№1210 思い出の海外旅行クロニクル 11.1998年スペイン7

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 スペインは割と私鉄が多く、バスク地方にもあります。この私鉄は国境を越えてフランスのアンダイヨにも達しています。朝方はこの私鉄に乗った後、インターシティで一気にバルセロナへ。
 翌日はバルセロナの地下鉄に乗ったりして、チューリヒ行ICNでいよいよスペインとお別れです。

1998年11月23日(月)

 朝起きて、部屋のTVをつけたら、ニュースはトップでストに伝えていた。やや扱いが軽い気もしたが。バルセロナ行、大丈夫かなあ…。朝食は7時30分から、他地域もそうだが、スペインの朝はやはりややワンテンポ遅い。

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 サン・セバスチャン(バスク語ではドノスティア)のバスク鉄道のターミナル、アマラ駅。

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 アマラ駅のホーム。

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 この1ドアの電車は「プルマン」と称しているようだが、何でしょうね?

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 今回乗った電車の車内。この電車も、車内にはBGMが流れている。

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 スミマセン、いきなり終点のアンダイヨになります。フランスの駅で、SNCFの駅の隣に位置します。スペイン・バスク・フランスの3言語で案内が書かれていました。小駅。
 基本的にはアマラ~アンダイヨは30分間隔運転で、平日のみ区間運転あり。

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 この橋がスペインとフランスの国境。アーチ橋はRENFE/SNCF。

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 バスク鉄道のイルン駅。

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 RENFEのイルン駅。フランス側からSNCFで来た場合はここで乗り換えになります。
(逆の場合は、RENFEの列車でアンダイヨまで行って乗り換え)
 一番最初の海外旅行では、パリからのTGVで夜に着いて、マドリード行夜行(今は廃止)に乗り換えたものでした。ザンザ降りだたっけ。
 窓口で聞いたらバルセロナ行ICは予定通り運行との事。ヤレヤレ。

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 バルセロナ行IC530列車。まずは2等ツーリスタの2両のみ。

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 ICのサボ。

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 しばらくは、昨日立ち往生したトンネルも含めた区間を快走。田舎ではあるが、周辺は高速道路や幹線道路がかなり整備されているよう。
 まだカフェテリア車はないが、ミニバーが回っているし、イヤホンも配られて映画の上映も始まります。

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 水道橋。どこだったっけ?

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 なめらかな曲面の田園地帯と、遠くに山々。

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 カラカラに乾いた畑作地帯。踏切の×型標識は、ここでも踏切そのものから遠い位置に立っています。

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 ツーリスタ車内。転換クロスシート。RENFEでは、IC以下の中長距離列車では、転換クロスシートが普通のようです。欧州では異例。

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 カステリョン・デ・エブロ駅。前にバルセロナ発ヒホン行夜行で通過しています。あの時は真夜中でした。機関庫らしき跡地がありました。風が意外に冷たい。
 ここでサラマンカ・ビルバオからの編成を連結して7両(うち1両回送)になりました。カフェテリアも連結され、少しはICらしくなりましたか。

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 イタリアのETR450系似の電車がいました。443系というらしいが。もう使っていないはずだが、特急の試作車だったのだろうか?

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 カフェテリアはサラマンカからの編成に連結されていました。サラゴサを過ぎて昼食を食べに行きます。この車両はもう少し食堂車らしくなり、メニューも他とは異なっていました。定食は一皿目と二皿目を選択する本格的なスタイル。

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 一皿目は豆の煮物。

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 二皿目は肉料理。
 備え付けの新聞は自由に読めるらしい。今日の鉄道の間引き運転はスペインだけでなく、フランスやベネルクス三国、ポルトガル、ギリシャでも行われているよう。

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 レリダから先は比較的直線が長い。時速140㎞位で突っ走ります。

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 山間部はまさに荒野。
 17時を過ぎて、夕陽が山の影に沈んで行きました。

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 終点のバルセロナ・サンツ到着。前の列車がつかえていたのかノロノロ運転になっていたのに、定刻より7分も早く着きました。スペインのダイヤって、どうなっているんだろう?

