№1164 不合理な 東京近郊区間

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 今月1日の消費税増税に対応した運賃改定に合わせ、JR東日本では東京・新潟の「近郊区間」を拡大し、仙台にも「近郊区間」を新設しました。
 Suicaの利用範囲の拡大に合わせてのものだが、特に「東京近郊区間」については、かなり不合理な問題が発生しているように思います。

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 4月1日からの新しい東京近郊区間を記してみました。
(東京都・神奈川県・埼玉県・千葉県は複雑なので簡略化しています)
 太線区間が新たに「東京近郊区間」に含まれた所です。
 この結果、235.4㎞ある東京~松本の乗車券は、3月までは3日間有効で、(東京23区内の駅以外は)途中下車が自由に行えたのに、今月からは当日のみ有効、途中下車も一切できなくなってしまいました。
 極端な話、いわき~松本は450㎞位あり、特急<ひたち><あずさ>利用でも所要5~6時間は必要、乗車券は3月までは有効4日で途中下車も自由だったのに(経路は指定する必要があったが)、4月になった途端、有効は当日限り、途中下車も全くできなくなりました。
 もちろん、現代においてはこの位の距離は特急利用が普通で、普通列車を乗り継いで途中下車を楽しむ、という旅行をする人は、限られた層に過ぎないでしょう。シーズン中なら「青春18きっぷ」をどうぞ、という事なのかも知れない。
 JR以外の大手私鉄でも、近鉄の大阪~名古屋・賢島など200㎞位の距離があっても、乗車券は当日限りで途中下車不可であり、大騒ぎする事でもない事、なのでしょう。
 しかし一方で、もっと距離が短い東京~万座・鹿沢口(183.9㎞)は、(吾妻線が東京近郊区間には含まれていないので)従来通り有効2日、途中下車も自由です。
(経路は指定する必要がある)
 何か不合理、という印象が拭えません。

 このような事になったのは、IC導入に合わせて、ICのルールに合わせてかなり強引に近郊区間を当てはめてしまったからだと思います。
 しかし、新たにICの取り扱いを行う駅はかなり限られている上、これらの駅ではSuicaの発売さえなく、地元利用に関してはほとんどメリットがないまま、乗車券のルールだけ無理やり東京の一部に組み込まれてしまった、そんな感があります。
 元々ICカードは、特急でも数時間かかるような移動はあまり想定していないシステムなのではないでしょうか。それを紙の乗車券にまで適用してしまうのは、少々無理があると思います。
 近郊区間とICカードのエリアの関係で言うと、JR九州では「福岡近郊区間」と「SUGOCA福岡・佐賀・大分・熊本エリア」は一致していません。
 またJR西日本の「ICOCA岡山・広島・香川エリア」は近郊区間の設定がないので、例えば岡山~広島(山陽本線経由で151.3㎞)は事前に乗車券を買っておけば、有効2日で途中下車も自由です。
 東京近郊区間にしても、先に近郊区間に組み込まれた久留里線で未だにICカードが利用できていない(東京に近いし、小海線よりは遥かに本数が多いのに)事を思えば、ICカード利用エリア=近郊区間と決めてしまう必要はないはずです。
 ICカードの利用範囲自体はいいとしても、

「ICカードは入場当日限り有効で途中下車はできません。数日かけて途中下車もある旅行を予定される場合は、あらかじめ紙の乗車券をお買い求めください」

というルールで良いのではないでしょうか?

 そもそも、福島県や長野県まで「東京」近郊区間に含めてしまう事自体、無理があると思います。
 長野に関しては、別に長野を中心とした「Suica長野エリア」みたいなものを設定し、Suicaの発売も行ったうえで、他駅にも設備を導入し、定期券の発行など、他地域と同等のサービスを提供する方向に持っていく方が地元にとっては利便性が向上するのではないでしょうか。
「東京近郊区間」そのものは、№324で書いたように、国鉄時代の設定は狭くなって実態に合わなくなっていたけれど(小田原すら含まれていなかった)、この4月からの新しい範囲は逆にあまりにも広すぎると思います。1999(H11)年6月改定時のエリアが、現状でも一番適切な範囲だと思うのですが、どうでしょうか。

