№1161 思い出の海外旅行クロニクル 9.1997年ギリシャ5

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 ギリシャからの帰り、本当はテッサロニキから国際列車を乗り継ぎ、ソフィア(ブルガリア)・ブカレスト(ルーマニア)を経由してブダペスト(ハンガリー)へ抜ける予定だったが、果たせずに終わる事になるのでした。
 正直、他の欧州諸国(ユーレイルパス通用国)とは事情が全く違うよなあ、と思わせるフィナーレへ。

1997年12月18日(木)

 アレクサンドロポリスに宿泊、この日のテッサロニキ行は10時過ぎと遅いので7時30分まで朝寝坊。
 しかしこの時期は夜明けが遅く、ホテルの部屋の窓を開けると…。

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 なんと美しい朝日!いいタイミングで起きたものだと思いました。

 このホテル、「ホテル・エリカ」と言うのだけれど、朝食の会場にはなんと…。

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 ドイツ北部、ヴッパータールのモノレールの絵が掲げられていました。なんでだろう?理由は聞きそびれた。ドイツからの移住?

 時間があるので、朝のアレクサンドロポリスの街を少し歩いてみました。

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 マーケット。後方に小さく灯台が見えます。

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 漁港でしょうか。

 アレクサンドロポリスの駅、正確には、ホテル・エリカのそばにあるのは「港」駅で、本線から分かれた位置にあります。もう一つ、アレクサンドロポリスの本駅まで戻って、テッサロニキ方面だとスイッチバックする事になります。
 10時05分発のテッサロニキ行はディケアからの夜行で、例によって遅れ気味に到着。30分ならまだ良い方か?

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 客車列車で、港駅は頭端形態だから、メインのアレクサンドロポリス駅までは推進運転で引き返す事になります。ここがメインの駅。操車場メインな感じ。

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 市中を抜けると、山間部にかかって渓谷沿いを走ります。川の水がきれい。快晴になってくれている事もあって、すがすがしさも感じさせる車窓。

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 キルキス駅。

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 遠くに連なる雪山を眺めていると、「ギリシャ」のイメージじゃない。途中停車していく駅も、どこかスイス的なイメージ、と言ったら大げさだろうか。

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 ただし運行はスイスと同じとはいかず、コモティニ駅では上りICの15分遅れもあって、こちらの遅れは47分に広がりました。でもいい駅舎だなあ。

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 コモティニ駅構内の一角では、軍事車両を貨車に積み込むシーンも見られました。

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 進行方向右手はどこまでも白い山々。
 手前の低い山々の麓には所々小ぢんまりした集落も見られるのだが、線路の沿線には、民家はほとんど見られない。時々小駅を通過していくけれど、どこも集落からかなり離れていました。

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 ちょっと曇りがちになってきたけれど、さらに山間部を行き、カーブを右に左に切っていきます。列車のスピード自体はそれなりに出ていると思うのだけれどねえ。トンネルに入ると、つららが出来ていました。

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 スタブロウポリ駅。ここでディケア行の待ち合わせ。駅舎は民家みたい。

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 山道が終わって、直線も長くなります。寒いのだけれど、沿線では放牧も見られるようになりました。

 この先は夜の訪れが早いから真っ暗になってしまって、沿線の写真がないのはゴメンナサイ。
 ストリモンで、ソフィアからの客車2両を連結。明日は、この客車編成に乗り込む事になるはず。
 この先テッサロニキまでは明日の昼間乗るはずだから、とりあえず景色は明日のお楽しみか。

 最大1時間23分にまで広がった遅れは、ストリモンでの作業時間を短縮した事もあり、テッサロニキは56分の遅れと、1時間を切って到着しました。それでももう19時。

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 夜のテッサロニキ。ギリシャでの最後の夜です。

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1997年12月19日(金)

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 朝のテッサロニキの駅前。
 停車しているOSEのバスは、アルバニアのコルツェ行。今でもそうかもしれないが、当時のアルバニアは北朝鮮と並ぶ「謎の国」、しかもこの年はネズミ講の破綻で経済が大混乱に陥っており、簡単に行こうと考えるのはちょっとはばかられる、そんな時期でした。バスは2便、8時と24時の2便がありました。