 宿泊は、以前も利用した「ホテル・バルセロ・サンツ」。部屋のTVニュースでは、今日の鉄道の間引きはやはりストで、スペインはまだまし、ベルギーでは全く列車が走らなかったらしい。

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1998年11月24日(火)

 夜にチューリヒに向けて出発するので、ほぼ1日中バルセロナ滞在。地下鉄を乗り歩きました。前回はカタルーニャ鉄道が中心だったが、今回はTMB(Transports Metropolitan de Barcelona)に乗ります。

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 TMBの車両から、2000形。架線集電式。

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 その車内。プラスチックのセミクロスシート。

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 3000形は第三軌条式。

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 その車内。やはりプラスチックのセミクロスシート。

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 1000形。架線集電式。

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 その車内。サイドシート。やはりプラスチック。

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 4000形。第三軌条式。41号線用。この路線はどこも屋根がドーム状で広い。

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 当時の地下鉄の路線図。
 TMBの全体的な印象としては、
① 放射状のため中心部の乗客が多く、中心部から遠ざかるほど乗客は少なくなる
② 例外もあるが、ほとんどの駅は相対式ホーム
③ 駅にはバーやカフェ等の「エキナカ」は多いが、トイレがない
④ 自動改札で、降りる時は扉を開けるだけ
⑤ 物売りなどが多い
等があげられると思いました。

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 バルセロナに来たからには、やっぱり外せない、サグラダ・ファミリア。


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 バルセロナのもう一つのターミナル、フランサ駅も以前来た事があるが、この日は「スペイン鉄道150周年記念」とかで、一部の線路・ホームを閉鎖して、展覧会を行っていました。

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 有料。900ESP(≒770円)。実物の車両や模型などが並んでいたが、スペイン語・カタルーニャ語は解らないからざっと見る程度。その中からいくつか。

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 モックアップが多かった。マドリードの新型地下鉄らしい。

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 シーメンスなどの企業も出展していたみたい。でもなんでICE3?
(この9年後、AVE S103としてスペインでもデビュー)

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 実物から、旧型EL。

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 SLも。形式についてはゴメンナサイ。

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 LRT。CAF社?この後ビルバオでこれをベースにしたLRTが開通したらしい。

 スペインともお別れ、最後は一気にスイス・チューリヒに向かう、タルゴのインターシティ・ナイトに乗ります。
 毎日運転ではなく、確かイタリア・ミラノ行と曜日を分け合った、週3~4回程度の運行だったと思う。

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 タルゴ273列車。途中(ナルボンヌあたり?)まで、パリ行と併結。だから合計29車体(パリ16・チューリヒ13)とかなり長い。始発はフランサではなくサンツ。

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 タルゴ指定券。今回は個室寝台(グランクラス)を奮発。最後だしね。

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 その個室。出だしはベッドにはなっていなくて、2人掛けの座席が並んでいます。

 定刻を少し回って出発。ワゴン・リのスタッフにパスポートを渡した後、しばらくは部屋の電気を消して、窓の外を眺める。真っ暗な部屋から眺める真っ暗な夜景は、やはり違う。時々工場とか、2階建て近郊列車を見たりする。GSやドライブ・スルーのマクドナルド等も見かけるが、後はひたすら夜空が広がるばかり。星空が最高に美しい。

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 フィゲーラスを過ぎた所で食堂車へ。注文が終わる頃には、スペイン最後の駅、ポルト・ボゥに到着。街は寝静まっていました。そんな中で軌間変更の作業場にのっそりのっそり進入していく。作業のおじさんが何人もいる。
 やがて全車両の軌間変更作業が終わってスピードが上がり、トンネルを抜けると、フランスのセルベール。
 スペインとはしばらくお別れです。Adios!

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 前菜のサラダ。

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 メインのサーロインステーキ。柔らかくて美味。

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 食後のスイーツ。プリン?

 はっきり言って客は少なかった。そんな中で男女5人グループが、少々騒々しい位のオシャベリ。そろそろスペインもケータイが普及し始めていて、隣のテーブルについたビジネスマン風の男性も、時々どこかへ電話をかけていました。

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 部屋に戻ると、既にベッドメイクは完了。シャワーを浴び、歯も磨いて横になる頃にはもう日付が変わっていました。左右に振られる感じで良く揺れるが、軌間が狭くなったから?

