神奈川の鉄道の歴史を整理し振り返っています。後半は戦後~平成・いま現在までです。
昭和(戦後)
1945(S20)年8月15日の日本敗戦で太平洋戦争は終結した。鉄道界もしばらくの間、戦災による混乱が続いたが、徐々に立ち直り、1950(S25)年勃発の朝鮮戦争による特需もあり、産業経済の復興にあわせて、鉄道も活気を取り戻していく。
「大東急」は1948(S23)年6月に解体、小田急電鉄(小田急)と京浜電気鉄道改め京浜急行電鉄(京急)、及び京王電気鉄道改め京王帝都電鉄(京王)が東急から独立、再び独自の道を歩む事になった。江ノ電(1947(S22)年3月)、箱根登山(1948(S23)年6月)に東急の資本から離れ、相鉄も東急への経営委託を解除している。
箱根登山は同時に小田急グループ入りし、1950(S25)年8月には小田原~箱根湯本間で3線化、1500V昇圧を行って、小田急の車両の乗り入れが始まった。江ノ電も1949(S24)年に社名を江ノ島鎌倉観光に改めた後(1981(S56)8月、江ノ島電鉄に再度改称)、1953(S28)年に小田急グループ入りしている。
S20年代後半は、国鉄・私鉄とも鉄道史に名を残す名車を数多く生み出している。東海道本線では1950(S25)年に80系「湘南電車」がデビューした。それまでの茶色一色から一転、緑とオレンジのツートンカラーが鮮烈だった同系列は、同時に長距離・長編成の運転にも電車が有用である事を実証し、全国の本線系統の電車化の先駆けとなった。
東急東横線では1954(S29)年、5000系(初代)がデビューした。カルダン駆動、モノコック構造の軽量車体を緑色にまとい、初期の高性能電車の先駆けである。翌1955(S30)年には相鉄も初の自社開発車両5000系を導入した。同様にモノコックの軽量車体を持つ高性能車両である。
小田急の初代ロマンスカー・3000形「SE」。海老名検車区に静態保存されている。編成片側はデビュー当時の姿に復元している。イベント時に公開される。
戦後復興がある程度進むと、観光の需要も高まってくる。小田急では1948(S23)年10月に始まった有料特急に、1700形・2300形を経て、1957(S32)年7月、3000形(初代)「Super Express」(SE)を、満を持して導入した。当初から特急専用車として、モノコック構造の軽量・低床・低重心車体、8連接、回転式クロスシート、「走る喫茶室」を備えた豪華列車で、「ロマンスカー」の名を、広く世に知らしめる事になる。また、新宿~小田原間60分運転構想に基づく高速運転性能も持ち、同年には国鉄に貸し出され、東海道本線上で時速145㎞/hの、当時の狭軌鉄道世界最高時速を記録した。さらに1963(S38)年3月には、先頭部に展望席を設けた3100形「New Super Express」(NSE)がデビュー、ロマンスカーの人気は不動のものとなった。
小田急グループは当時、箱根付近の観光を巡って西武グループとの競争を激化させていたが、ロマンスカーが箱根湯本で登山電車に接続し、ケーブルカー・ロープウェイと連絡して芦ノ湖畔に至るルートを完成させた事で、戦いを有利に導く事になる。ロマンスカーは1964(S39)年3月、〈えのしま〉として江ノ島線でも運転を開始した。
東海道本線では1949(S24)年2月、伊東線に直通する準急の運転を開始、秋には〈いでゆ〉の愛称がついた。1961(S36)年は伊豆急行線の開業により伊豆急下田まで運転区間を延伸、1969(S44)年4月には、日光線から転用した157系を使用した特急〈あまぎ〉の運転を開始している。
