№1158 思い出の海外旅行クロニクル 9.1997年ギリシャ2

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 ペロポネソス半島の北部に位置するディアコプトからは、ラックレール方式の小規模なローカル支線があります。
 この路線の存在は、一昨年亡くなられた長真弓さんの著作(「ヨーロッパ国際列車の旅 ユーレイルパスで自由自在」(講談社カルチャーブックス))で知ったもので、それ以降ここを訪れる機会が生まれた時は、必ず乗るんだと決めていました。
 今回はこの路線を含めて、ペロポネソス半島の北側を2日かけて乗ります。


1997年12月12日(金)

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 前日は暗くなってからの到着だったので、改めてカラマタ駅。
 安ホテルは朝食の提供もなく、駅のカフェテリアで、コーヒーとクロワッサンで腹ごしらえ。コーヒーはイタリアのエスプレッソみたいだった。

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 カラマタ駅のホーム。
 8時25分発のピルゴス・パトラス経由アテネ行は、DL牽引の客車列車。DL+荷物車+1・2等合造+2等×3両の組成。

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 客車は東ドイツ製らしい。これは2等。2-1配置のボックスシート。

 まずは定刻の出発。DLはエンジンが不調なのか爆音が凄く、トラクターのごとく黒煙をモクモク吹き上げる。
 前日のDC列車もそうだったが、汽笛がかなりやかましい。

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 山間部にかかり、スピードが目立って落ちる。車窓的には、ヴァリラ~カロネロの山越え区間がハイライト、に思える。オメガカーブもあるし、アーチ橋も見られた。
 元々乗客は少なく、しかも駅毎に降りる人の方が目立つような。

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 イオニア海に面したカロネロの駅。
 この列車はキパリシアへ寄り道するので、一旦DLが後方に付け替えられます。

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 キパリシアは半島の西側では一番大きな街、のようで、そこそこ活気がありました。乗客も多くなったし、ミニバンから荷物車への物資の積み込みもありました。
 駅舎は石積みで趣きがありました。カラマタやカロネロの駅もそうだったし、沿線の民家もそう。これが、ペロポネソス半島の建築の特色になるのでしょうか。

 再び方向が変わってカロネロまで戻り、さらにイオニア海沿いを北上します。

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 最後部の客車の通路のドアの窓から見た線路は、やはり貧弱に映りました。

 画像的には大分端折ってしまうが、列車はこの後、前の年は列車で着く事が出来なかったピレウスを経由。イタリアへ渡る際に乗ったメッドリンクのフェリーも見えました。
 心持ち遅れが出ているためかスピードが出るようになるが、揺れが激しくなり、時々ドスンドスンと叩きつけられるような衝撃もありました。
 それと、左手は海が見えるのだけれど、窓が汚れている上に、パトラスからは混雑してきて窓を開けられる雰囲気になく、写真が撮りづらかった。

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 カラマタから約7時間、ディアコプト駅に到着。
 この駅舎はメインの路線のもので、道路を隔てた反対側にラックレール支線の乗場があります。
 ところが、すぐ乗り換えてカラブリタまで行くつもりだったのに、列車が出ない。聞いたら、なんと「ストライキ」?何の?かは解らずじまい。日本だったら「スト決行中」の張り紙がこれ見よがしにベタベタ貼られている所だが。そもそも、同じOSEの運営のはずだが、どうしてこの路線だけ?
 明日は動くそうだから、今日はここに投宿。幸い、駅のすぐそばにそこそこのレベル(と思う)ホテルがありました。

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 駅前には、ラック路線で運用されていたSLが静態保存されていました。

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 時刻表と、ラック路線のイラストマップなど。
 最近本数が削減されたようで、1日5本のみの運行になっていました。

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 ラック路線の機関庫。確かに運行の気配がない。

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 踏切。

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 最初はカラブリタに泊るつもりで、ディアコプトは乗り継ぎだけの予定だったが、これも何かの縁、夕暮れの街を少しばかし散策してみました。
 教会。

