東日本大震災・福島第一原発事故から3年、一方でマレーシア航空機「失踪」事件やクリミア半島情勢に世界中が翻弄された3月。今月は何があったのでしょうか。
1日 川崎市コンビナートの石油工場で火災 6人負傷
2日 国内報告のエイズ患者・感染者 過去2番目の1546人
6日 車両運搬車 医療施設送迎バスと衝突 東京都立川市
7日 エストニア・イルベス大統領夫妻 天皇・皇后両陛下と会見
8日 安倍首相 いわき市を訪問 災害公営住宅を視察
9日 プロサッカー新リーグ 「J3」開幕
10日 ドライブレコーダーの映像提供 神奈川県警とトラック・タクシー協会が協定締結
13日 浦和レッズ「差別的横断幕」問題 無観客試合の制裁処分
14日 鉄道安全部門トップ「安全統括管理者」 国土交通省で会議
15日 石巻市「デジタル公開センター」閉所式 写真などの品々を供養
16日 大雪でも生存 富士五湖・西湖のヒメマス 湖に放流
17日 政府と沖縄県の作業部会初会合 普天間基地の危険性除去の推進を確認
18日 浦賀水道で貨物船同士衝突 パナマ船籍船沈没
19日 タイ 非常事態宣言 解除
20日 プロゴルファー松山英樹選手 東北福祉大卒業式に出席
21日 大瀧詠一さん「お別れ会」 都内で開催
22日 根室市で観測史上最多の積雪 除雪作業開始
23日 「震災復興道路」 高田道路・陸前高田~大船渡間全通
24日 在日本朝鮮人総連合会の不動産 東京地裁が高松市の企業に売却を許可
27日 JR西日本・セブン=イレブン 業務提携を正式発表
28日 猪瀬前東京都知事 略式起訴 罰金50万円の命令
29日 奥松島遊覧船 本格的に運航を再開
30日 北海道北斗市公式キャラ 「ずーしーほっきー」お披露目
今月はこの他、柏や中国・昆明の「通り魔」事件、若田光一航宙士のISS船長就任、俳優宇津井健さん死去、ベビーシッター遺体遺棄事件、「笑っていいとも!」放送終了、などがありました。
研究論文に関する「不祥事」が、相次いで発覚した月でした。
宮城交通の夜行高速バスの事故は、再びバス業界に難題を突き付けた事になるのではないか、と感じています。
《今月この一枚》
今月頭、鹿児島・出雲と「二股」で旅行した事は当ブログでも書きました。
この画像はその初日の3月3日に撮影した、桜島フェリーの桜島港です。
書き洩らしてしまったのだけれど、桜島は今年、1914(T3)年1月12日の「大正噴火」から100年。
鹿児島市では100周年事業を開催中、桜島港ターミナルでは各種パネルが展示されています。
この穏やかな風景 … 煙が吹き上がっているのが見えたりするけれど … が、いつまでも続いて欲しいとは願いますが、桜島は世界でも有数の活火山の一つですから、いつかは再び大噴火が起こってもおかしくありません。
「備えあれば憂いなし」です。
当ブログでは、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。
ところで、当ブログはこの2年間、原則毎週2日間連休を頂いて、週5日更新としてきました。
しかし、仕事の量自体は変わらないものの、私生活ではいろいろやりたい事、やらなければならない事って結構あるものです。
特に、来月にはそろそろ本体のWebサイトの「改修工事」も、本格的に始めなければなりません。制作体制も整いつつある事でもあるし。
という事で、さらにもう少し余裕を持ってブログ運営をやりたいと思うので、来月より
原則 隔日更新
とさせて頂きたいと思います。
明日4月1日は更新しますが、その先を2日おきとします。これで月15~16回程度は更新できると思います。
また、本体の更新のためお休みとしていた15日と末日は、更新日のパターンにあたる場合は更新します。本体は当分、通常の更新はできないし。「改修工事」が終わった所から不定期に、順次公開再開、という形にします。
しばらくはブログも本体もゴタゴタするでしょうが、新年度も、日本の、世界の「乗り物」について見て、聞いて、乗って、あるいは読んで、そして感じた事を、拙くても私なりの言葉で書いていきたいと思っております。
来年度も、よろしくお願いいたします。
《今日のニュースから》
日本の調査捕鯨 現状では認めず 国際司法裁判所が判決
№1151 27年前の「近鉄時刻表」
近鉄では、例年は毎年3月のダイヤ改正に合わせ、全線時刻表を発売しています。
1993(H5)年までは春と秋の年2回刊だったが、翌1994(H6)年より、春の改正時の1回刊となりました。
私の手持ちの「近鉄時刻表」で最も古いのは、1987(S62)年春・夏号です。
27年前の時刻表から、当時の近鉄の姿を簡単ながら探ってみようと思います。
表紙は薬師寺の西塔をバックに走る3200系。
翌年の京都市営地下鉄烏丸線との相互直通運転を控えて新造された通勤車で、試作車的な1250系(現1420系)をベースにした、初の本格的VVVF制御の系列となりました。
折り込みで「近鉄沿線ごあんない」と称し、鉄道の路線図と他の主要な交通、観光・行楽スポットのイラストがあります。