1956(S31)年、東海道本線は全線の電化が完成した。1958(S33)年秋にデビューした151系(当時20系電車は、新技術の積極的な採用と居住性の向上により、長距離特急列車への電車の投入の足掛かりとなった。東京~大阪間の特急〈こだま〉は、在来の客車列車より40分~1時間の所要時間短縮を達成。日帰りの運用を可能とした。夜行では同年にデビューし、寝台特急〈あさかぜ〉に導入された20系客車が画期的だった。固定編成・集中電源方式の採用による冷暖房完備・固定窓・空気バネ台車の採用で居住性を大幅に向上、青い車体から「ブルートレイン」として長年親しまれた。
1955(S30)年には小田急線~御殿場線直通の特別準急が運行を開始した。当初は御殿場線が非電化だったため小田急が製作したDCによる運行で、1969(S44)年の御殿場線全線電化後は編成短縮改造を行ったSE車を転用、連絡急行〈あさぎり〉として運行した。
京急久里浜線は1963(S38)年11月、京浜久里浜~野比(現YRP野比)間を延伸した。その後1966(S41)年3月に津久井浜まで、7月には三浦海岸まで延伸、この時点で本線堀ノ内~浦賀間とは地位が逆転し、久里浜線が本線格を有する事になった。当時は三浦海岸の海水浴が盛んで、夏場には臨時ダイヤを組み、特急を増発して大勢の海水浴客をさばいた。休日には座席定員制の特急も設定されている。
東京オリンピック開幕直前の1969(S39)年10月1日、世界初の高速鉄道・東海道新幹線が開業した。全線標準軌の高速新線により営業速度210㎞/hを達成、世界の鉄道に大きな影響を与える事となった。東京~新大阪間の〈ひかり〉は開業時点では4時間、翌年には3時間10分にまで短縮している。初の高速鉄道開業を前に、綾瀬~鴨宮間にモデル線を建設して各種実験を行い、1963(S38)年には試験走行列車が256㎞/hの、電車の世界最高記録をマークした。神奈川県内は「弾丸鉄道」計画と同じく横浜と小田原に駅が設けられたが、横浜は横浜線(菊名~小机間)との交差地点に駅が設けられた。横浜線も合わせて駅を新設し、横浜市中心部との連絡を図っている。両駅とも、〈こだま〉のみの停車だった。
新幹線開業直前の1964(S39)年5月、根岸線の桜木町~磯子間が開業した。東海道本線の別線として戦前から計画されていたが、戦争の影響で建設・開業が大幅に遅れていた。1970(S45)年3月には洋光台、1973(S48)年4月には大船まで延伸して全通した。京浜東北線と一体で運行されている。根岸線の延伸で、横浜市南部の宅地開発が一気に進む事になった。
S30年後半になると日本は高度経済成長期に入り、各地で大規模な宅地開発が展開される。神奈川県で最も大きなものは、東急が1953(S28)年に発表した「多摩田園都市構想」だった。そのアクセスとして、1966(S41)年4月、溝の口まで到達していた田園都市線(1943(S7)7月に玉川から延伸していた溝の口線を鉄道に転換して、大井町~二子玉川園(現二子玉川)間の大井町線に編入した上、路線名を変更していた)を、一気に長津田まで延伸した。当初は大井町~長津田間の運転で、1976(S51)年までにつきみ野まで順次延伸し、大和市に東急の路線が乗り入れる事になった。1984(S59)年4月に中央林間まで延長して全線が開通、小田急小田原線と接続した。この間、1977(S52)年4月に渋谷~二子玉川園間に開業していた新玉川線への直通を開始、翌年には営団地下鉄半蔵門線への直通も開始した上、1979(S54)年8月には運転系統を改め、全列車を新玉川線経由渋谷方面への直通としていた。大井町~二子玉川園間は、名称を大井町線に戻している。
1967(S42)年4月にはこどもの国線が開業した。旧日本軍弾薬庫への引き込み線跡を、1965(S40)年に開園したこどもの国へのアクセスとして利用したもので、こどもの国協会が線路を保有し、東急が実際の列車の運行にあたる形態とした。