 当ブログでは、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
 また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。

 関東地方は梅雨が明けたはずなのに、今日は夜になって雷の影響が出て、東急世田谷線や京王井の頭線が止まったり、羽田空港で航空便の発着に影響が出たりしているようです。クソ暑いのは我慢できるから、とにかくスッキリした青空が広がって欲しい。

《今日のニュースから》
裁判員裁判の判決 最高裁判所が初の直接取り消し

№1209 思い出の海外旅行クロニクル 11.1998年スペイン6

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 トレドよりマドリードに戻り、近郊のナローゲージのローカル線と、セゴビアを訪ねます。
 翌日はついにマドリードに別れを告げ、バスク地方へ。

1998年11月21日(土)

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 8時30分少し前のトレド駅。ようやく陽が当たり始めました。冬晴れです。左の470系(?)が8時30分発のマドリード・アトーチャ行。1時間程でマドリードに着きました。
 トレドへは、現在はセビリアへ行く路線から分岐する高速新線が到達し、マドリードからは33分で結ばれています。一方でアルゴドル経由の在来線は廃止になったらしい(少なくとも、旅客は)。

 マドリード郊外のセルセディリャとコトスを結ぶナローのローカル線はマドリード近郊電車のネットワークに組み込まれ、C-9の系統番号が与えられています。

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 時刻表。本数が少ないのも去る事ながら、始発が遅いです。
 始発のセルセディリャまでは、アトーチャからセゴビアに行くC-8a系統の電車で行きます。土曜日とあって、リュックサック姿の子供の団体がホームにあふれていました。
 マドリードから遠ざかるにつれ、だんだん高度が上がっていきます。

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 セルセディリャ駅。既に山小屋風です。先の子供の団体も下車、コトス行に乗り換え。C-9系統は、登山鉄道的な性格を持っているようです。

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 どんどん山を登っていきます。一方的に急な上り勾配だし、カーブもきついが、ラックレールは使いません。

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 プエルト・デ・ナバセラダ駅も山小屋風。スペインとしてはカラフル?既にここも登山の基地らしい。先の子供グループも、皆降りて行きました。

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 終点のコトス駅。残った乗客は皆、思い思いの方向に散って行きました。丘の上にはゴンドラも見えます。
 普通の民家は見当たりませんでした。

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 駅舎の中も山小屋のよう。カフェは登山客で大賑わいでした。

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 電車の車内。
 折り返しの電車で戻るが、4連の内の先頭車両にしか乗れませんでした。

 次はセゴビアに行くが、セルセディリャでの接続が良くなく、一旦ビリャルバまで下りました。

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 ビリャルバ駅はかなり近代的で、自動改札機まであります。エスカレーターも完備。ホームの放送もあり、通過列車注意のアナウンスもありました。

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 ダブルデッカーの近郊電車。

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 その車内。1Fだけれど、上も下もそんなに低くはない。やはりプラスチックシートが2-3配置。せっかくの新型、だと思うのに、窓自体の汚れが目立つ上にひっかき傷の落書きが輪をかけて、車窓が台無し。

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 それでもセルセディリャを経由しつつ、再び山を上がっていって、雄大な車窓が広がります。山腹に巨大な十字架が見えます。何だ?

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 終点のセゴビア駅。旧市街へはバスに乗り換えて行きます。駅付近は閑散としていたが、中心部は観光客や観光バスがゾロゾロ。日本人が多いのは言うまでもないです。

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 大聖堂。

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 水道橋。マイカーが結構多かった。

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 アルカサル城の全景を外から見たかったので、外周の急坂を下りて歩いてみました。結構かかったが、やはり日向側の外観は、迫力が全然違うと思いました。戻るのがしんどかったが…。

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 城からの展望。

 セゴビアから再び近郊電車でマドリードに戻ります。切符売場で色々聞く観光客も多く、案外観光客の利用も少なくはなさそうだ。ところで、窓口にはチラシがあって、2日後の23日には列車が間引き運転になると記されていた。全国的なものになるようで、またスト?マドリードに戻って、23日のイルン→バルセロナ間のICを予約できたので、この列車は運行されると思うのだが、どうだろう?

 アトーチャ駅近くの安ホテルに投宿するが、バストイレなしの古びた建物、しかも非常口が見当たらない!万一の時はどうしよう?