三岐鉄道に引き継がれた北勢線、現伊賀鉄道の伊賀線、現養老鉄道の養老線も含めて、当時の路線は全て残されています。けいはんな線・奈良~学研奈良登美ヶ丘間はまだ未開業、前年の10月に開業したばかりの長田~生駒間は東大阪線と称していました。
大阪線の大阪教育大前、京都線の宮津、名古屋線の南ヶ丘は未開業。
その裏には索引地図と合わせて停車駅(快速急行以下)が記されているが、今と比べて停車駅が少な目と思います。
大阪線の快速急行は、五位堂・室生口大野・赤目口が通過。
(一方で上津・西青山・東青山には停車していた)
区間快速急行(今はなし)と急行は五位堂を通過。
奈良線の快速急行は新大宮、京都線の急行は竹田・新祝園、準急は竹田・向島、名古屋線の急行は蟹江が通過。
◆ カラーページ
ニュースに続いて、特急の運転系統と停車駅の案内図があります。
やはり停車駅は現行より少ないし、今は走っていない系統もあります。特に南大阪・吉野線の停車駅がかなり少なく、高田市・橿原神宮前・下市口・大和上市・吉野神宮のみの停車でした。
「アーバンライナー」デビュー前だったから、当時の近鉄特急のフラッグシップは、30000系「ビスタカー」でした。
近鉄ではこの年、特急券の新予約システム「ASKAシステム」(ASKA=All-round Servise for Kintetsu and its Agencies)を導入しました。
販売開始が3週間前→1ヶ月前になり、座席の細かな指定や、複数人用の発売もできるようになり、「Kips」会員は電話予約も受け付け、というものです。
ネット時代の今から見たらこれでも古く見えるだろうが、当時としては画期的だったのでしょう。
「The Densha」という連載企画があり、この号は第2回。大阪鉄道のデイ1形。
「ヘッドマーク ア・ラ・カルト」という企画もあり、当時から鉄道ファンの購読も重視していた事が伺えます。
あとはさすがに観光資源が多い近鉄、観光地のカラー写真がふんだんに掲載されています。
今は無き「あやめ池遊園地」「奈良ドリームランド」などの遊園地の写真もありました。
◆ 時刻表本文
当時の近鉄時刻表は、全ての駅の時刻表は掲載されていませんでした。
主要な駅のみ掲載、他の駅は、後半のブルーのページに記されている「路線概要 駅間所要時分」を見て、数字を加算して大まかな発車時刻を出す事になります。
(全駅掲載は1993(H5)年から)
時刻は平日は前半の白(土曜日は、当時は平日)、休日は後半の黄色のページに記されています。
大阪~名古屋間の特急時刻表が冒頭にあり、その後に各線の時刻表が並ぶスタイルは今も変わりません。
普通電車が集中する大阪線・上本町~河内国分間、名古屋線・名古屋~富吉間、南大阪線・あべの橋~藤井寺間が別に記されているのも同じです。
(ただし、当時は末尾に一括して掲載されていた)
当時の各ターミナル駅の時刻表を作ってみましたので、それを元に、当時の近鉄各路線のダイヤを見てみようと思います。
大阪線
上本町駅です。地下ホーム1番線から出発する難波始発の特急は別に記しました。
特急は、阪伊甲特急も1時間間隔で運行。この当時は難波発着でした。
一般列車は朝夕に快速急行・区間快速、日中に急行を運行。急行はまだ本数が少なく、1時間に2本でした。いずれも五位堂はまだ通過。
普通電車は、高安まで約10分間隔、河内国分まで1時間4本運行されていました。
郊外では、青山町~東青山間は日中は急行のみ運行、1時間に1本。
信貴線や伊賀線(現伊賀鉄道)はほぼ現在と同じ形態。
奈良線
難波駅です。奈良線に加え、大阪線の特急も加えています。
平日も奈良行特急が1時間間隔で運行、さらには難波~京都間という特急も3往復ありました。
一般列車については、区間準急の設定以外は現在とほぼ変わらないと思います。もちろん阪神直通は遠い未来の話だが。快速急行は、新大宮は通過。
普通電車の約10分間隔運転は、当時は瓢箪山まで。その先は20分間隔になっていました。
生駒線は終日15分間隔だが、なぜか休日の朝方だけ、生駒~南生駒間の区間運転が設定されていました。どのような需要があったのでしょうか。
京都線
京都駅です。かっちりした15分サイクルのダイヤが組まれていました。
特急は全て、京都~大和西大寺間ノンストップ。
京都市営地下鉄烏丸線との相互直通運転の開始は翌年。準急は、朝夕のみ設定は変わらないものの、現在より本数がかなり多くなっています。この準急の大半が地下鉄直通に振り替えられる訳です。
急行は竹田・新祝園、準急は竹田・向島がまだ通過。
橿原線のファミリー公園前は、日中のみの停車でした。
田原本線は、日中は30分間隔。平日は朝夕のみ、新王寺~大輪田間1駅間のみの区間運転がありました。
南大阪線
阿部野橋駅。ここは一見して、現在とはパターンがまるっきり違います。
一応12分サイクルで準急・普通を運行する形態になっているが、特急が30~60分間隔と不規則だし、長野線・御所線は15分間隔なのでサイクルが合わず、若干統一性を欠いた感があります。
急行は1時間間隔と少なく、準急も吉野行が1時間間隔で設定されています。準急は終日御所直通も設定されています。