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 海までは歩いて5分位。漁港もあります。

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 漁港から眺める、コリンティアコス湾。対岸の陸地も見えます。

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1997年12月13日(土)

 翌朝、3両編成のカラブリタ行DC列車が、きちんとホームで乗客を待っていました。良かった。
 両端が客車で、中間の車両が電源車という、ちょっと変わった構成の編成。
(番号上は、これで1両の扱いのようだった)

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 同じOSEの路線だから今回利用した「ギリシャフレキシーパス」でも乗れるとは思ったが、乗車記念も兼ねて乗車券を購入してみました。
 カラブリタまで1,470GRD(≒690円)だから、目の玉が飛び出るほど高い訳でもなかったし。

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 軌間750㎜だから、客車は輪をかけて狭い。

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 8時ちょうどの定刻を5分程遅れて出発。いきなり右手はひたすら絶壁。
 次の駅を過ぎ、谷が深くなった所でいよいよラック区間が始まる。若い人たちが歓声をあげ、写真を撮りまくっていた。

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 ラックレール区間は3km位だったか。しかし時折鉄橋を交えながら、なおも断崖絶壁は続く。

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 約1時間で終点のカラブリタ。標高720mだそう。終点手前の沿線にはキャンピングカーの基地もあったし、付近は高原リゾートの装いのよう。
 ここに留まっても良かったが、次は11時47分とかなり先になってしまうので、折り返し9時15分の便でとんぼ返り。もったいない話ではあるが。

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 改めて、運転室越しにラックレール区間をご覧頂きます。
 この路線、全長は22㎞で、途中に駅は4つあるが、行き違いができるのはザクロポウ駅1ヶ所。後は今の日本風に言えば「秘境駅」みたいな感じ。
 なお、ペロポネソス半島の鉄道路線の大半が「永久運行停止」の中、この路線は運行が継続されているようです。

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 ディアコプトからのアテネ行は25分の遅れ。動力集中式のDC列車。混んでいて、空席を探すのに一苦労。荷物が多いとなおさら…。目の前に屑物入れや灰皿もあるのに、窓の外に平気でポイ捨てする客が多い。

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 コリントス運河。これがあるので、ペロポネソス半島は、実質「島」。

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 右手にサロニカ湾を見て、アテネへ。

 アテネに戻ってきました。市中のYHに2泊し、明日は地下鉄を中心にアテネ近郊の乗り物を訪ねてみようと思います。

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《今日のニュースから》
世界初のバーチャルショップ 福岡市に開店

 商品の画像に専用アプリがあるスマホをかざしてQRコードを読み取り、登録した方法で決済の上、品物は指定の住所まで届けられるとの事。
「パスワードを入力する必要がない」のが売り、だそう。
 この事はIT社会の「明」だけど、一方で暗号ソフトの欠陥とか、グーグルが空港などの図面を公開してしまうとか、「暗」の部分の話も聞こえてきました。

№1157 思い出の海外旅行クロニクル 9.1997年ギリシャ1

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 昨年7月に書いたオランダ以来、8ヶ月も間が空いてしまいましたが、「思い出の海外旅行クロニクル」、再開します。
 今回は同じ1997(H9)年12月のギリシャです。
 ギリシャは前の年、1996(H8)年の欧州一周大旅行の際の起点となった国だが、あの時はイタリアへ渡る際に予定していたフェリーの欠航が判明し、アテネからの予定を前倒しする必要が生じてバスに変更、結局鉄道には乗らずじまいに終わっていました。
 なので、「ユーレイルパス通用17ヶ国(当時)を一つ一つ廻る」と決めた時、早々と翌年のギリシャ行を決めていました。
 今回は行き帰りも含めて13日間取っています。これを6回に渡って書きます。
 アテネからテッサロニキへの列車については№728で、帰路の途中、予定外だったがツポレフ154に搭乗した事は№168で軽く書いていますが、改めて全日程を記してみたいと思います。