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1998年11月22日(日)

 今日のマドリードも冬晴れになりそうです。

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 左のビトリア行で出発。何度か行きつ戻りつしたマドリードとは、今回はこれでお別れ、という事になります。
 日曜日とあってか車内はガラガラ。数えてみたら、3両で18人しかいませんでした。居眠りの人が多い。
 ビリャルバまでは前日乗った区間になります。エルエスコリアルでは、大きな宮殿を見かけました。

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 大スパイラル線も交え、森と山々の車窓が続きます。

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 終点のビトリア駅。ビトリアはバスク州の州都です。

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 バスク州ではスペイン語に優先して独自のバスク語を公用語としていて、駅構内の表記は必ずバスク語・スペイン語を併記しています。どちらの言葉も読めないが、文法からして両者がはっきり異なる言語である事位は、理解できます。
(同様に、カタルーニャ州もカタルーニャ語とスペイン語を併記する)

 ここでイルン行に乗り換え。車内放送も2言語、ドア上の表記も、「次の停車」はスペイン語が「PROXIMA PARADA」に対し、バスク語では「HURRENGO EELDIALDIA」。

 近郊電車は順調に快走、と思っていたが、トロサ駅の手前のトンネルの中で突然急停止、しかも車内の明かりが全部消えてしまった!真っ暗。少し先に出口があるようだが…。電気関係のトラブルらしく、前方の乗務員室の方からブルルルルル…という唸り声と、運転士と運転司令らしき者との間と思われる交信らしき音声が聞こえてくる。
 しばらくして車内の明かりはついた。車掌の放送は全くなし。あったってスペイン語やバスク語では解るはずもないが。40分位して、ようやくノロノロと動き出した。モーター音が全然聞こえてこないので、カーブで後ろを見たら案の定、後続の近郊型電車をつないで、推進運転を行っていました。車掌が肉声で何か叫んで廻っている。「インターシティ」とか聞こえたから、この電車は運転を打ち切るので、後続のICに乗り換えるように、みたいな事を言っていたのでしょう。

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 トロサ駅で運転は打ち切り。ドアも自動では開かず、コックを使って開ける始末。編成全体で完全に電気関係がダウンしてしまったようでした。放送がなかったのもこのためか。
 やがて何度か駅のアナウンスがあって、アンダイヨ行ICが来たが、こちらはここまで来てジタバタする必要が今日はないので、後続の近郊電車を利用します。故障したイルン行を押してきた編成が、入換えの上本線に入り、改めてイルン行として出発。所定から1時間以上の遅れ、という事になるようでした。

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 サン・セバスチャン駅には17時30分少し前に到着。ホテルを探した後、海岸へ。

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 夕暮れの海岸。多くの人々が浜辺を行き交います。若いカップルとか、犬の散歩とか…。

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 浜辺の一角の広場のメリー・ゴー・ラウンドでは、子供たちが歓声を上げていました。

 長かった私の旅ももうすぐ終わり、暗くなった海岸の砂浜に腰を下ろし、きれいな星空を見上げながら、これまでの長旅をしみじみ回想していました…。

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 明日の晩、本体の更新を行い、神奈中バスと茨城急行バスの画像を再公開します。両社とも、新たに画像を1枚追加します。

 韓国で電車の正面衝突事故が起きましたが、まだ速報的な段階で、原因どうのこうのはまだ何とも言えないし、言うべきではないと思います。それにしても、日本も海外も、今年は何だか鉄道の事故が多い気がします。

《今日のニュースから》
日本=モンゴル首脳会談 EPA(経済連携協議)大筋合意で署名

№1208 思い出の海外旅行クロニクル 11.1998年スペイン5

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 1回お休みを頂いたが、スペイン旅行のクロニクルを続けます。前にも少し書いたが、スペインの鉄道でも、この旅の6年後、マドリードなどで大規模な爆弾テロが起きて、多数の犠牲者が出ました。公共交通を狙い撃ちした事件・テロなど、もう沢山です。

 今回は、マドリードをベースとして各方面を巡るスタイルとしています。ア・コルーニャから列車乗継でマドリードに戻り、翌日は鉄道博物館を訪ねた後トレドへ。

1998年11月19日(木)

 とにかく冬のスペインは、朝が遅いです。7時を過ぎても真っ暗。

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 ヴィゴまでTRDのDC列車。指定席券が必要。長距離(グランデス・リネアス)とは用紙が別物。

 サンチャゴ・デ・コンポステラを経由。歴史ある街だし、もう少し古びたイメージがあったけれど、思ったより近代的な建物が並んでいるようでした。

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 スミマセン、いきなりビーゴが近づきます。ビーゴ湾にかかるロンデ橋。

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 ヴィゴ湾。

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 マドリード行タルゴ152列車は手前のポンテベドラが始発なので、ビーゴからいったん戻りました。ムダ足ではあるが、長距離列車は始発から終着まで乗り通したいクチなので。
 タルゴは屋根がかなり低いので、一般のDLの運転台からだと、完全に見下ろす形になります。333型DLは大柄だが、雰囲気は日本のDD54に似ていると思いません?