現在に通じる30分サイクル(準急・普通10分間隔)ダイヤの確立は、1990(H2)年3月改正時です。
名古屋線
名古屋駅です。
こちらも名伊甲特急が、ほぼ1時間間隔で運行されていました。
一般列車の本数が今と比べるとかなり多く、準急・普通が共に15分間隔で運行。
急行は鈴鹿線直通が日中も1時間間隔で運行されています。鈴鹿線は普通電車でも四日市直通が多く設定されていました。
湯の山線は、当時は特急が3往復あり、難波直通1.5往復(難波~白子間は名阪乙と併結)、名古屋行1本、線内折り返しが1往復設定されていました。普通電車は約20分間隔。
現養老鉄道の養老線は、桑名~大垣間通しで約40分間隔。
現在は三岐鉄道が運営する北勢線は、日中は阿下喜行・七和(一部北大社)折返し・西別所折り返しを40分サイクルで運行していました。
逆に、来年より「四日市あすなろう鉄道」が運営する内部・八王子線は、現在とほとんど変わっていません。線路設備からしても、変えようがないとも言えます。
近鉄ダイヤでは伊勢志摩方面への観光輸送が外せないので、ここでは賢島駅の時刻表を掲げてみました。
当時の鳥羽線は改良に手がつく直前で、大半の区間はローカル線然とした、急カーブが多い単線でした。
なので本数も少なく、特急も最大で20分間隔。当時の主役は、本数的には京伊特急だった事が解ります。
普通電車は40~60分間隔。一部宮町折返しがありました。宮町折返しは、この後もダイヤ改正によって時々設定される事があります。
当時の賢島駅は、特急は高台にあるホームからだったが、普通電車は三重電気鉄道時代からの地平のホームで発着していました。
時刻表欄外には広告のほかに、毎号コラムが掲載されて鉄道ファンを楽しませてくれるのだが、この号では「近鉄沿線 ハイキングコース」が掲載されていました。
◆ 近鉄 便利ガイド
巻末のブルーのページ。
路線概要駅間所要時分に続いて、各種運賃・料金表などの営業案内が記されています。
運賃は、初乗り(3kmまで)90円(2014年4月1日からは150円)、難波~奈良間410円(同560円)、難波~名古屋間1,730円(同2,360円)。
特急料金は難波~鳥羽間1,000円(同1,610円)、難波~名古屋間1,200円(同1,900円)。
乗車券は、当時は運賃額が800円を超えると2日間有効、途中下車も800円以下は指定駅で、それ以上は一部例外を除き可能でした。
また、前年に第一世代の磁気カード「パールカード」の発売が始まったが、当時は利用できる駅が少なく、奈良線・生駒線・天理線・東大阪線と、京都線(新田辺~大和西大寺)・橿原線(大和西大寺~平端)のみ。
「主要駅連絡図」を見ると、大和西大寺駅は5番線が行き止まり、6番線がまだありませんでした。
特急の車内販売も当時は活発で、朝晩の一部を除いて各系統で営業していました。缶ビール240円、牛肉弁当1,000円の値段が並んでいます。
近鉄グループ各社のうち、交通輸送事業者の中には、廃業してしまった井笠鉄道や、東京近鉄観光バスの名前もあります。
近鉄バス(当時は鉄道直営)は扱いが軽く(まだ夜行高速バスへの参入はなかった)、案内図も簡単なものだけ記されていました。ただこれだけ見ても、路線網は密だし、今は走っていない奈良や天理への路線もあります。どの程度の便数があったかは記されていませんが。
近鉄バスは観光にあまり利用されないからでしょう。系列の奈良交通・三重交通の方が扱いが大きいのは、今も変わりません。有名な八木~新宮間の特急バス(2往復)は愛称があり、八木発<はやたま>・新宮発<やまとじ>、当時は運行があった八木~川湯温泉系統(2往復)は、八木発<いでゆ>・川湯温泉発<まほろば>。
また当時は北山峡・熊野市経由の路線も2往復あり、八木発<みくまの>・新宮発<あおがき>の愛称でした。
両社とも、定期観光バスのコースが今よりかなり多く設定されていました。三重交通には、ボンネットバスを利用した「ぶらり松坂」のコースもありました。
(8月を除く4月~11月、コースによって週1~2日運行)
広告では、ゴルフ場が後半に集中して掲載されていました。
他社の時刻表は、三岐鉄道以外は東海道新幹線<ひかり>の一部列車・駅のみ掲載されていました。
以上、本当に簡単ながら、27年前の時刻表より、近鉄の姿を振り返ってみました。
鉄道に限るが、近鉄はこの後、スペイン村オープンなどで一時は特急を中心にダイヤの拡充が図られるが、特に21世紀に入ってからは一転して縮小に向かう事になります。
大まかな流れとしては、「アーバンライナー」「伊勢志摩ライナー」デビューや「スペイン村」オープンによる特急ネットワークの充実→一転して利用減少により伊勢方面特急の削減・一般列車も種別統合や停車駅増により削減、となってしまうのかなあと思います。
混雑が緩和されてゆったり乗れるようになるのは結構ながら、行き過ぎて朝ラッシュ時でさえ削減が相次ぐようだと、逆に心配にもなったりします。若干矛盾するけれど、ゆとりを保ったまま、輸送量の増加が図られるような施策が求められます。ただ、沿線の人口そのものの伸びが非常に小さいので、内部から需要を生み出すのは、難しいのかもしれないが。