1997年12月10日(水)

 アテネまではスイス航空を利用、チューリヒで乗り継いでいきました。
 SR169便は、ガラガラ…。

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 いきなり離陸後の銚子をご覧頂きます。

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 MD-11のキャビン。JAL「J-Bird」以外で搭乗したMD-11は、スイス航空が唯一でした。
(3年後のイタリア旅行の帰りでも乗ったが、別の機会に書きます)
 空いているので、中央の4人掛けの肘掛を上げてベッド代わりにしているお客さんもチラホラ。

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 離陸後、最初の機内食。
 肉食を選択。メインは牛肉炒め。中華風焼きそばの上に乗っています。他にシーフードサラダ、日本そば、ストロベリームース。

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 アムール川を横切る。
 全体的に天候が良くない。

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 到着前の機内食。若鶏のグリル、ブロッコリー、フルーツタルト。

 12月なので、17時を過ぎたらもう真っ暗。天気も良くなかったし。
 チューリヒは定刻よりやや早めに到着。

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 成田では撮り損ねた(撮れるポジションにはなかった)ので、改めてチューリヒ到着後のMD-11。
 HB-IWNは「スイスエア・アジア」機でした。台湾路線を運航するための子会社で、当時は中国メインランドと同じ会社で乗り入れるのが憚られた面があり、このような会社を設立したメジャーキャリアが、特に欧州ではいくつかありました。
 ただどこも、JAA(日本アジア航空)程独立色は濃くありませんでした。

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 MD-11のポストカード。

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 アテネ行SR306便が出発する、A03搭乗口。

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 SR306便、A321-100(HB-IOE)。

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 キャビン。前の席の背もたれには、パーソナル電話がついていました。
 天井には収納式のTVがあり、飛行中はビデオプログラムが放映されてはいたのだが、シートのオーディオシステムとかがあるわけではなく、無声(字幕)でした。

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 機内食。ホットミールだ。
 時間が時間だから仕方ないが、外はひたすら真っ暗闇。TVの飛行データに拠れば、アルプスを越えて、イタリアのアンコナからアドリア海に抜けたようだ。やはり景色を楽しめなくては。

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 2時間強のフライトで、アテネ(ヘレニコン空港)に到着。
 ターミナルまではバスで移動。ほんの数十メートルに過ぎないのだが。

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 こちらはA321-100のポストカード。

 パスポートコントロールは案外スムーズだったが、荷物がなかなか出てこなかった。
 市内へのバスは24時40分までない。真夜中だし、時差ボケもあるからさすがに1時間も待てず、私的には異例だが、ホテルまでタクシーを利用しました。若干の不安は杞憂に終わり、さすがに早くて20分もかからずにホテルに着きました。ユーロ導入前で、2500GDR(ギリシャ・ドラクマ≒120円)。安ホテルは部屋が古く、暖房の機器は今一つ?もう日付も変わってしまっているし、シャワーを浴びて、とっとと床につきました。

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1997年12月11日(木)

 いよいよギリシャの鉄道の旅、始まり始まり。
 旅の序盤は、ペロポネソス半島を巡るナロー(1000㎜)鉄道路線に3日間かけて乗って、一周します。
 この路線、昨今の経済危機が影響しているのか、大半の区間が「永久運行停止路線」(=廃止?)に陥ってしまったようです。

 朝起きると、アテネは快晴。まだ陽は出ていないが。部屋のTVのCNNの天気予報は、アテネは晴れ時々曇りで13℃、と伝えていました。

 ナロー路線は港町ピレウスを起点とし、アテネ(ペロポネソス駅)を経由して半島に向かう事になります。始発から乗りたいと、ピレウスまでは地下鉄で移動。

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 ピレウス駅。駅の前は港で、大型船がいくつも見えます。明るい。
 トロリーバスや通常のディーゼルバスが頻繁に行きかうが、よく見ると道路にはレールを埋めた跡が続いていました。路面電車が走っていた?