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 ソフィア・ブカレスト経由でブダペストまでの国際乗車券。前夜の内に購入しておきました。27,145GRD(≒11,200円)。

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 ソフィアまでの指定券。硬券です!805GRD(≒330円)

 さて、ソフィア行は8時25分出発、なのにホーム3番線に上がっても客車がいない!
 アテネからアレクサンドロポリス(さらにオルメニオ)に向かう夜行列車にストリモンまで併結されるのだが、そのアテネからの列車が全く現れる気配がない。既にホームには多くの待ち人がいる。どこかアジア系の風貌の人々が目立つ。皆大荷物だ。
 底冷えがするホームで長時間待つのはつらい。駅員に聞いたら、到着は10時を過ぎるって…。いきなり大きな不安が…。結局その通り10時過ぎに、3時間も遅れてやってきた。何やかや入れ替え作業も行って、ようやく11時過ぎに出発。

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 車窓自体は美しい。湖の向こうはマケドニア?
 それにしても、これまでのOSEもそうだったのだが、今回指定されたBDZ(ブルガリア国鉄)の客車も、窓ガラスが汚い。それに、テッサロニキで1泊していた割には、屑物入れのごみはそのままだったし、滞泊の間の準備が全然できていないようだった。また、例によって暖房の効きが良くない。車掌にアピールしても首をすくめるだけ。しかし、同じコンパートの男性3人は明らかに私より薄着だと見えるのだが、寒くはないのか?

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 ムリエス駅。

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 ロドポリ駅。

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 山間部。バスが見えます。
 所々新線が建設されているのは南部と同じ。旧線部には廃車の運命をたどる貨車が多数連なっていました。

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 名前が読み取れなかったのだが、待合室だけのこんな無人駅もありました。

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 ストリモン駅。ここで本線から分かれ、ブルガリアに向かう事になります。オルメニオ行はソフィア行を切り離して、さっさと出て行きました。こちらは、構内の貨物列車に連結されていたDLがこちらの方に来て連結、一旦構内のはずれで停止してバック、先の貨車の前に客車を連結させました。これでようやく出発。

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 ギリシャ最後の駅、プロマション。
 旅客列車はこの国際列車1往復の発着だったが、駅舎自体は案外大きく、カフェテリアもありました。
 DLは列車を切り離した後、単独で国境の向こうに走り去って行きました。

 問題はここから。国境警備の職員が、乗客全員のパスポートを回収して回ります。ビニール袋にはパスポートがぎっしり。それを持って、駅舎の前にいたパトカーに乗って、どこか(多分国境管理施設)に行ってしまいました。
 カフェテリアには一応客がいる。しかし切符売り場はないし、時刻表も見当たりませんでした。この駅の乗降は考えず、国境を越える手続きのためだけの駅なのでしょうか。
 さて、何時に出発できるのか。思い切って駅員に聞いたら、パスポートコントロール次第、だって。

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 15時を過ぎて、先にこちらの列車を牽引してきた後、国境の向こうに消えて行ったDLが、客車+貨車の混合列車を引いて戻ってきました。客車はこちらと同じ組成、貨車はスイス・フランス・ドイツの車両が見られました。DLは再びこちらの列車に連結。
 国境警備の職員が来たのですわ出発かと思ったら、反対側の列車の乗客のパスポートを回収するためだったらしい。構内はDLのエンジン音が響くのみで出発の気配が全くない。とにかく国境警備がパスポートを返してくれない限り、どうにもならない。

 17時を回り、あたりは暗くなってきた。駅も車内も明かりがつきます。
 さらに30分後、何やら叫び声が聞こえたと思って外に出ると、ようやくパスポートが帰ってきたようだ。乗客の名前が一人ひとり呼ばれ、パスポートが返却される。パスポートには、ギリシャ出国のスタンプのみが押されていました。

 17時36分出発。なんと3時間30分も停車していた。
 暗かったし、国境なので撮影ははばかられると思ったので写真はないが、国境と思われる橋の手前にはギリシャの、先にはブルガリアの軍の小屋が設けられていました。どちらも兵士が一人づつ、暖を取りながら警備をしていました。