あと、何度か書いているが、特に通勤車の新陳代謝が非常にスローモーで(阪神直通対策で奈良線を優先させているからそう見えるかも知れないが)、特に南大阪線は「ハルカス」オープンもあったのに、10年以上新車両の導入がありません。ぜひ、関西大手私鉄の雄・近鉄らしい新型車両の導入を期待したいと思います。
ところで、例年3月に行うダイヤ改正(近鉄は「ダイヤ変更」と称している)は、今春は行わないと、近鉄自身も18日に発表しています。
次回改正は未定、としているが、「しまかぜ」増備で京伊系統にも導入される秋口には行われるのではないか、と思われます。
当ブログでは、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。
《今日のニュースから》
北海道北斗市公式キャラ 「ずーしーほっきー」お披露目
1993(H5)年までは春と秋の年2回刊だったが、翌1994(H6)年より、春の改正時の1回刊となりました。
私の手持ちの「近鉄時刻表」で最も古いのは、1987(S62)年春・夏号です。
27年前の時刻表から、当時の近鉄の姿を簡単ながら探ってみようと思います。
表紙は薬師寺の西塔をバックに走る3200系。
翌年の京都市営地下鉄烏丸線との相互直通運転を控えて新造された通勤車で、試作車的な1250系(現1420系)をベースにした、初の本格的VVVF制御の系列となりました。
折り込みで「近鉄沿線ごあんない」と称し、鉄道の路線図と他の主要な交通、観光・行楽スポットのイラストがあります。
三岐鉄道に引き継がれた北勢線、現伊賀鉄道の伊賀線、現養老鉄道の養老線も含めて、当時の路線は全て残されています。けいはんな線・奈良~学研奈良登美ヶ丘間はまだ未開業、前年の10月に開業したばかりの長田~生駒間は東大阪線と称していました。
大阪線の大阪教育大前、京都線の宮津、名古屋線の南ヶ丘は未開業。
その裏には索引地図と合わせて停車駅(快速急行以下)が記されているが、今と比べて停車駅が少な目と思います。
大阪線の快速急行は、五位堂・室生口大野・赤目口が通過。
(一方で上津・西青山・東青山には停車していた)
区間快速急行(今はなし)と急行は五位堂を通過。
奈良線の快速急行は新大宮、京都線の急行は竹田・新祝園、準急は竹田・向島、名古屋線の急行は蟹江が通過。
◆ カラーページ
ニュースに続いて、特急の運転系統と停車駅の案内図があります。
やはり停車駅は現行より少ないし、今は走っていない系統もあります。特に南大阪・吉野線の停車駅がかなり少なく、高田市・橿原神宮前・下市口・大和上市・吉野神宮のみの停車でした。
「アーバンライナー」デビュー前だったから、当時の近鉄特急のフラッグシップは、30000系「ビスタカー」でした。
近鉄ではこの年、特急券の新予約システム「ASKAシステム」(ASKA=All-round Servise for Kintetsu and its Agencies)を導入しました。
販売開始が3週間前→1ヶ月前になり、座席の細かな指定や、複数人用の発売もできるようになり、「Kips」会員は電話予約も受け付け、というものです。
ネット時代の今から見たらこれでも古く見えるだろうが、当時としては画期的だったのでしょう。
「The Densha」という連載企画があり、この号は第2回。大阪鉄道のデイ1形。
「ヘッドマーク ア・ラ・カルト」という企画もあり、当時から鉄道ファンの購読も重視していた事が伺えます。
あとはさすがに観光資源が多い近鉄、観光地のカラー写真がふんだんに掲載されています。
今は無き「あやめ池遊園地」「奈良ドリームランド」などの遊園地の写真もありました。
◆ 時刻表本文
当時の近鉄時刻表は、全ての駅の時刻表は掲載されていませんでした。
主要な駅のみ掲載、他の駅は、後半のブルーのページに記されている「路線概要 駅間所要時分」を見て、数字を加算して大まかな発車時刻を出す事になります。
(全駅掲載は1993(H5)年から)
時刻は平日は前半の白(土曜日は、当時は平日)、休日は後半の黄色のページに記されています。
大阪~名古屋間の特急時刻表が冒頭にあり、その後に各線の時刻表が並ぶスタイルは今も変わりません。
普通電車が集中する大阪線・上本町~河内国分間、名古屋線・名古屋~富吉間、南大阪線・あべの橋~藤井寺間が別に記されているのも同じです。
(ただし、当時は末尾に一括して掲載されていた)
当時の各ターミナル駅の時刻表を作ってみましたので、それを元に、当時の近鉄各路線のダイヤを見てみようと思います。
大阪線
上本町駅です。地下ホーム1番線から出発する難波始発の特急は別に記しました。
特急は、阪伊甲特急も1時間間隔で運行。この当時は難波発着でした。
一般列車は朝夕に快速急行・区間快速、日中に急行を運行。急行はまだ本数が少なく、1時間に2本でした。いずれも五位堂はまだ通過。
普通電車は、高安まで約10分間隔、河内国分まで1時間4本運行されていました。