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 半島の南側を走るカラマタ行422列車は、7時間がかりの長距離列車。
 しかし列車は近郊タイプ(日本で言えばキハ47的?)の2連。
 ナローながら、車体の大きさも日本と対して変わりません。

 ペロポネソス駅までは引き込み線みたいなひなびた路線を旅客線として使っている感じ。線路の脇に5~6人位の家族を見るが、後ろにはテントみたいな小屋があって、まさかそこで暮らしているのか…?
 ペロポネソス駅から客が増えるが、一方で一人の男がカードを配り、何やら叫んでいた。募金のお願いらしい。

 しばらくは標準軌との3線軌条。やがて標準軌が終わり、コリントス運河を渡って半島へ。急坂が多くなり、ローカル線らしくなってきた。地肌がオレンジっぽい。

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 失念した、というかギリシャ語しかなかったから名前が解らなかったが、こんな小屋だけの駅もありました。

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 ローカル線らしく車窓は変化に富み、今度は白っぽい地肌の山間部。
 場所によってはオメガカーブが連続します。

 この列車には車内販売が乗っていて、コーヒーが600GRD。ガスボンベで沸かす、結構本格的な代物だ。

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 こんな駅も。ここも名前は解らなかったけれど、こんなしっかりした石積みの駅舎の駅もありました。

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 カラマタが近づくと平坦な路線をどんどん飛ばして行きます。夕陽が山の向こうに消えていきました。

 カラマタは定刻に着きました。この列車だけ見れば、ギリシャ、結構やるじゃん、と思わされるのですが、これ以降が…。駅はホーム1面だけの小ぢんまりした駅。貨物列車の入れ替え作業を行っていました。

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 もうすぐクリスマス。町のあちらこちらに、飾り付け。

 駅前の安ホテルに投宿。6500GRD。困った事に、部屋は暖房が効かないし、お湯も出ない。ヒーターの故障?スッタモンダあって、お湯は出るようになったが、疲れたのでシャワーは明日。毛布を被れるだけ被ってお休み。

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 人によってはもしかしたら消費税増税以上の一大事、だったかもしれない「Windows XP」サポート終了。
 私は何とか先週の内に、手持ちのWindows 7搭載のノートPCへの転換が完了しました。
 ソフトの面ではまだいくつか問題が出てくるだろうが(PCD形式の画像がフォトショップエレメンツ12では開けない、とか)、何とか一息つけたかな。とりあえず、本体のWebサイトの一刻も早いコンテンツ公開再開に漕ぎつけたいと考えています。

《今日のニュースから》
パキスタン・イスラマバード近郊で爆発 21人死亡

№1156 私鉄名車列伝 116.京阪電気鉄道9000系

 これまで「私鉄の車両シリーズ」として、私鉄・公営の旅客車両について書いてきたシリーズ、今回より、新たに「私鉄名車列伝」と改称します。
 鉄道の世界に於いて「名車」というと、史上に残る記録ホルダーとか、新技術を導入したとか、高速列車や豪華列車とか、何かしら鉄道ファンに限らず、世間一般にインパクトを与えてきた車両に与えられる称号というイメージがあるだろうと思います。
 マスプロ的に量産される通勤電車とか、評判が良くなくて「駄作」の烙印を押されてきた車両など、「こんなの『名車』じゃねぇよ」と思われる「クルマ」決して少なくない事は私も理解します。
 しかし私鉄・地下鉄等はもちろん、ここでは取り上げない国鉄・JRの車両も含めて、あるいはバスだって、客船だって、旅客機だって、皆当初は「人や物を運ぶ」社会的に重要な使命を帯びて、この世に生み出されてきたはずなのです。もちろんその後の結果が傑作か駄作かの評価の分かれ道になるけれど、私自身は、後に世間的にはどのような評価を得る事になろうとも、これら全てを「名車」と呼び、功績を称えたいと思うのです。子供じみているとは私自身も思っているが、世の中に生まれてきた乗り物、私自身は全否定だけはしたくないのです。
(それが、このブログそのもののコンセプトの根幹でもあります)
 そういう事を意識して、これからのこのシリーズを続けて行こうと思います。ここの所はペースが鈍っているが、1~2ヶ月に1系列は取り上げていければと考えています。書く事自体は前と変わりませんが。
 なお、サブテーマは面倒くさいので、とりあえず「私鉄の車両シリーズ」のままとします。過去のシリーズ記事のタイトルもそのままです。