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《今日見た・聞いた・思った事》
 韓国の旅客船の沈没事故は、犠牲者が150人を超えてしまいました。あらためて犠牲になられた方々のご冥福をお祈りします、としか言えません。
 この事故を巡って先日、パク・クネ大統領が船長らを「殺人のようなもの」と非難したそうだが、実際に事故に遭われた方々、犠牲者の遺族の方々らならまだしも、まだ行方不明者捜索中という今の段階で、一国の国家元首までがそのような発言をされるのは、さすがにどんなものでしょうか。
 ちょくちょく指摘されるように、韓国では犠牲者が100人を上回るような惨事が、残念ながら現代でも少ないとは言えません。200人近くが犠牲になった2003(H15)年2月の大邱市の地下鉄の火災は記憶に新しいし、その前には橋やデパートの崩落事故もありました。昨年のアシアナ機の事故も、犠牲者3人とはまだ奇跡的だったとさえ言えます。
 だから事故に関して発言するなら、その時々の関係者や責任者を感情的に糾弾するのではなく、なぜ大惨事がこうも繰り返されるのか、背景にありそうな国情にまでさかのぼって原因を究明し、全ての交通や施設等において、惨事の再発の防止に努めるよう命じるなり、指示するなりをすべきだと思います。
 日本も他人事ではありませんよ。間もなく、福知山線の大惨事から9年です。6年前には日本でも、フェリーの沈没事故がありました。「ネットウヨ」共の戯言など無視し、自らの事として戒めるべきです。

《今日のニュースから》
明石歩道橋事故 2審も実質「無罪」判決

 そう、日本でもこのような惨事がありました。№593でも書いたが、2001(H13)年7月、JR朝霧駅近くの歩道橋で、花火大会見物の観客がすし詰めになり、11人が犠牲になったというものです。
 私の立場では犠牲者の冥福をお祈りするとしか言えないが、どんな規模であっても、事故というものは、犠牲者やその遺族はもちろん、「加害者」を含む関係者すべてが心に深い傷を負うものです。だから事故というものは、絶対に起こしちゃいけない、惨事防止のためには上も下も右も左も関係なく、全ての関係者が積極的に関わらなければならないものだと感じます。

№1163 思い出の海外旅行クロニクル 9.1997ギリシャ7&lt;終&gt;

 これまで6回に渡って、1997(H9)年12月の13日間に渡るギリシャ旅行について書きました。
 最終回は、ギリシャの基幹鉄道事業者、ギリシャ鉄道(OSE=Organismos Sidirodromon Ellados)の車両と、アテネのターミナル・ラリッサ及びペロポネソス駅の画像を御覧頂きます。
 また、総まとめとして当時感じたギリシャの鉄道の印象、当時のギリシャのパーソナルデータを記して、完結とします。今現在とは大分様相が異なり、ギャップが大きくなってしまっていると思うのですが、その点はご承知おきください。
(各車両の形式についてはご勘弁を)

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 当時のOSEのシンボルマーク。

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 まずは本線用のDL。
 3枚目は、ブルガリアとの国境越えの列車を牽引していたタイプです。

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 ペロポネソス半島のナロー路線を走るDL。本線用と、ほぼ同型と見えました。

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 本線用の入替用DL。

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 ナロー路線の入替用DL。

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 この客車はカラーからして、ドイツ鉄道(DB)の中古でしょう。銀色の帯が追加されているが。

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 これもDB中古?

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 ナロー路線用の客車はやはり少々小ぶり。

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 本線用のDCで、動力準集中タイプ。

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 ローカル用のDC。

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 №1160で書いた通り、ICはペロポネソスのナロー路線でも走っています。
 ナロー路線用は、本線用と比べるとややおとなしいデザインに見えます。

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 ナロー路線にも、動力準集中式のDCが走っていました。

 次に、改めて首都アテネの駅。
 テッサロニキなど、北部へ向かう標準軌路線のラリッサ駅と、ペロポネソス半島へ行くナロー路線のペロポネソス駅に別れていました。
 OSEの歴史は解らないが、恐らくは、かつては別々の鉄道事業者だったのでしょう。

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 まず、ラリッサ駅。

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 窓口。

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 売店。

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 ホーム。当時はあまり首都のターミナルという感じはしません。地方都市の駅というイメージ。

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 こちらはペロポネソス駅。ラリッサと比べると、線路同様小ぶりな感じがしました。駅舎は堂々としているが。