 走ってみればわずか6分で、ブルガリアのクラータにつきました。ギリシャとはお別れ。
 ここでも同様に軍服の兵士が、乗客全員のパスポートを回収して回る。当然その間列車は動けない。
 それでもじれったく感じるのは私だけみたい、他の乗客は話が弾み、時には爆笑も聞こえてくる。

 ここでは1時間40分程でパスポートが戻ってきました。入国カードつき。
 2時間程でようやく出発。それにしても、プロマション+クラータで、出入国の審査に合計5時間、ですか…。当然ダイヤはもう無茶苦茶になってしまいました。ここから、ブルガリア側のELの牽引になります。客車も増結。
 外は完全に真っ暗になってしまい、せっかくの初めての国なのに、景色が全く楽しめませんでした。それどころか、相変わらず暖房が効かず冷え冷えしたもの。

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 暖房が効かないだけでなく、増結されたブルガリアの客車の最後部の貫通扉は、(解りにくいかもしれないが)窓ガラスが片方なくなっていました。
 コンパートにたたずんていると、他のコンパートの乗客が入れ代わり立ち代わりやってきて、同室の乗客とおしゃべりしている。仲間意識が強いようだ。一応禁煙なのにタバコプカプカは困ったものだが。通路も吸殻が凄い。

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 この先もなんやかやあって、ソフィア到着本来は18時26分の所が23時43分と、5時間以上の遅れになってしまいました。ものすごく暗くて、寒かった…。

 22時45分発のブカレスト行夜行はこちらを待つ事もなく、さっさと行ってしまっていました。クラータ出発のあたりである程度覚悟はしていたが。これまでの経験から定時運転はハナから期待していなかったけれど、4時間20分の待ち合わせが余裕にならないとはね…。
 さあどうしよう。明日まで列車はないから駅にいたってしょうがないし、といって泊まる場所、あるの…?と不安に思いながら外に出ると、幸い駅前に大きな「ノボテルホテルヨーロッパ」があり、迷わず投宿。米ドル立てで、C/C払いだと100USD(帰国後の請求では13,237円だった)と非常に痛い出費だが、帰国が迫っている事を考えると、もう選択の余地がありませんでした。もっと安い宿を探す、なんて時間的余裕もなく、何より駅付近は活気というものが全くなく不気味。あまり長居はできそうもないので…。

 ホテルはさすがに国際的大手チェーンらしく設備はキチンとしてはいたものの、部屋にドンと置かれたTVの映りが悪いのは、社会主義国「らしい」所?そんな中、オリンピアで翌年の長野オリンピックの聖火の採火が行われた、とのニュースがありました。

 残り時間を考えると、ブダペストまで列車という選択肢はなくなってしまい、飛行機での移動に変更する事になります。もちろん航空券の運賃の支払いもあるし(この時点ではいくらになるかも解らなかった)、鉄道の乗車券がソフィアから先が丸々ムダになってしまう(残りの区間の払い戻しの請求、自信ないよ。全くの初めての国で、共産圏だから英語が通じるかも解らないし…)から輪をかけて懐具合が寒くなってしまうのだが、もはやこれ以外道がありません。

 当ブログでは直接のコメントは受け付けないので、何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。
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《今日見た・聞いた・思った事》
 韓国の客船の沈没、捜索は思うように進んでいないようです。ただでさえ行方不明者が膨大だし、その大半が修学旅行の学生、というのは、当然家族もだけれど、残された同級生の心情を考えると、はっきり辛いです。心の傷が後々残るという点で。
 修学旅行中の大惨事、というと、個人的には26年前の上海の列車事故を思い出します。高知の高校の学生を乗せた列車が正面衝突を起こして、27人が犠牲になった事故でした。遠い昔には日本でも同様の事故がありました(1956(S31)年の参宮線)。
 未だ解決のメドが立たないマレーシア機「失踪」事件もそうだけれど、欲しい情報が得られない、というのが、親族の方々の怒りを誘う、というのは、事故、に限らずどんな些細なトラブルでも同じだなあ、と思わされます。と言って、じゃあその時点その時点でどんな情報を提供すべきなのか、というとこれまた難しい問題なんだよなあ、というのも、私の列車乗務員時代の経験から感じる事です。
 船長が謝罪したという報道もあるが、船長が先に降りた、と聞くと、№630で書いた「コスタ・コンコルディア」の座礁事故を連想させます。具体的な内情は全く解らないから、とりあえずこの場で良い悪いを語るつもりはないが。
 とにもかくにも、まずは行方不明者全員の所在の早期の判明が望まれます。

