№1211 思い出の海外旅行クロニクル 11.1998年スペイン8

 一昨日の事になってしまったが、サンチャゴ・デ・コンポステラの大惨事から1年になり、現地では追悼の式典が行われました。改めて犠牲になられた方々の冥福を祈ると共に、このような大惨事が(スペイン以外でも)繰り返されない事を祈ります。ここの所日本内外とも、鉄道の事故が多いのが気になるのだけれど…。

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 チューリヒ到着後、AFとJALを乗り継ぎ、パリ経由で帰国の途につきます。しかし。

1998年11月25日(水)

 翌朝7時30分ウエイクアップ。フリブールを出た所。良く眠れました。曇り空もあるのか、薄暗い。

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 朝食。トスターダとクロワッサン、オレンジジュースとコーヒーというコンチネンタルスタイル。他の客が意外に少ない。列車全体で少なかったのか。

 ディエティコンを過ぎたあたりで、少しは晴れてきたのだろうか。チューリヒは同じ大都会でも、マドリードとは違う。砂漠?の中にいきなり現れるイメージのマドリードとは違って、少しずつ民家などの建物が増えてくるようだ。

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 9時30分少し前、チューリヒ中央駅到着。寒い…。出会いの光景はスペインもスイスも全く変わりませんでした。

 2年前の1996(H8)年、欧州縦横断の旅の途中、チューリヒ空港に立ち寄ってまる一日旅客機の撮影に費やした事は、№942で書きました。その前の年のイタリアからの帰途にも立ち寄っています。
 今回も夕方のパリ行出発までの間は、展望デッキで旅客機の撮影に充てるつもりでした。

 ところが…。展望デッキは閉鎖中…!

 理由はちょっと不明だった。ターミナルの工事が行われているので、そのためだったかも知れない。

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 せっかく回復した青空の下、あきらめきれず、当時のターミナルAから延びる歩道橋から、撮影できそうな場所を見つけたので、午後までしばらく撮っていました。ターミナル工事のための資材や重機はやや邪魔な部分もあったが。
 その中から数枚。

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AOMフランス航空 MD-83
 ほんのわずかな時期、成田にもDC-10で乗り入れていたキャリアだが、今はなくなりました。

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エア・アルファ A321-200
 トルコのチャーター航空会社。これも今はなし。

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ブリティッシュ・エアウェイズ B757-200
 当時BAが採用していた「ワールド・イメージ」の1種類。

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エミレーツ航空 A300-600R
 以前にもご覧頂いているが、後部に何か描かれています。何だったっけ?ドバイのイベントだったはずだが。

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チロリアン航空 F-28
 今はオーストリアン・アローズになっています。

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イージー・ジェット B737-500
 欧州を代表するLCC。Webサイトのアドレスが書かれているが、当時はネット予約が今ほどは浸透はしていなかったはずで、画期的だったと言えます。

 途中警官だったか警備員だったかに職務質問もされたりしたが、パスポートと帰りの航空券を見せたら見逃してもらえました。テロリスト、というより、不法難民ではないかと疑ったのではないかと、当時は思いました。

 残念ながら、午後になると一気に曇り空になってしまった。早めに搭乗待合室に入る事にします。

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 チェックイン・カウンター。撮影に入る前にチェックインをしてくれました。

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 AF2155便。B737-500。
 ところが、本来の出発時刻近くになってからの到着。しかもアナウンスでは、CDG到着は1時間程遅れるとか。オイオイ、CDGでの乗継は45分しかないのに…!

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 搭乗開始。しかしなかなか前に進まない。キャビンは単通路なのに、客の大半は自分の席の列まで着いて、荷物をストウェッジに収め、さらに上着を取って、それから着席、だから前がつかえてしまう。

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 隣にはJALのB747-400がいました。この時点では、成田~チューリヒの単純往復。

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 結局チューリヒ出発は、所定より1時間以上の遅れになってしまった。アナウンスでは悪天候のせいだ、と言っていたようだが。外は完全に真っ暗。

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 B737のキャビン。

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 機内食。ほんの一口二口といった程度の軽いもの。あっという間に平らげてしまった。

 上空では三日月が見えたりもしたが、天候が悪いのは事実のようで、チューリヒだけでなく、パリでもかなり厚い雲が広がっているようでした。真っ暗だから実際はどうだったかはっきりしないが。

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 結局遅れが縮まる事はなく、CDG到着。ターミナルB。何とかターミナル循環バスに乗り込むが、F→Cと経由して、JAL便が出発するターミナルAに向かうので、すごく時間がかかる。

 バスを降りて、あわててA41ゲートに走ったら…。

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 ガーン!!
 B747-400が、ちょうどバックしていく所…!!
 AF機内である程度覚悟はしていたけれどね…。すぐ目の前で出発の機体を見送る事になるとは…。

 このような事は私だけではなく、他に10人ほどが積み残しになってしまったらしい。欧州全域で航空ダイヤが乱れていて、中には22時着になってしまった便もあるとか。
 ここで、JALのスタッフが、宿探しと翌日の代替便の手配に骨を折って下さった(栗木さん、改めてお礼申し上げます)。空港近くのホテルに夕・朝食込で無料で宿泊の上、翌日のJAL便(しかもエグゼグティブクラス)に振り替えという事になった。
 何やかんやあって、とにかくひどく疲れた。パリは明日も天気が良くなさそうで、だったらチェックアウトタイムギリギリまで、ずっと寝ていよう。