郊外では、青山町~東青山間は日中は急行のみ運行、1時間に1本。
信貴線や伊賀線(現伊賀鉄道)はほぼ現在と同じ形態。
奈良線
難波駅です。奈良線に加え、大阪線の特急も加えています。
平日も奈良行特急が1時間間隔で運行、さらには難波~京都間という特急も3往復ありました。
一般列車については、区間準急の設定以外は現在とほぼ変わらないと思います。もちろん阪神直通は遠い未来の話だが。快速急行は、新大宮は通過。
普通電車の約10分間隔運転は、当時は瓢箪山まで。その先は20分間隔になっていました。
生駒線は終日15分間隔だが、なぜか休日の朝方だけ、生駒~南生駒間の区間運転が設定されていました。どのような需要があったのでしょうか。
京都線
京都駅です。かっちりした15分サイクルのダイヤが組まれていました。
特急は全て、京都~大和西大寺間ノンストップ。
京都市営地下鉄烏丸線との相互直通運転の開始は翌年。準急は、朝夕のみ設定は変わらないものの、現在より本数がかなり多くなっています。この準急の大半が地下鉄直通に振り替えられる訳です。
急行は竹田・新祝園、準急は竹田・向島がまだ通過。
橿原線のファミリー公園前は、日中のみの停車でした。
田原本線は、日中は30分間隔。平日は朝夕のみ、新王寺~大輪田間1駅間のみの区間運転がありました。
南大阪線
阿部野橋駅。ここは一見して、現在とはパターンがまるっきり違います。
一応12分サイクルで準急・普通を運行する形態になっているが、特急が30~60分間隔と不規則だし、長野線・御所線は15分間隔なのでサイクルが合わず、若干統一性を欠いた感があります。
急行は1時間間隔と少なく、準急も吉野行が1時間間隔で設定されています。準急は終日御所直通も設定されています。
現在に通じる30分サイクル(準急・普通10分間隔)ダイヤの確立は、1990(H2)年3月改正時です。
名古屋線
名古屋駅です。
こちらも名伊甲特急が、ほぼ1時間間隔で運行されていました。
一般列車の本数が今と比べるとかなり多く、準急・普通が共に15分間隔で運行。
急行は鈴鹿線直通が日中も1時間間隔で運行されています。鈴鹿線は普通電車でも四日市直通が多く設定されていました。
湯の山線は、当時は特急が3往復あり、難波直通1.5往復(難波~白子間は名阪乙と併結)、名古屋行1本、線内折り返しが1往復設定されていました。普通電車は約20分間隔。
現養老鉄道の養老線は、桑名~大垣間通しで約40分間隔。
現在は三岐鉄道が運営する北勢線は、日中は阿下喜行・七和(一部北大社)折返し・西別所折り返しを40分サイクルで運行していました。
逆に、来年より「四日市あすなろう鉄道」が運営する内部・八王子線は、現在とほとんど変わっていません。線路設備からしても、変えようがないとも言えます。
近鉄ダイヤでは伊勢志摩方面への観光輸送が外せないので、ここでは賢島駅の時刻表を掲げてみました。
当時の鳥羽線は改良に手がつく直前で、大半の区間はローカル線然とした、急カーブが多い単線でした。
なので本数も少なく、特急も最大で20分間隔。当時の主役は、本数的には京伊特急だった事が解ります。
普通電車は40~60分間隔。一部宮町折返しがありました。宮町折返しは、この後もダイヤ改正によって時々設定される事があります。
当時の賢島駅は、特急は高台にあるホームからだったが、普通電車は三重電気鉄道時代からの地平のホームで発着していました。
時刻表欄外には広告のほかに、毎号コラムが掲載されて鉄道ファンを楽しませてくれるのだが、この号では「近鉄沿線 ハイキングコース」が掲載されていました。
◆ 近鉄 便利ガイド
巻末のブルーのページ。
路線概要駅間所要時分に続いて、各種運賃・料金表などの営業案内が記されています。
運賃は、初乗り(3kmまで)90円(2014年4月1日からは150円)、難波~奈良間410円(同560円)、難波~名古屋間1,730円(同2,360円)。
特急料金は難波~鳥羽間1,000円(同1,610円)、難波~名古屋間1,200円(同1,900円)。
乗車券は、当時は運賃額が800円を超えると2日間有効、途中下車も800円以下は指定駅で、それ以上は一部例外を除き可能でした。
また、前年に第一世代の磁気カード「パールカード」の発売が始まったが、当時は利用できる駅が少なく、奈良線・生駒線・天理線・東大阪線と、京都線(新田辺~大和西大寺)・橿原線(大和西大寺~平端)のみ。
「主要駅連絡図」を見ると、大和西大寺駅は5番線が行き止まり、6番線がまだありませんでした。
特急の車内販売も当時は活発で、朝晩の一部を除いて各系統で営業していました。缶ビール240円、牛肉弁当1,000円の値段が並んでいます。
近鉄グループ各社のうち、交通輸送事業者の中には、廃業してしまった井笠鉄道や、東京近鉄観光バスの名前もあります。
近鉄バス(当時は鉄道直営)は扱いが軽く(まだ夜行高速バスへの参入はなかった)、案内図も簡単なものだけ記されていました。ただこれだけ見ても、路線網は密だし、今は走っていない奈良や天理への路線もあります。どの程度の便数があったかは記されていませんが。