 北海道新幹線のJR北海道側の車両「H5系」の概要が昨日発表になりました。
 JR東日本のE5系と基本的には同じだが、帯の色が変わる他、インテリアもE5系とは異なるものになるらしい。

《今日のニュースから》
SL「義経号」 梅小路蒸気機関車館で歓迎セレモニー

№1160 思い出の海外旅行クロニクル 9.1997年ギリシャ4

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 ギリシャというとまず、古代遺跡のアテネや紺碧のエーゲ海を連想される方が大半だろうと思います。
 日本人で北部に足を踏み入れる方はそう多くはないだろうと思うし、ましてローカル鉄道路線に乗る人は、「鉄」でもほとんどいないのではないか、そんな気がします。
 旅後半はテッサロニキをベースとし、夜行列車も加えて、そんな北部の鉄道路線を訪ねてみようと思います。(恐らくは)ギリシャ最北の駅にも足跡を記しました。

1997年12月16日(火)

 前日はギリシャ全土でいろいろ何やかやとあったらしい。列車の目の前にトラックが落ちた、港に車が落ちた、とか。
 この日も朝は曇り空。
 ICで西のコザニへ行きます。

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 ICは全車指定で、指定席券が必要。追加料金が必要、とトーマスクックの時刻表には記されていたが、実際には無料で発券されました。どうなっていたのだろう?

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 無料配布されていた、ポケットサイズのICの時刻表を掲げておきます。全部ギリシャ語なので読みづらいが、アテネ~テッサロニキは5往復(1往復はさらにアレクサンドロポリスまで運行)されて、1往復は完全ノンストップ。コザニへは、アテネからも1往復あります。テッサロニキからの編成が、コザニ折り返しでアテネに向かう(またはその逆)ダイヤです。ペロポネソス半島のアテネ~キパリシアにも設定がありました。

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 2等車の車内。2-2配置。1等だと1-2配置です。どちらもリクライニングします。座席はベルリンのメーカー製らしい。

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 1等車には売店もありました。乗客が少ないので、手持ち無沙汰な感じ。紅茶400GRD(≒170円)。

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 IC81列車の方向板(サボ)。ギリシャ語で書かれている「PELLA」とは、列車の愛称だろうか。古代マケドニア王国の首都だった所。
 車内は放送がキチンとありました。それにしてもガラガラ。アレキサンドリア発車時点では、乗客は20人しかいませんでした。エアコンのシューという音だけで静か。意外と若い乗客が目立ったけれど。この列車は逆に暖房がやや効き過ぎ。

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 この路線も展望が良いです。大スパイラル線もあるし、遠くには雄大な雪山も連なります。 さすがにICといえどもスピードは出なくなるが。

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 雪原となった沿線に、工場(?石炭発電所?)が3つ4つあって、モクモク煙を噴き上げている。その内の1ヶ所から、専用線が延びていた。電化されていて、突然の事だったから写真がないが、妙ちくりんな形のELが使われていた。
 この付近は一度は快晴になったのだが、煙突から吹き上げられる煙があっという間に雲に変化し、太陽を遮って曇り空にしてしまったのには、少々びっくりさせられました。
 工場以外には、民家は全くなし。

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 終点のコザニ駅。31分の遅れでした。
 一応、大きな街らしいのだが、駅そのものも、駅付近も、どこか殺風景な感じがしたのは、乗客が少なかったからか。
 中の壁には、何故か鉄道のダイヤが掲げられている。これから向かうフローリナの近辺からはマケドニアへの貨物専用路線があるらしいが、ダイヤ上は列車の設定が全くなし。

 アミンテオンまで戻って、そのフローリナへ向かう。折り返しICのアテネ行以外選択の余地がなく、30分程度の滞在でとんぼ返り。この列車も、乗客は1ケタ程度。この先大丈夫なの?と思ってしまった。
(現在、アミンテオン~コザニは、少なくとも旅客列車は走っていないらしい)
 アミンテオンで乗り換えたフローリナ行ローカル列車は、DLが客車1両をけん引するだけのチープな客車列車。