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 窓口。なんだか厳かな雰囲気でした。

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 ホーム。


 こうして車両や駅の写真を並べてみると、他の西側諸国と比べてレベルがかなり低いというのが、当時の率直な印象です。
 この後、ペロポネソス半島へのナロー路線はコリントス運河に近いキアトまでは標準軌化され、このためペロポネソス駅は廃止になったとの事です。

 以上、7回に渡って、本当に簡単ながら、ギリシャの鉄道の旅について書いてきました。
 ここで、短い期間ながら乗り歩いて感じた、当時のギリシャの鉄道の印象。

1. 列車の種別は、基本的にはインターシティ(IC)と、それ以外に大別できるようだ。「それ以外」には「急行」と「普通」の違いがあるようだが、時刻表上ではできない。列車番号3ケタ…「急行」、4ケタ…「普通」と思われる。

2. どの路線も、運行本数は少ない。アテネ~シャルキスの近郊列車は1時間に1本程度あるが、他は幹線でも多くはなく、支線区だと1日数本程度。

3. これまでしつこく書いてきたが、1~2時間単位の大幅な遅延が日常茶飯事の様子。特に北部が酷い。信号・通信設備が未整備の区間が多いようで、自動信号機が普及せず、ペロポネソスのナロー路線では、信号機そのものをあまり見かけなかった。どのような信号システムなのかは解らなかったが、列車行き違いの場面で遅れが増幅する傾向にあったので、これが主な原因であるように思えた。

4. 一方で、特にテッサロニキ付近を中心に大規模な改良工事が行われていて、所々新線に切り替わった区間も多々見られた。当時の最高速度は120㎞/h程度だった。

5. 山岳区間が少なくなく、大規模なスパイラル線が連続し、あまり知られていないがダイナミックな車窓を楽しめる区間も多い。ペロポネソスにはラックレールの路線もある。

6. 車両面について、本線のICは専用DC、「急行」はDLの客車列車、「普通」はDCが中心。ペロポネソスのナローは、一部に客車列車もあったが、大半はDCだった。電化はまだされていなかった。テッサロニキ~マケドニア方面には架線が敷かれているようだったが、まだ使用されていなかった。

7. 困った事に、客車は整備が不十分、というより壊れたら壊れっぱなしの車両が大半。特に暖房が不備の車両が多いのには参った。北部の冬はものすごく寒いのに…。

8. 駅の数はそこそこある。北海道の仮乗降場のような簡素な所も目立った。南部と北部では趣きが異なる(南部…絢爛、北部…質素)。ペロポネソスの路線は、鉄道用地とその外の境界がかなりあいまいだった。駅の業務の近代化も進んでいなくて、切符類は硬券が幅を利かせている。「鉄」には感涙かも知れないが。

9. 当時としても、国際列車は縮小の傾向にあったのか、あまり走っていなかった。マケドニア方面行以外はローカルばかり。貨物輸送は盛んなようだったが。

10. 私鉄は走っていない。都市交通もアテネに地下鉄とトロリーバスはあるが、他はバスのみ。過去にはアテネに路面電車があったかも知れないが。北部のコマノス付近には、電化された工場(発電所?)の専用線が見られた。

11. アテネ(ラリッサ・ペロポネソス)駅から主要都市までの運賃(2等車)。(日本人の感覚では)非常に安い。
 ピレウス 8㎞ 105GRD(約50円)
 パトラス 222㎞ 1,600GRD(約750円)
 ラリッサ 333㎞ 2,930GRD(約1,380円)
 テッサロニキ 503㎞ 4,100GRD(約1,930円)
 コザニ 650㎞ 4,970GRD(約2,340円)
 アレクサンドロポリス 946㎞ 7,090GRD(約3,340円)
 ※1GRD≒0.47円で計算

 最後に、ギリシャそのもののパーソナルデータを記しておきます。
(帰国日の1997(H9)年12月22日現在)