東京都や日本住宅公団などが都内多摩丘陵に建設した「多摩ニュータウン」へは、京王と小田急が新線を建設してアクセスとなった。京王は京王多摩川までの支線を延伸する形で相模原線を建設、1971(S46)年4月に京王よみうりランドまで開業した。稲田堤で川崎市多摩区を経由し、初めて京王の電車が神奈川県を走る事になった。1974(S49)年10月には京王多摩センターまで開通している。同年4月には小田急多摩線・新百合ヶ丘~京王永山間が開業している。新百合ヶ丘駅は付近のルート変更に合わせて開業した。両路線とも、日本鉄道建設公団が建設費を肩代わりし、京王・小田急両社がそれぞれ25年かけて償還する方式が採られた。
通勤圏の拡大により、私鉄では地下鉄との相互乗り入れによる都心への直通の機運が高まった。東急東横線は1964(S39)年8月、中目黒に到達した旧営団日比谷線と相互直通運転を開始、北千住~日吉間で直通列車が運行された。京急でも品川~泉岳寺間の延伸開業で都営地下鉄1号線(現浅草線)と接続、1968(S43)年より相互直通運転を開始している。既に直通運転が始まっていた、千葉県の京成電鉄線へも直通する初詣特急の設定も行われた。小田急と旧営団千代田線との相互直通運転の開始は、1978(S53)年である。
横浜市電1150形。1500形と同一車体ながら、旧型車両の機器が再用されている。1156号車は磯子区久良岐公園に静態保存、先頃地元紙のキャンペーンもあって、美しく復元された。
横浜市電は1947(S22)年に全線が戦災から復旧し、1956(S31)年の井土ヶ谷線開業で、営業キロ約52㎞と最盛期を迎えた。しかしこの頃から自動車の普及が目ざましく、軌道敷内の自動車走行が認められた事もあって、定時運転が困難になりつつあった。利用者の逸走に加えて加えて市の財政悪化もあり、1966(S41)年8月の生麦線・中央市場線を皮切りに順次撤去され、1972(S47)年3月限りで全線廃止になった。横浜市電の場合、根岸線の開業も打撃になった。川崎市電は1952(S52)年1月に京急大師線の戦時中の延伸区間の一部を組み込み、川崎駅前~塩浜間となったが、同様にモータリゼーションの影響を受けて利用が減少、横浜に先立つ3年前の1969(S44)年3月一杯までに全線廃止になった。1956(S31)年5月限りで箱根登山鉄道小田原市内(町内)線も廃止になっていたから、神奈川県からは路面電車はすべて廃止になった事になる。
横浜・川崎両市とも戦後になってトロリーバスも開業させていた。当時は一般的なバスの性能が低く、トロリーバスはより大量輸送が出来て動力費が安いメリットもあった。川崎市は1951(S26)年3月に川崎駅前~桜本間が開業し、3年後には日立造船所、1964(S39)年には鋼管水江製鉄所まで延伸した。しかし1967(S42)年4月限りで全線廃止。16年の短命だった。横浜市は市西部の丘陵地帯に、1959(S41)年7月に開業。5か月後には全線開業し、循環系統を形成した。こちらは市電と同日に廃止。都市交通としては最後のトロリーバスだった。
S40年代前半にはモノレールの開業が相次いだ。初期のモノレールは遊戯的なイメージがあり、1966(S41)年4月開業の小田急の向ヶ丘遊園モノレール、同年5月開業のドリーム交通はいずれも、遊園地へのアクセスとして建設された。しかし後者は技術的な問題からわずか1年強で運転を休止、その後も立ち直れず、2002(H14)年に正式に廃止になった。前者は2000(H12)年まで運行されたが、同年車両の故障が発見され、運行を再開できないまま翌年廃線となった。