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 ちょっと先走って、アミンテオン~フローリナの鉄路。
 アミンテオン駅構内の分岐の形態や、キロポストと思われる標識の数字からすると、こちらが本線格なのかもしれない。線路は貧弱で、揺れました。

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 まあ純粋にローカル線らしい風情ではある。北海道のようでした。

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 フローリナ駅。エーゲ海などからくるギリシャのイメージからはかけ離れた、完全に北国の装い。こういうギャップの体験も、一国をワイドに巡る旅ならではのものでしょう。
(知らない国なら、なおさら)

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 折り返しアミンテオン行は、一転して軽快なリズムで山を下っていきます。しかし空は雲が低く立ち込めて、薄暗く、重苦しい雰囲気。
 左手に何かモニュメントが見えるが、何かは不明。

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 アミンテオン駅に戻ってきました。静かな田舎町風情。
 貨物対応なのか線路の有効長がとても長く、わずか1両牽引のDLは方向転換のため、かなり遠くまで走っていきました。日本ならDCの単行にする所だろう。

 さて、所定で16時前に出発するはずのテッサロニキ行ローカルが、姿を見せない。
 先にアテネからのICが来たが、行き違いの相手を待たずに出発。また、フローリナ行もローカルを見捨てて出て行きました。
 寒さが厳しいので、暖房が効いた駅舎の中でウトウトしていたら、「テッサロニキ!」と駅員の叫び声が聞こえたので外へ。列車が入ってくるのが見えたが、既に50分近くの遅れだ。

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 左手に、ヴェゴリティーダ湖。沿線のムードは、北欧と言っても騙せそう?
 残念ながら、この先はどんどん暗くなってきました。遅れがなければもう少し車窓を楽しめたとは思うが、エディッサ駅では遅れが1時間に増幅してしまいました。駅毎に停車時間が長く、停車の旅に増幅していく感じ。

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 そのエディッサ駅では、可愛らしいクリスマスのイルミネーションが目を楽しませてくれました。

 テッサロニキ到着、1時間22分延。特に北部は大幅な遅れが常態化しているように感じられました。この先もそうで、これが最後にたたって大幅なプランの修正を強いられる事になります。

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 夜のテッサロニキ駅。
 手前に見えるブルーのバスはOSEが運行する長距離国際便で、ブルガリアのソフィア経由プロヴディフ行、との事。

 ここから北部のディケアまで、夜行列車のクシェットを利用して行きます。列車自体はアテネ始発だが、クシェットはここで連結。ドイツの中古と思われるが、相当古い。
 実は、良く眠れるか少々不安だった。寒いのに、ここまでは暖房の効かない列車が多かったので。暖気は入ってくるが、少々弱々しい…。

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1997年12月17日(水)

 幸い心配は杞憂に終わってくれて、良く眠れました。目覚めたら、もう8時過ぎ。

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 ソウフリ駅。さっそく1時間程遅れていました。
 車内を廻ってきた車掌にどこまで行くのか聞かれてディケアだと答えたら、ディケアには泊まれる場所はないよと告げられました。元々その日の内にアレクサンドロポリスまで戻るプランなので、そう答えておきました。

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 ディケア駅。この列車の終点です。確かに、長距離夜行列車の終点の割にはひなびた田舎の駅という感じ。切符売場は軍人の姿がチラホラ見えました。

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 駅前を延びる通り。

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 丘の上から。エブロス川を挟んだ反対側は、もうブルガリア。

 ギリシャ領としてはあと2駅先、西のオルメニオまで路線があるので、午後の列車で行ってみました。どこにも記録はないが、おそらくはギリシャ最北の駅でしょう。
 例によって1時間近くの遅れ。アレクサンドロポリスから来たのは、近郊タイプのDC2連。
 雪原の直線を突っ走って、駅が見えてきた、と思ったらもうオルメニオでした。

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 何とも中途半端な「終着駅」。無人駅で、行き違いもできません。
 集落もかなり離れていて、元々5分で折り返すダイヤでもあったので、さっさと折り返し、周辺を歩く余裕はありませんでした。乗り遅れたら、今日はもう列車がないので。