正式国名 ギリシャ共和国 Hellenic Republic ; Greece
面積 約131,957平方㎞ (日本の1/3強・北海道+東北よりはやや狭い)
人口 約1,035万人
政治体制 共和制 議員内閣制
国家元首 コンスタンティノス・スヘファノプロス大統領
※現在はカロロス・パプーリアス大統領
政治指導者 コスタス・シミティス首相(全ギリシャ社会主義運動)
※現在はアントニス・サマラス首相(新民主主義党)
首都 アテネ(首都圏人口約303万人)
国連 加盟(1945(S20)年)
EU(EC) 加盟(1981(S56)年)
NATO 加盟(1980(S55)年復帰)
通貨 ドラクマ(GRD) 1GRD≒0.47円
言語 ギリシャ語
主な観光地 アテネの古代遺跡、エーゲ海の島々、オリンピアなど
日本からのアクセス 直行の空路はない

 最後の国境越えの場面に如実に現れたと思うのだが、ギリシャの鉄道は全体的に不備な点が多くて、残念ながらユーレイルパス通用国(当時17ヶ国)の中では最低のレベル、というのが当時の率直な印象でした。
 しかし一方で、あまり日本では知られていない事もあって、思った以上の絶景に巡り合ったりして、楽しい、素晴らしいと思えた部分も多々ありました。
 ギリシャの鉄道はこの後2004(H16)年のオリンピックに向けて急速な整備が進み、アテネ近郊では電化や新空港アクセス鉄道の開通、地下鉄新路線にLRTの開業もあり、テッサロニキ近郊でも電化による近郊鉄道の整備が進められたと聞きました。
 しかし、この数年の深刻な経済危機は一転して鉄道にも深刻な影響を与えており、3年前より国際列車が全て取り止めになっている他、ペロポネソス半島など多数のローカル路線が運行停止に陥っています。
 最近少しは経済的な状況が好転しているのか、4年ぶりに長期国債の発行が行われたとのニュースもあったが、依然として予断は許さないと思います。
 何とか早く完全に立ち直って、旅行者が安心して鉄道の旅を楽しめる環境が復活してほしいと思っています。とりあえずは国際列車の運行の復活かなあ。そうなったら、もう一度国際列車の旅をやり直す機会を作ってみたいとも考えています。

 次回の「クロニクル」は、1998(H10)年5~6月のドイツです。

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《今日のニュースから》
世界最高速エレベーター 日立製作所が開発を発表

時速約72㎞/h、中国・広州に建設中の超高層ビルに納入するとの事。このビル、地上530mというから「ハルカス」より200m以上も高い…。

№1162 思い出の海外旅行クロニクル 9.1997ギリシャ6

 
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 ブルガリアもルーマニアも、列車で走りたかったのに…。列車乗継は断念し、ソフィアから空路で移動する事になります。しかし、全く予備知識がないブルガリア … 列車乗継による通過しか考えていなかったから … 、先はどうなるのか、少々不安な旅の最終盤。
 ソフィアからの空路については№186で少し書いたが、改めて、もう少し詳しく記したいと思います。

1997年12月20日(土)

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 明るくなって、改めてソフィア駅です。
 フライト事情は全く解らないが、とにもかくにも空港へ移動。タクシー利用。他に空港アクセスがあるかどうかなんて知らないし、とにかく早くソフィアを後にしたかったから。

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 市中心部は、ギリシャの各都市に比べると、整然とした印象を与える。しかし、ダンキンドーナツやKFCの看板も見えたりしました。

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 市中で見かけたトラムは、皆古い。

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 空港へ向かう通り。を行き交う車は、なんだか5台に1台はタクシーを名乗っているように見えた。

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 幸い空港15分程度で着きました。米ドルが通用し、20USD。

 ブダペストへのフライトは、ちょうど出発したばかりだった。この後もブダペストへのフライトは見当たらない。どうしよう…。
 待てよ、ウィーンへ行くフライトは結構あるみたい。ウィーンさえ行ければ、ウィーン~ブダペストはなんとでもなる事は、昨年の欧州一周で解っている事。よし、ウィーン経由で行こう、と、直近で航空券の購入が可能な、バルカン・ブルガリア航空(LZ)461便(ウィーン経由アムステルダム)の利用を決定。
 ブダペストよりウィーンへ行くフライトの方が多いとは、少々意外。

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 ターミナル内はご覧の通り、狭いし薄暗いし、航空券の発券カウンターも、「カウンター」というよりは「窓口」のような雰囲気で、日本などの西側先進国の空港のようなフレンドリーさは正直感じられません。
 ウィーンまでは218USD、C/C払いで、帰国後の請求では29,361円でした。やむを得ないとはいえこの支払は本当にきつかった。

