差する路線は、新交通システム。フランスのVALです。

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 中山駅。

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 中正記念堂駅。

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 中正記念堂。ブルーの屋根と白い壁のコントラストが印象的。

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 中孝復興駅。地下の板南線と高架の木柵線の乗換駅であり、直通のエスカレーターは住之江公園駅を連想させます。

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 木柵線はゴムタイヤ式の新交通システム。日本のものより大型で、4両編成。

 一般的なMRTの地下駅の様子を、一部ご覧頂きます。「こんな感じだった」という所で。
(複数の駅にまたがっています)

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 券売機。

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 改札口。当時はICカードやトークンはまだなく、一般の乗車券は磁気カード。

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 ホームのエレベーター。

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 ホーム(中山駅)。エスカレーター・エレベーター完備です。

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 案内表示。これは中孝復興駅のもの。

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 地下駅ホームの全体像。吹き抜けで屋根が高いのが特徴。

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 防犯のため、ホームの中央部を「夜間婦女候車區」と称して、特に夜間はできるだけここで待つようにと指定しています。防犯カメラがあるみたい。ホーム自体が十分明るいし、今だと全体にカメラがあると思うのだが、この設定は今もあるようです。
(「女性専用車」というものは昔も今もない)

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 市政府駅ホームのパブリックアート。

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 台大病院駅ホームのパブリックアート。

 台北の地下鉄はまだかなり新しく、淡水線が3年前、板南線となると前年(1999(H11)年)暮れに開業したばかりでした。それ故案内標識なども日本的な感覚で、解りやすいものになっていたように感じられました。

 ホテルに戻って、TVニュースを見たらビックリ。総統選挙で敗れた国民党の本部前では、支持者の激しい抗議活動が繰り広げられていた。幹部のリムジンがボコボコにされたり、警官隊と衝突したりしてムチャクチャ。
…今もやっているの?

 翌日は天気任せの結果だったのだけれど、午前中は平渓線乗車、午後に松山空港での撮影、となりました。

 当ブログでは、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
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 今朝の新横浜の一件だけど、乱暴を承知で言えば、死にたいなら独りで死ねよ、と言いたい。何の関係もない十数万人の乗客を巻き込む必要はないです。

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