近鉄バスは観光にあまり利用されないからでしょう。系列の奈良交通・三重交通の方が扱いが大きいのは、今も変わりません。有名な八木~新宮間の特急バス(2往復)は愛称があり、八木発<はやたま>・新宮発<やまとじ>、当時は運行があった八木~川湯温泉系統(2往復)は、八木発<いでゆ>・川湯温泉発<まほろば>。
また当時は北山峡・熊野市経由の路線も2往復あり、八木発<みくまの>・新宮発<あおがき>の愛称でした。
両社とも、定期観光バスのコースが今よりかなり多く設定されていました。三重交通には、ボンネットバスを利用した「ぶらり松坂」のコースもありました。
(8月を除く4月~11月、コースによって週1~2日運行)
広告では、ゴルフ場が後半に集中して掲載されていました。
他社の時刻表は、三岐鉄道以外は東海道新幹線<ひかり>の一部列車・駅のみ掲載されていました。
以上、本当に簡単ながら、27年前の時刻表より、近鉄の姿を振り返ってみました。
鉄道に限るが、近鉄はこの後、スペイン村オープンなどで一時は特急を中心にダイヤの拡充が図られるが、特に21世紀に入ってからは一転して縮小に向かう事になります。
大まかな流れとしては、「アーバンライナー」「伊勢志摩ライナー」デビューや「スペイン村」オープンによる特急ネットワークの充実→一転して利用減少により伊勢方面特急の削減・一般列車も種別統合や停車駅増により削減、となってしまうのかなあと思います。
混雑が緩和されてゆったり乗れるようになるのは結構ながら、行き過ぎて朝ラッシュ時でさえ削減が相次ぐようだと、逆に心配にもなったりします。若干矛盾するけれど、ゆとりを保ったまま、輸送量の増加が図られるような施策が求められます。ただ、沿線の人口そのものの伸びが非常に小さいので、内部から需要を生み出すのは、難しいのかもしれないが。
あと、何度か書いているが、特に通勤車の新陳代謝が非常にスローモーで(阪神直通対策で奈良線を優先させているからそう見えるかも知れないが)、特に南大阪線は「ハルカス」オープンもあったのに、10年以上新車両の導入がありません。ぜひ、関西大手私鉄の雄・近鉄らしい新型車両の導入を期待したいと思います。
ところで、例年3月に行うダイヤ改正(近鉄は「ダイヤ変更」と称している)は、今春は行わないと、近鉄自身も18日に発表しています。
次回改正は未定、としているが、「しまかぜ」増備で京伊系統にも導入される秋口には行われるのではないか、と思われます。
当ブログでは、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。
《今日のニュースから》
北海道北斗市公式キャラ 「ずーしーほっきー」お披露目
№1150 Forever ANA's B747-400 6<終>
ラストを前にして2回も空いてしまいました。スミマセン。
今回ANAが発注したB777-9Xはフルペイロードが15,000㎞以上、B747-400は13,000㎞強(ANAが保有していたGEエンジン機)なので、2,000㎞も遠く飛べる事になります。
双発機でジャンボ機以上のパフォーマンスを誇るのであれば、遅かれ早かれ、B747-400の居場所はなくなってしまっていたのでしょう。
2011(H23)年3月、ANAの国際線用B747-400は全て退役、国内線機材のみが最後の活躍を続ける事になります。
といっても時を追う毎に機材は少なくなるし、既に伊丹空港への乗り入れはなくなっていて、羽田を中心に新千歳・福岡・那覇路線が、残された期間の活躍の場の、ほぼ全てになっていたと思います。
当初は2015(H27)年位が退役の時期ともされていたが、期待の新機種、B787-8の導入が、スッタモンダはありながらも少しずつ進みつつあった事もあり、当初の予定が早まって、いよいよ今月一杯で姿を消す事となりました。
最後の3年間を、羽田でのフォトを中心にまとめてみました。昨年の沖縄線「お別れフライト」も一部、再度掲載しています。
第2ターミナルの展望デッキから、B747-400Dを見下ろす。メリハリのある巨体は、どこからどう眺めてもカッコイイ。
残念ながらANAでも時を追う毎にジャンボ機は持て余し気味になり、日中の羽田ではピーク期でも、ターミナルから遠く離れた駐機場に、長らく留め置かれる姿が珍しくなくなってきた。
2010(H22)年に供用を開始したD滑走路。東京湾に浮かぶ、まるで空母。ターミナルからは相当遠く、離陸も着陸も、タキシングは相当な時間を要する。
ちょうど「お花ジャンボ」が帰ってきた。不思議とあたりには他に機体の姿がなく、孤独な怪鳥に思えた。羽田らしくない?ちょっと独特のワンシーン。
東京の新名所「東京スカイツリー」をおぼろげな背景として、離陸滑走開始。
当初のスーパーシートは、富裕層向けを狙ってさらに豪華さを増し、「プレミアムクラス」と称するようになった。
機内食やアメニティキットのサービスは国際線ビジネスクラスと同等以上。