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 2等ツーリスタ車内。4日前のマドリード→バルセロナとは、座席が異なっています。ビーゴですぐに進行方向が変わるため、座席は逆向きにセットされていました。

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 タルゴの指定券。

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 タルゴ始発駅のポンテベドラ。閑散としているが、やけに大きめのBGMが流れていました。
 発車のアナウンスはスペイン語のほか、ポルトガル語・英語・フランス語で流れていました。なんと定刻より2分も早く出発。いいのか?車内はガラガラ。

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 ビーゴで方向転換、電化区間になるのでELが反対側に連結されます。

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 隣にいたステンレスのDCはポルトガルの列車で、ポルトから1日2往復、国境の鉄橋を渡ってきます。線路幅もあって、スペインでは他国の車両を見る機会は、ポルトガルの車両以外はほぼ皆無。

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 進行方向が変わって、最後部から外を見る事が出来ます。電化された単線。カーブが多いが、線路自体はしっかりしています。
 車内はまだガラガラです。それでもカフェテリアのスタッフが、ランチの案内に回ってきました。天井のTVも何かのプログラムを始めています。

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 山間部の集落。ポルトガルとの国境が近いようです。

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 やはり食事は食堂車で、だよねー、とカフェテリアで昼食。串焼きの定食とコーラ。
 カフェもヒマそうで、車掌も食事中。何しろオーレンセ到着直前時点では、乗客はプレファンテ9人・ツーリスタ33人で、全座席数の1/4にもなりません。

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 オーレンセ駅。ここで、ア・コルーニャからの編成が連結されます。

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 ここからまた非電化区間となり、機関車が好感、354型はタルゴに合わせたカラーで、背がかなり低い。ポンテペドラ始発の客車を連結して一旦引き上げ、別ホームのア・コルーニャ発編成に連結しました。

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 時々現れる集落を見ながら、山間部を走ります。

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 18時を過ぎて、夕陽が平原の向こうに消えていく。しかし、その後もずっと西の雲を赤く染め続けていました。

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 メディナ・デル・カンポ駅はもう真っ暗。ここでまた方向転換。
 この先は真っ暗で、どんな所を走っているかはもう解りません。2~3日後にまた乗る事になるが。

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 21時30分過ぎ、チャマルティン駅到着。着いてみれば結構大勢の乗客がゾロゾロ降りてきました。出会いの光景はどこも劇的でした。

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1997年11月20日(金)

 午前中は鉄道博物館を訪ねるが、オープンが10時だから、あわてる事はないです。

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 鉄道博物館は、地下鉄または近郊電車のデリシアス駅が最寄です。10~15時と開館時間がちょっと短い。500ESP(≒430円)。旧駅のドームを利用しているようで、ずいぶんと子供たちの歓声が高く響く。ここは保存車両の展示が中心で、資料はやや少なめか。

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 SL 1-1-1。

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 SL 130-0201“PUCHETA”。

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 SL 141-F-2416。

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 EL 3。

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 EL7301。バスク地方で走っていたようです。

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 EL7420。

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 DL 1615。どこかアメリカナイズされている気もします。
 手前の車は何でしょうね。

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 DC 9522。ボディマウント。車内には入れないが、外から覗いた限り、座席は転換クロスシート。スペインは転換クロスが多いと書いてきたが、昔からそうだったのか?としたら、欧州では異色だと思う。

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 PC 335。

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 PC ZZ-307。貴賓車。

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 内部はすごい。豪華コンパート3室に、最後部はダイニング。以前の「夢空間」みたい。

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 TALGO Ⅱ。今の目で見るとずいぶん妙チクリンなデザインで、遊園地で見かけてきたおとぎ列車のようだ。今風に言うと、動力集中方式の固定編成、というところか。

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 TALGO Ⅱは車内に入れます。最後部は展望室だったようだが、こんな列車、本当にお客さんを乗せて走っていたのですかねぇ。