 線路はこの先ブルガリアのスヴィレングラードまで延びていて、夜行列車の設定があったようでした。
 しかし現在はディケアから先、旅客列車の設定がありません。オルメニオにも列車は来ていないよう。
 折り返し、アレクサンドロポリスまで乗り通します。

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 エブロス川は下流でマリツァ川に合流。川の向こうはトルコになります。マラシアでは、対岸におそらく国境警備だろう、トルコ側のやぐらが見えます。これまで国境と呼ばれる所を何度か見てはきたが、その中では一番厳重に見えました。ギリシャとトルコって、あまり仲が良くないので…。

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 それにしても、川のすぐ向こうが違う国、というのは、陸上の国境を持たない日本人としては不思議な感覚ではありました。
 左手に4本の、遠目には鉛筆のような塔が見えるが、おそらくはエディルネにある、セリミエのモスクでしょう。

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 マリツァ川。

 2両編成なのだが、後ろの車両は乗客が全くいない。それもそのはず、この車両も全く暖房が入っていない。どうした事か、ギリシャは暖房が故障したままの車両がとても多い。北部はすごく寒いのに…。

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 ピシオで、トルコへの路線が接続します。ちょうど列車が着いた所で、1日1往復だけなのでラッキーでした。「イスタンブール~テッサロニキ」の方向板を掲げてはいるが、国境の前後を行き来するだけの区間運転。

 その後も暗くなっていく中、例によって駅毎に遅れが増幅。
 アレクサンドロポリスに着いたのは、定刻より1時間30分程の遅れになりました。思ったのだけれど、行き違いの部分で遅れが増える傾向にあるので、信号システムに不備があるのではないか。

 今日はここまで。駅前に見えたホテルに投宿して、明日に備えます。

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《今日のニュースから》
富山県警山岳警備隊 立山町で救助訓練

№1159 思い出の海外旅行クロニクル 9.1997年ギリシャ3

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 アテネは昨年も来ていたtが、パルテノン神殿などを見学したのち、ピレウスまでは急遽バスでの移動になってしまったので、大掛かりな乗り歩きとかはしていませんでした。
 今回は、午前中は地下鉄に乗り、商店街を訪ねたりしました。バスは乗らなかった。ちょっともったいないか。
 午後は近郊列車で郊外へ往復。
 翌日はいよいよアテネを後にして、北へ向かいます。前述の通り№728で軽く書いたが、改めて、もう少し詳しく書きます。

1997年12月14日(日)

 この旅では初めて、朝から本格的な雨模様。7時を過ぎてもなお暗い。

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 当時の地下鉄は1路線だけだった。この車両は最新タイプ。

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 その車内。

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 他にもこんなタイプが。

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 旧型の車両。

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 この路線は地下部は少なく、地下駅はオモニア・ビクトリアの2駅のみだった。郊外へは、一方的な上り勾配で走ります。
 北部のイリニ駅は多少新しく、上屋がドーム状。ここで折り返す列車が多い。
 駅前には大きなスタジアム「アテネ・オリンピックスポーツコンプレックス」があり、アクセスの駅として機能しているよう。この年の9月に開催が決定した、2004(H16)年のオリンピックのメイン会場となる事になります。

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 終点のキフィシア駅。地上駅。きちんとした駅舎が建っていて、日曜日の早朝ながら人も車も多く行きかいます。
 駅前の喫茶店でちょっと一息。雨なので多少うすら寒いのだが、外でコーヒーを楽しむ人々の姿もありました。 キフィシアから、中心部のオモニアまでは、所要約30分、運賃150GRD(≒70円)。

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 南側の終点、ピレウス駅。
 時系列的に前後してしまったが、3日前の11日に撮影したので、晴れています。

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 ホームは、ドームになっていました。全体的に地下鉄というよりは、郊外私鉄のイメージ。実際、この路線の生い立ちはそうらしい。

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 引き返して、モナティスラキで途中下車、商店街を訪ねてみました。
 雨が時々強くなり、冷たい風も吹いていたけれど、大勢の買い物客が傘を差しながら行き来していました。ここで小ぢんまりした絵画の店を見つけ、小さいけれどエーゲ海の風景画を土産にと買ってみました。