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 でもチェックインカウンターのおばさんの応対は良かったです。「Have a nice flight.」の一言は素直にうれしい。

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 搭乗口付近の待合室も狭いです。ボーディングブリッジはなく、バスでの移動。国際線用の搭乗口は6つだけだったみたい。滑走路を見る事が出来るが、発着便数はあまり多くなさそう。

 出発時刻の10分前になって、ようやくバスで移動。この時点で、どの形式に乗る事になるか解らなかったが、どうせならソ連機に乗ってみたいなあ、とは思っていました。ほとんど機会がないし。
 一方でB767などの姿もありました。アメリカあたりに行く便でもあったのだろうか。

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 おお、バスはTu-154の脇に停車しました。 ラッキー?
 コクピット付近の窓の形状とか、垂直尾翼から鋭く突き出たアンテナ?がソ連機らしい。

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 胴体の真ん中から登場します。席に落ち着くと、ピッチは狭い。背もたれが前にバタンと倒れるのが珍しく見えた(軍事輸送を考慮しているとも聞いたが、真偽は?)。あと、ベルトサインはどこ?
 荷物の積み込みでさらに時間を食って、所定の10時30分より40分近く遅れて出発。あれ、非常時のセーフティインストラクション、やらなくて良いのか?

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 ターミナルを離れるとあたりは真っ白。視界が悪い。
 滑走路の端(R/W09だった)まで来ても、日本のような、まもなく離陸のアナウンスとかはない。

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 離陸すると、白い平原の背後に山々がそびえて、雄大な眺めだ。ジリジリ高度を上げていく。町も見えてくる。白い平原の中に、固まって形成されている。モノトーンの世界だ。

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 その先は、こんもりした山々を越えていく。
 残念ながら、この先は雲の中に入って、窓の外は真っ白になってしまった。幸い揺れはなし。

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 改めて、Tu-154のキャビン。古びているのはまあ想像通り。トイレは鍵をかけても明るくならない。
 コクピットはドア開けっぱなし。当時としても、大丈夫?とか思った。

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 透明なプラスチックのパックで配布された機内食はちょっと意表を突かれた。でもハム中心の軽食は、西側と差はないと思いました。ブルガリアと言えば「ヨーグルト」。アプリコットだったが、舌触りが日本と比べるとあっさりした印象。

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 1時間30分弱のフライトで、ウィーン到着。ターミナルからは遠く離れた場所に着いて、ここもターミナルまでバス移動。

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 ウィーン・シェベヒャート空港のターミナルは、ソフィアの空港とか、ギリシャの駅を見てきた身には、とてつもなく斬新に見えました。

 バルカン・ブルガリア航空はこの4年後に運航停止に追い込まれ、ブルガリア・エアが後を継ぐ形になります。

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 シェベヒャート空港は、当時は空港アクセス鉄道が整備されていなくて、市中までは空港バス。70ATS(≒770円)。シティターミナルからは地下鉄で西駅へ。

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 ウエスト駅からのEC63列車。フランクフルト始発。DBの客車はとにかくモダン、ギリシャとは根本的に違うと思わされました。

 オーストリア/ハンガリーの国境通過は昨年も経験していて、他の西側同士とは違って厳しいなあとか書いたはずだけれど、それでも前日のギリシャ/ブルガリアに比べたらはるかにスムーズでした。

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 もちろん食堂車も、きちんとした食堂車でした。ハンガリー行なのだからグヤーシュを食べたかったのだが、売り切れ、だって。オムレツ。

 ブダペスト・ケレティ駅には18時頃の到着。もう真っ暗。雨模様。
 当初のブルガリア・ルーマニア経由のプランより、3時間30分早く着きました。ただ、やっぱり列車乗継でたどり着きたかった…。

 時間に余裕ができたので、ブダペストの地下鉄に乗ってみました。

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 2号線・3号線どっちだったっけ?はっきりソ連製。加速が凄かったです。

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 これは1号線。屋根に手が届きそうなくらいで、日本のリニア地下鉄以上に狭い。車両も工事の作業用車両というイメージ(黄色という事もあるし)。これでも架線集電式だったりする。

 日本出発前に予約しておいたホテルに投宿。TVをつけたら、ギリシャとインドネシアで航空機事故が起きたらしい…。

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1997年12月21日(日)