一方、1970(S45)年3月、湘南モノレールが大船~西鎌倉間に開業した。京急が保有していた有料道路の上部の空間を利用して建設された懸垂式である。翌年7月には湘南江の島まで延伸した。湘南江の島駅は江ノ電の江ノ島駅に近く、当初は小田急江ノ島片瀬江ノ島付近までの延伸を目論んだが、果たせなかった。
横浜市営地下鉄1号線は1987(S62)年5月、舞岡~戸塚間が延長開業した。戸塚開業前の上永谷~舞岡間は暫定的な単線運転を行っていた。装飾を施した試運転の2000形。
市電廃止の8か月後の1972(S47)年12月、横浜市営地下鉄が開業した。第一期開業は鎌倉街道の真下を走る伊勢佐木長者町~上大岡間で、渋滞が激しく、早期の開業が期待されていた。関内付近が難工事になり、伊勢佐木長者町から関内地区までは無料バス連絡を必要としていた。1976(S51)年9月に横浜~上永谷間、1985(S60)年3月に新横浜~舞岡間と両端へ延伸が続き、1987(S62)年5月には戸塚まで到達した。正式には関内を境に戸塚側が1号線、新横浜側が3号線とするが、両路線は一体で運行されている。
激化する混雑に対応するため、国鉄では「通勤五方面作戦」と銘打ち、東京都内から放射状に延びる幹線区の複々線化を推進する事となった。東海道本線では1980(S55)年10月、東京~大船間で線路を共用していた横須賀線を分離して列車本数を増発した。横須賀線は、品川~鶴見間は在来の貨物線(通称「品鶴線」)を旅客線に転用、鶴見~大船間は新たに羽沢経由の貨物線を建設し、空いた在来の貨物線を走行するルートとした。東京駅は地下ホームに発着、総武快速線を経由して千葉方面への直通運転を行い、東京都内をスルーする広域直通運転の草分けとなった。貨物線は平塚から小田原まで延伸し、客貨分離の複々線としている。
横浜線も輸送量の増加により1967(S42)年10月の菊名~新横浜間を皮切りに複線化を推し進め、1978(S53)年10月には中山まで、1979(S54)年7月には原町田まで、1980(S55)年には相原まで延伸した。1988(S63)年には全線複線化が完成し、同年のダイヤ改正で快速が設定されている。
一方で、相模線の寒川~西寒川間支線は、1984(S59)年3月限りで廃線となった。末期は1日4往復のみの運転に留まっていた。
私鉄では車両の増結によって混雑の緩和を図った。京急では1974(S49)年12月より金沢文庫~横浜間で、私鉄最長となる12両編成の特急の運転を開始、1981(S56)年には品川まで拡大して通勤快特を設定した。東急東横線は1970(S45)年4月に8両編成の、田園都市線では1983(S58)年1月に10両編成の運転を開始した。田園都市線では同時に急行の運転を開始している。小田急は1977(S52)年7月、新宿~本厚木間で急行の10両編成の運転を開始した。
相鉄は1976(S51)年、いずみ野線・二俣川~いずみ野間を開業した。湘南台を経由して平塚に至る計画の一環であり、横浜市西部の開発を促す事になる。本線は1980(S55)年に急行の10両編成の運転を開始したが、当時の相鉄は大手私鉄入り前で、地方私鉄としては画期的な出来事だった。
1949(S24)年6月に発足した公共企業体の日本国有鉄道は、S40年代から経営状況が悪化、数度にわたる財政再建計画も挫折し、不祥事も相次いで利用者の信頼を失った。抜本的対策として鉄道の国営を廃止し民営化、旅客部門については全国6つのブロックに分割する「分割・民営化」が、1986(S61)年の国会で議決され、翌1987(S62)年4月1日、JRグループ旅客6社・貨物1社が国鉄の後を継いで営業を開始した。