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 博物館の館内。全体的に若干詰め込み気味かな、という感じはありました。

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 陸軌両用車のファーゴ・パワー・ワゴン。

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 チャマルティン駅の模型。

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 資料も若干ありました。一つ気になったのは、AVEやユーロメッド、新タルゴ等の展示が一切なかった事。模型・資料すらなかった。日本でもありがちなのだが、古い車ばかりではなく、新しい車両の展示もやって、将来を見据えた構成にして欲しいと思いました。

 記念品売り場では各種グッズに交えて鉄道模型も販売されているが、日本のKATO製の日本車両も販売されていたのはビックリ。デビューしたばかりだったE2系あさまやスーパーあずさ、MAX、シーガイアカラーのキハ65、SLやEF66もありました。KATOは日本でも、RENFEのELやAVEも製作・販売しているから、その縁もあったのでしょうか。

 午後はトレドに向かいます。6年前にも訪れていて、あの時は単純に往復するだけだったが、今回はトレドに泊まります。電車は変わらないが。

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 マドリード→トレドの時刻表。世界的にも有名な世界遺産へ行く路線にしては、やはり本数が少ないかな。

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 アランフェスの先、バレンシア方面への本線と別れると、急に酷く揺れだすのは6年前と変わらないなあ。その支線の途中に位置するアルゴドル駅。5線もあって、貨車が多い。

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 トレドの駅舎の中。厳かです。

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 トレド駅は前回訪問から2年後の1994(H6)年に開業75周年を迎え、記念のプレートが設けられていました。

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 トレド駅。時計塔が印象的です。
 6年前は旧市街には行かずにそのままとんぼ返りしてしまったが、今回はYHに一泊します。

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 トレドの聖堂。

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 トレドの丘。アルカサールが異様に大きく、街全体を威圧しているかのよう。
 日本人観光客が多いのは、世界文化遺産にも登録されているとあれば当然でありましょう。

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 タホ川を隔てた反対側の道路からは、トレドの全景を一望する事が出来ます。大変だったけれど歩いてみました。コルドバが「白」なら、トレドは「茶色」。

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 改めて、絵葉書でトレドの全景。

 この晩の夕食はカフェバールでうまいイワシの酢漬けとトルティーリャ、コーラ、そして食後のコーヒー。列車内以外では、久しぶりにまともな夕食を食べたような気がする…。YHで洗濯をして、23時過ぎ就寝。しかし同部屋の2人がまだ帰ってこない…。

 当ブログでは、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
 また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。

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《今日見た・聞いた・思った事》
 マレーシア機「撃墜」の一件の影に隠れて日本ではほとんど伝えられていないようだが、フランスでは17日、TGVに後続のローカル列車が追突する事故が起きていました。
 現地からの報道に頼るしかないが、前方で30㎞/hの減速運転中だったTGVに、後続の急行が90㎞/hで衝突したという事で、映像を見るとTGVの動力車の先頭部が完全につぶれた状態になっています。これが動力車でなく客車だったら、恐らくは負傷者40人では済まず、相当数の犠牲者も覚悟しなければならなかったでしょう。
「保守点検中の信号が『赤』のまま変わらなかった」という話もあるそうです。
 日本の鉄道運転規則では、

① 不明確な信号は「赤」とみなす(183条)
② 閉塞信号で「赤」の場合、1分以上停車の後、次の信号が確認できるまでは15㎞/h以下で進行する(90条・169条)

この2点の決まり事があります。
 現地の規則までは解らないが、日本の運転規則に照らし合わせると、第一義には後続の急行の側に問題があったのではないかと考えます。
 SNCFでは昨年の今頃パリ近郊で大事故があったし、他にもあれやこれやトラブルがなくならず、一方で先頃は労組による過激なストライキまで勃発しました。
 日本だったらこんな状況が続けば、「さっさと民営化しろ!」という方向に世論が動きそうです。フランスのお国柄ではすぐにはそういう方向にはならないし、社会党オランド政権が続く内は現状のままだろうが、フランス国内の世論は、いつまでSNCFに寛容でいられるでしょうかね。

 西鉄の高速バスのバスジャック事件は、無事に解決できて良かった。

《今日のニュースから》
奈良県野迫川村 避難住民 2年10ヵ月ぶり一斉帰宅

 これは良かったが、関東地方は各地で大雨や雷になっていて、我が自宅は2度も停電になりました。