 前回、昨年の暮れに近鉄2610系を取り上げてから4ヶ月も経ってしまいました。今回は京阪電気鉄道9000系です。

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 京阪本線は1997(H9)年3月のダイヤ改正で、朝ラッシュ時の淀屋橋行特急の枚方市停車が始まったが、8000系(当時はダブルデッカー車がない7連)では混雑の激化が予想された。このため朝方には特急に、日中は急行などと多目的に使用できる車両の開発が求められ、3ドアセミクロスシートの9000系が川崎重工で8連×5編成、合計40両製作された。

 車体は7200系とほとんど同じ形状の、ダブルスキン構造のアルミ車体だが、座席配置に合わせてドア位置が多少変わり、先頭車は車体長を延長している。車体色は在来通勤車と同じ濃淡グリーン系だが、水色の帯を巻いて区別していた。走行システムは7200系と同じVVVF制御、200kwの誘導電動機を1C4Mで制御する。

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 車内は中央のドア付近を境にした
集団離反型の固定クロスシート、両端のドア付近にはサイドシートを配置したセミクロスシートとしていた。クロスシートは3000系ダブルデッカー車に採用された物と同様、ノルウェー製のバケットタイプを採用した。クロスシートとロングシートの境界部にはポリカーボネイト製の仕切りを設けて、乗客同士の目線が合わないような配慮がされていた。各車両の大阪寄りには車椅子スペースが設けられていた。ドア上部には液晶式の車内案内表示器があり、窓ガラスはパワーウィンドとして、ボタン操作での開閉が可能としていた。


 朝ラッシュ時には淀屋橋行下り特急に集中的に投入され、混雑緩和に威力を発揮した。日中は急行や準急、8000系検査時には特急にも代走で運用されている。1999(H11)年には競馬開催時の臨時快速「淀快速ターフィー号」にも専用で運用された。
 2002(H14)年には9005Fの中間T車4両のロングシート化改造を実施。特急が10分間隔に増強された2003(H15)年9月改正では8000系の不足分を補い、日中にも特急の定期運用に就くことになった。


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 中之島線開業の2008(H20)年以降、快速急行用新3000系導入に伴い、新CI導入に合わせて全車両のロングシート化改造が実施された。
 新シートは背ずり部に半月形の模様を施した、黒と黄緑色(優先席は黄色系)のバケットタイプとなった。パワーウィンドも撤去され、側窓は手動開閉式となった。なお、クロスシートは伊賀鉄道に譲渡され、200系(東急1000系)に使用されている模様。
 改造後は6000系、7000系などの8連と共通に運用されている。


【編成】
←出町柳     淀屋橋
 Mc1 9000* - T1 9500 - T2 9600 - *T2 9100 - M1 9100* - T3 9500 - T4 9600 - *Mc2 9000
* パンタグラフ

 今回の記事は
「鉄道ピクトリアル1997年10月臨時増刊号 新車年鑑」(鉄道図書刊行会)
「鉄道ピクトリアル2000年12月臨時増刊号 【特集】京阪電気鉄道」
「同2009年8月臨時増刊号 【特集】京阪電気鉄道(鉄道図書刊行会)
「京阪電車 車両の100年」(京阪電気鉄道/ネコ・パブリッシング)
「京阪電気鉄道 完全データ」(メディアックス) 等
を参考にさせて頂きました。

 次回のこのシリーズは、阪急で神宝線に運用される9000系です。

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《今日のニュースから》
みんなの党 渡辺代表 辞任を表明