 何やかやあったが、とにもかくにも、いよいよ帰国。飛行機でまたウィーンまで戻って、今度はそのままオーストリア航空便で成田に向かいます。

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 フェリヘジ空港へ行くバスはデアーク・フィレンツェ広場から出発。広場までは地下鉄で移動する必要があります。座席が17しかないミニバス。運賃600HUF(フォリント。≒340円)。

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 フェリヘジ空港ターミナル。ソフィア程ではなかったとは思うが、やはり古めかしくて、あまりフレンドリーな感じではない。

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 それでも、出発ロビーに飾られたクリスマスツリーが目を楽しませてくれるのでした。

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 チェックインカウンター。

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 搭乗口。狭い。ソフィアよりは広かったけれど。

 ウィーン行OS804便は、系列のチロリアン航空(オーストリアン・アローズ)VO804便のコードシェア運航。DHC-8-Q300。

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 バスで移動して搭乗。DHC-8は全シリーズを通じて初搭乗。

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 定刻に出発。

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 すぐに離陸。雲海に突っ込んで、何も見えなくなる。下層の雲海を抜けると上も雲が広がるが、やがて青空になりました。

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 所要時間わずか1時間弱ではあったが、ちゃんと機内サービスもありました。
 キャビンの最前方が向かい合わせになっているのが、物珍しく感じられました。

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 機内食も出たけれど、左側のケーキ2つの方がメインに感じられた。

 40分強のフライトでウィーン・シェベヒャート空港に着陸。ものすごく視界が悪い。

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 ここもターミナルから離れた位置に着き、バスで移動。
 今回は成田行への乗り継ぎ時間が30分しかなく、あわただしくターミナル内を移動。

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 成田行OS555便が出発する、A2搭乗口。さすがに新しくてモダン、ソフィアやブダペストとは比べ物にならない。ただ、搭乗待合室に入る前のチェックが意外に厳しく、ピピピピ赤外線探知機の警報音がやかましい。

 息つくヒマなく搭乗。今回はOS便名で搭乗しているが、ANAコードシェアも行っていて、ポケットにはOSと共にANAの機内誌も入っていたし、当時はANAのCAが3人乗務していました。壁にはクリスマスの飾り付け。

 ここは定刻より10分遅れて出発。相変わらず視界が相当悪く、先に離陸していく機体が滑走路を離れるのが見えないほどだった。

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 離陸してほんの数秒で、地上が見えなくなってしまいました。しばらくは雲の中の飛行で窓の外は真っ白だが、2分程で抜けると、いきなり強烈な陽射しが差し込んできました。

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 しばらく飛ぶと雲海は消えて、雪原が広がる。チェコかポーランド?

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 A340も初めてだったのだけれど、当時はまだ真新しかったし、インテリアがオシャレな感じ。
 ストウェージから展開されるTVでNHKニュース(日曜昼の録画)を見ていたら驚いた、伊丹十三監督が飛び降り自殺!?

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 上昇中からサービスが始まり、ANAのCAが重そうにカートを押し上げながら、ドリンクとオツマミのサービスに回っていました。

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 離陸後、最初の食事。

 冬場となると夜の訪れは急で、離陸から1時間程度でいきなり暗くなります。大都市の街明かりは島宇宙、西へ行くジェット便は流れ星のよう。

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1997年12月22日(月)

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 映画を見て、しばらく眠って、目覚めるともう朝。朝食のサービスが回っている。間もなくシベリア脱出、という頃。

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 朝食。

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 ひたすら白と黒のモノトーンだったシベリアから、いよいよ日本海へ。絶壁という感じ。

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 ついに日本。こちらも真っ白な上越の山々。

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 成田へのアプローチ。九十九里を見て右旋回。

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 成田空港着陸。
 最後に、このOS555便では機体そのものを撮る機会を作れていなかったので、参考までにこの旅の直前の11月22日に撮影した、今回搭乗したフリート、A340-300(OE-LAK)の画像を掲げておきます。

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 何とか日本に帰って来れました。
 後1回、ギリシャOSEの鉄道車両と、アテネの駅(ラリッサ・ペロポネソス)をご覧頂いた後、当時のギリシャの鉄道の印象を記して、終わりとします。

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《今日のニュースから》
「護衛艦カレーナンバーワングランプリ」 横須賀市で開催