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1998年11月26日(木)

 結局起床は朝8時。部屋の外はかなり濃い霧が出ている。100m位先が見えない。航空便の発着は行われているようだったが。バイキングの朝食をがっぽり食べて、チェックアウトタイムまで寝ていた。
 晴れだったら空港内で旅客機を撮るか、できなければパリ市内へ行って観光か、とも思うが、この天気では、わざわざ短時間の滞在のためにフランスフランに両替したりするのはばかばかしい。
(ユーロ導入後の今なら、パリ市中行も考えたかもしれないが)

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 改めて、CDGのターミナルA。
 さすが世界有数の大空港。どのエリアもいろいろな人種の人々が行き交う。ダカール行など、アフリカそのものという民族衣装を身にまとうお客さんがいたりして楽しい。時々マシンガンを抱えた軍人?が3人一組でパトロールしたりしているのも見たりするのだが。

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 チェックイン・カウンター。エグゼグティブクラスの搭乗券を受け取るが、窓側でも通路側でもない、完全に真ん中の席。それに喫煙席(当時はまだあった)。今日は完全に満席。昨日の救済に加えて、今日もイタリアからの便が遅れて、AF運航の名古屋行に乗れなくなったとかいう乗客もいたらしいから、仕方がないか。

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 17時前、成田からのB747-400が到着。

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 このターミナルは出発と到着が同じ階にあります。入国のパスポートの上にバーがあり、出国エリアの歩道橋の役割も果たしている。

 時間が近づいて、A41番ゲート付近には大勢の乗客が集まってくるが、その中には、明らかに高校生風情の若者の一団が平気でしゃがみこんで煙草をふかしまくっている。何者なんだ?コイツら。えらく気分が悪くなる。

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 予定よりやや遅れて搭乗開始。真ん中の席とはいえ、そこはビジネスクラス、さすがにゆったりしている。すぐにウエルカムドリンクのサービスがあって、ややこそばゆい。その後新聞のサービスがあるが、右の日本人男性は、カートを前方に回送する最中に、さっさと日経を抜き取っていった。せわしなさすぎ。そんなに経済情報が大切ですか?

 外は暗くなってしまったし、何よりド真ん中の席では外の景色もへったくれもない。離陸すると何とか街明かりが見えたが、すぐに雲に突入したようで真っ暗になりました。

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1998年11月27日(金)

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 エグゼグティブクラスのキャビン。これでも今の目から見たら、一昔二昔前の仕様に映るのでしょうか。

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 機内サービス。スクリーンはNHKニュースだが、何度か停止する。
 この機体(JA8914)も往路同様、エコノミーにも個人TVがついた新仕様なのだが、システムの調子が悪くて使用できないとアナウンスがありました。パーサーの話では、機体のシステム全体がダメになって、ただいま鋭意調整中と恐縮していました。JALだけでなく、他社でもこのシステムに関して苦慮しているのだそう。パーソナル・エンターテイメント時代の黎明期、ならではの事象でしょうか。

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 オツマミ。

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 離陸後の食事。まずオードブル。

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 メイン。ご飯もの。

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 最後にデザートのケーキ。おいしかったです。さすがにビジネスクラスの食事はすごい。冊子状のメニューも入手したはずだが、ちょっと見当たりませんでした。スミマセン。

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 翌朝、シベリア。席を立って、ドアの窓から見たもの。そうでなければ、外の景色は見られません。

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 到着前の食事。朝食も和洋選択。メインスクリーンのNHKニュースウィークリーでは、大相撲九州場所は大関琴錦優勝と伝えていた。個人TVのシステムは、結局最後まで直らずじまいだったようでした。

 日本海から上越国境を越え、水戸→鹿島灘と経由して、成田空港にはほぼ定刻の着陸でした。

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 到着はサテライトのC81。本館までは、今は廃止になったシャトルで移動。
 成田も11月になって寒くなったはずだが、パスポートコントロールでは、「ロンドンとかに比べたら全然暖かいわね」という声も聞こえてきました。

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 到着階のコンコースはどこも人、人、人。当時は不景気で海外旅行客が減っているという報道もあったが、全然信じられませんでした。

 どうにかこうにか、日本に帰って来れました。
 念のため。当時は帰国予定日の翌日は、海外旅行だとこんなアクシデントもあろうかと、休養も兼ねた予備日を設けていたので、仕事に穴を空ける事なく、同僚に迷惑をかける事もなく済みました。
 最後はほとんど空の旅に費やしてしまいましたが、最終回はRENFEの鉄道車両と、マドリード(チャマルティン・アトーチャ)及びバルセロナ・サンツ駅の画像をご覧頂いた後、当時のスペインの鉄道の印象と、スペイン自体のデータを記して、完結とします。

 当ブログでは、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
 また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。

 全国的に凄まじい猛暑です。どうか皆様お気を付け下さい。私自身、明日成田へいく予定だが、気をつけなくてはなりません。

《今日のニュースから》
岩手県田野畑村の三陸海岸観光船 3年4か月ぶり運航再開