なので貧乏人の私が乗る資格などあるのかとも思ったが、少なくともジャンボのプレミアムクラスなど体験する機会はこの先まずなかろうと、空港での空席を狙って搭乗してみた。
サービス開始時点では、特にシートピッチについてミソがついたプレミアムクラスだったが、ジャンボの場合は114cm。
他機種よりも若干狭いのだが、これだって充分広い、さすがゆとりのクラスだと感じられたものだ。
ただし、当然他の客は高級ビジネスパーソンばかりで、こればかりは少々肩身が狭く感じられたものだ。
2012(H24)年9月の新千歳。
羽田だけでなく新千歳でも、ジャンボ機の長い昼休みが見られるようになった。
11時前に羽田から着くと、夕方までずっとお休み。
この日は、昼のジャンボ機の便で羽田に帰るつもりだったのに、直前になってB777-200に変更になってしまった。
去年8月の羽田空港から3点。
かつての「マリンジャンボ」と同じ趣旨で、全国の子供たちからの公募で選ばれたデザインをまとう「ゆめジェット」が、2月に就航を開始した。
以前のジャンボ機の役目をB767-300が担い、全国の子供たちに「ゆめ」を見せるのだ。
東日本大震災で傷ついた人々を慰め、勇気を与えようとメッセージが書き込まれた機体もあった。
中央は、いまだ苦難の道を行く福島県を舞台に、幕末~明治を劇的に生きた女性を描いた大河ドラマのマーキング機。
ジャンボ機は阪神・淡路大震災も経験しているが、最後まで復興メッセージが描かれる事はなかった。それでも復興支援の役目を担った事は変わらない。
展望デッキからはものすごく遠く、解像度が低いのは申し訳ない。
東京湾上に浮かぶように伸びるD滑走路、R/W05は、バックの「風の塔」の存在もあって、まるで要塞のよう。
2013(H25)年8月30日、ついにB747-400の全機退役が公式リリースされた。
以降、ANAもさまざまなキャンペーンを展開、「里帰りフライト」と称して、日本各地へのお別れフライトも次々に行われて現地のファンを沸かせた。
タイムテーブルも、10月以降はジャンボ機を印象的に配置して表紙を飾っていく。
公式リリースの時点では4機残されていたものの、9月一杯で「ピカチュウジャンボ」が退役、残り3機もそろって3月末まで仲良く、とは思えない。
となればラストフライトが近づくにつれて乗れる便数は減って行く事になるだろうし、一方で搭乗希望者は多くなるはずだから、押し詰まってくると座席の確保も難しくなっていくだろう。
という事で国際線と同様、国内線についても、やや早めではあるが、ささやかな個人的「お別れフライト」を企画してみた。
2013(H25)年11月の那覇線。
最後の数か月は、沖縄・那覇路線が中心になった。さすが「高気圧ガール」のANA?機体のパフォーマンスからして、最もジャンボにふさわしい国内路線だろう。
居並ぶ米軍機に出迎えられて着陸するのが、沖縄らしい。
羽田以外でジャンボ機が競演するシーンを見られるのは、沖縄がほぼ唯一になっていた。
羽田へ向けて飛び立つ。
すぐに低高度での水平飛行がしばらく続く、これもまた沖縄。
青い空・青い海にトリトンブルーが映える。
「お別れフライト」は、アッパーデッキへの搭乗を選んでみた。
国際線はアッパーデッキに乗った事はなく(ANAでは必ず上級クラスだったから)、国内線で今回を含めて2回のみになった。
カマボコをイメージした、独特の空間。
羽田空港到着は、ターミナルまではバス移動。
思い出せば、国際線の「お別れフライト」も、羽田(成田からのダイバート)はバス移動だった。偶然だとは思うが、今回改めて整理してみると、ANAのジャンボは、意外とバスでの乗り降りが多かった、そんな気がした。
これで、個人的にはANAのジャンボ機の旅は終わった。いつも、どんな時も、快適なフライトをありがとう、と感謝したいと思う。
引退が近づくにつれ、関連グッズも続々発売。
高価なものから手頃なものまでよりどりみどりだ。何故か「マリンジャンボ」グッズがほとんどないのは?なのだけれど。
これは、定番のクリアファイルセット。なお、「3月29日リタイア」と記されているが、31日まで飛ぶ。
この日、ANAグループから姿を消す機種がもう1つある。
当初は北海道内路線、のちに西日本から伊豆諸島路線に場を移してきたANAウイングスのDHC-8-Q300が、同じく今月31日の三宅島線を持って退役する予定だ。
56席はB747-400D(565席)の10分の1。グループ最大の機体と最小の機体が同時に姿を消すのだが、大きかろうが小さかろうが、ANAを支えてきた貢献度の大きさは全く変わらない。
今日も沖縄に向け、羽田空港を出発する。
もはや日本全国津々浦々とはいかなくなったが、それでも、トリトンブルーの大きくて広い翼の記憶は、日本の多くの人々に強烈な印象として残る事だろう。
例によって、個人的なデータを並べてみました。
ANAのB747-400シリーズは400型・400D型をひっくるめて、1993(H5)年10月12日~2013(H25)年11月7日の20年強の間に、合計29回搭乗。
全搭乗マイル(TPMベース)の合計は69,402マイルでした。地球を約2.7週した計算。