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 午後はラリッサ駅から近郊列車に乗って、北部の入り江に位置するシャルキスまで往復してみました。フレキシーパスなので、この日はパスは消化せず、片道770GRD。
 列車は、3日前に乗ったペロポネソス半島のナロー路線とほぼ同形態の、近郊DC2連。

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 車内もほぼ同じ。暖房が入っていなくって、寒かった…。
 この列車は放送があった。ペロポネソスの路線もそうだったが、近郊型DCは、簡単ながら放送が入るようだ。

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 テッサロニキへの本線から分かれ、湾を回り込むようにして、反対側に見えるシャルキスの街へ。

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 終点のシャルキス駅。駅のすぐ横が海です。
 このまま折り返して、アテネに帰りました。連泊。

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1997年12月15日(月)

 アテネを後にして、ギリシャ第2の都市・テッサロニキへ「急行」列車で向かいます。
 本線も始発はピレウスで、アテネは本線もペロポネソスのナロー路線も中間駅です。

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 テッサロニキ行500列車。2等荷物室合造車+1・2等合造車+2等3両+最後部はかなりクラシックな「食堂車」で客車6両。
 ピレウスはなぜか発車時刻になってホームに入線、10分遅れで出発。

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 1等車の車内。1等は2-1、2等は2-2配置のシート。どちらもリクライニングする。
 アテネ(ラリッサ駅)出発時点での乗車率は5割弱、という所でしょうか。色々な人種の人々がいて、アラブ系、という感じの人も少なくありませんでした。

 最後部は「食堂車」と書いたが、実態はテーブルに商品が並べられるだけの売店的な機能しかなかった。購入したものをテーブルで食べても良いのだろうが、冗談じゃない、恐ろしく寒い。まるで冷凍庫。おじさんが2人で切り盛りしているけれど、良くこんな車内で仕事ができるものだと、品物だけ買って、逃げるように客車に戻りました。

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 途中駅で一休み。どこで撮ったっけ?

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 複線区間でもほとんど列車と出会わないまま、ティソレア?から単線になり、遠くに見えていた雪山がどんどん迫ってくる。

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 こんな大鉄橋もあります。

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 アテネから約200㎞、トンネル一つ抜けると完全に雪景色。まるでパウダーをまぶしたかのよう。

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 山間部の信号所で上りとの行き違い。大スパイラル線の中にあり、山腹を回り込んで反対側に来たら、まだ停車しているのが見えた。画像で解るでしょうか。

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 峠を越え、ラリサに向けて下っていきます。雪はなくなりました。
 ティソレア~ラリサは、思ってもみなかった、アルプス的でダイナミックなパノラマが楽しめたと思いました。
 ただ、遅れがどんどん増幅し、ラリサは1時間程の遅れになりました。ここで機関車交換。

 この先は海岸線沿いを走ります。所々改良工事も行われていて、新線に付け替えられた区間もありました。少々落ち着かない感も。大幅にルートを変えた所もあったようでした。
 曇り空の浜辺には、人影が全くない…。

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 テッサロニキは、1時間21分の遅れになりました。

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 テッサロニキ駅。大きいです。

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 駅舎の中。広いです。

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 中には、このような保存車両が展示されていました。どんな車だったのだろう。

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 最後に、ホーム。7番線まであります。
 首都アテネのラリッサ・ペロポネソス両駅(最後にご覧頂きます)より、遥かに大きな規模のターミナル駅です。東欧諸国(マケドニア・ブルガリア)への中継点として機能していたからでしょうか。
 ただし、雨模様のせいもあるのか、ホームはとても薄暗かった。コンクリ造りで、南部と比べて全体的にやや殺風景にも映るのは、隣接する社会主義国の影響が出ていたのでしょうか。
 架線が貼られているが、当時はまだ電化はされていませんでした。

 ギリシャの鉄道は、特に北部は日本人が乗る機会は少ないだろうと思います。
 ここをベースにして、明日から北部の路線を訪ねます。

 当ブログでは直接のコメントは受け付けないので、何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。
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《今日のニュースから》
東武日光駅前にシカ出現 台湾人観光客2名負傷