最長は2004(H16)年6月19日のパリ発成田行NH206便で、6206マイル。
最短は、伊丹線ではB747-400シリーズに搭乗した事はなく(クラシックSRではあった)、2007(H19)年6月15日の羽田発函館行853便が最短となり、424マイルでした。
ANAのB747-400シリーズは延べ23機が導入されたが、JA8097に、なんと5回も搭乗して最多となりました。全て東京(成田・羽田)~フランクフルト線。特に2008(H20)・2009(H21)年の往復がすべて同じ機体になった事が最多記録につながりました。
また、ANAでの就航わずか8年のJA404Aにも4回搭乗。ロスへの往復が共に同じだった事に加え、長崎線でも搭乗していました。
国内線機材では、JA8965に、やはり4回でした。1998(H10)年3月2日に「スヌーピー号1997-1998」で、1999(H11)年3月17日には「ポケモンジェット1998」で乗っています。
ANAにおけるB747-400シリーズ「テクノジャンボ」が活躍した24年は、国際線長距離路線の拡張が急ピッチで進み、スター・アライアンスへの加盟もあって、ワールドワイドな地位を確立、ついには日本の航空業界の「東の正横綱」に上り詰めた躍進の時期と、見事に重なります。
なにもかもがテクノジャンボにもらたされたものではないとしても(意外に早く退役した機体もあるし)、意欲的なキャビン・魅力的なスペシャルカラーなど、テクノジャンボが道を開いたものが数知れません。
ANAの歴史の1ページを飾るにふさわしい名機だったと、断言できるでしょう。
Thanks JUMBO!
I'll keep your blue forever!
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ところでこの連載の冒頭、「今回のジャンボの退役は、ANAのみならず、日本の航空業界全体の一大転機だ」と書きました。
旅客用に限るが、1970(S45)年7月1日にJALの1号機が就航してから44年、JAL(旧JAA含む)とANAで、クラシック・400合わせて延べ146機のジャンボジェットが就航。
最多の1999(H11)年には121機が登録されていて、羽田でも成田でも、ジャンボ機の姿が至極当たり前に見られていて、日本はその空港事情もあり、世界でも例を見ない「ジャンボジェット天国」でした。
それがわずか15年で、全て消え去る事になります。
また、日本の戦後の民間航空は1951(S26)年のDC-4に始まり、同じレシプロのDC-6B・DC-7C、ターボプロップのビッカース・バイカウント、ジェット時代になってDC-8・コンベア880、そしてB747と、エンジンの形態は異なれど、4発エンジンの旅客機が途絶える事はありませんでした。
しかし、31日にANAのB747-400Dが退役すると、この後SKYのA380の就航があるのでわずかな期間に留まるものの、日本における4発エンジンの旅客機の系譜も、一時絶たれる事になります。
世界的に見ても、長距離路線の展開も多い世界有数の航空大国から4発エンジン旅客機がいなくなるとは、結構異例な事態なのではないでしょうか。
つい十数年前、成田や羽田のターミナルをジャンボジェットの翼が埋め尽くしていたシーンを何度も目の当たりにしていた身には、何とも早く、そして非情な時の流れ、と感じずにはいられません。
最後に、日系・海外どのキャリアを問わず、B747-400、やっぱり傑作だなあ。
3年前にJALの、今回ANAのB747-400のお別れ企画を作ってみて改めて実感したのだけれど、長いアッパーデッキと大きな垂直尾翼、ツンと尖ったノースが絶妙の造形美を作っているように思えるのです。
(同じジャンボでも、300型より前のアッパーが短い「クラシック」には、個人的にはそこまでは感じない)
「マリンジャンボ」から航空趣味に入った事もあるし、社会人になって海外へ出るようになった時期はちょうどB747-400の脂が乗っていた頃で、欧州への旅ではほとんど同型機利用だった事もあり(日系2社+AF・KL・LH)、私的には非常に思い入れが強い機種になっています。
JALに続いてANAも次期長距離旅客機に再度双発機を選定した事で、後継のB747-8が日本で導入される可能性は、ますます遠のいてしまいました。日系キャリアのジャンボ機に乗る機会は、もうないだろうと思います。海外キャリアも日本乗り入れがどんどん少なくなっているけれど、いつか再び、一昨年のCXのように、なんとか搭乗する機会を作れたら、と思っています。
今回の連載は
「ANA SKY STORY」
「日本の旅客機」(各年)
「旅客機型式シリーズ5 B747-400」
「新・旅客機型式シリーズ02 B747-400」(いずれもイカロス出版)
を参考にさせて頂きました。
当ブログでは、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。
《今日のニュースから》
奥松島遊覧船 本格的に運航を再開