神奈川県では東海道新幹線と御殿場線が東海旅客鉄道(JR東海)、その他の旅客路線は東日本旅客鉄道(JR東日本)が運営する事となった。
これに先立つ1986(S61)年11月の「国鉄最後の」ダイヤ改正では座席定員制の通勤列車〈湘南ライナー〉が運行を開始した。特急車の有効活用を狙ったものであり、民営化以降、貨物線を活用した増発や新宿発着列車の設定につながる事になる。その一方で貨物輸送は大幅に合理化され、郵便・荷物列車もすべて廃止になっている。
国鉄民営化と同時に鉄道事業法が施行され、東急こどもの国線は、線路を保有するこどもの国協会が第三種鉄道事業者、営業する東急が第二種鉄道事業者に指定されている。
(神奈川県のその他の旅客線はJR・私鉄・公営すべて、自ら線路を保有し、営業も行う第一種鉄道事業者)
JR各社は効率的な運営が求められ、その一環で輸送量の少ない路線の経営合理化策として、全国的にワンマン化が推進される事になった。神奈川県では南武支線が1988(S63)年3月、青森県の大湊線と共にJR初のワンマン運転路線となった。神奈川県では横浜市電が末期にワンマン化されたが、普通鉄道では全鉄道事業者を通じて初のワンマン化でもあった。
平成
平成時代最初の開業路線は、神奈川県初の新交通システム「シーサイドライン」だった。「標準型新交通システム」第一号として、1989(H元)年7月に開業。当初はワンマン運転で、1993(H5)年に無人運転を開始した。金沢八景駅は暫定的に仮駅に発着し、再開発の進捗に合わせて新駅を建設して延伸する予定になっている。
京王相模原線は1990(H2)年3月に橋本まで延伸して全通した。1980(S55)年3月より東京都営地下鉄新宿線と相互直通運転を行っており、同線は相模原市と東京の都心を直結する、幹線的な使命も与えられることになった。相模原線はさらに相模中野・津久井方面への延伸の計画もあったが、果たせなかった。相鉄いずみ野線も1990(H2)年4月にいずみ中央へ、1999(H11)年3月には湘南台まで延伸し、小田急江ノ島線と接続している。
JR相模線は1991(H3)年3月に電化され、神奈川県の旅客鉄道線は全線の電化が完成した。朝夕は横浜線八王子への直通運転も行っている。
東海道新幹線は民営化以降、高速化に重点が置かれるようになった。1992(H4)年3月には300系を導入して〈のぞみ〉を設定、最高速度270㎞/hで東京~新大阪間を2時間30分にまで短縮している。当初は早朝・深夜のみの設定で、下り1本は新横浜に停車した後、名古屋・京都さえ通過して新大阪までノンストップの設定が話題となった。東海道新幹線はこの後徐々に〈のぞみ〉中心の設定になり、航空対策もあって〈ひかり〉も含めて新横浜停車が増え、2008(H20)年改正で全列車停車が実現した。
小田急と東急は「特定都市鉄道整備事業計画」の認定を受け、複々線化等により輸送力の増強を図る事になった。東急東横線は多摩川~武蔵小杉間を複々線化、目蒲線の運転系統を変更して目黒線として、2000(H12)年8月に目黒~武蔵小杉間の運転を開始した。翌月には営団南北線・都営三田線との相互直通運転を開始、東横線のバイパス機能を与えている。2008(H20)年には日吉まで延伸した。田園都市線は二子玉川~溝の口間を複々線化し、2009(H21)年より大井町線が直通している。両路線とも、急行の設定も行われた。
小田急は1989(H元)年より小田原線・東北沢~向ヶ丘遊園間の複々線化工事に着手したが、都内の工事は大幅に遅れ、登戸駅手前までの複々線化と、その先向ヶ丘遊園までの上り線2線化が完成したのは2009(H21)年3月になってだった。登戸~向ヶ丘遊園間の3線化は、登戸付近の再開発事業の進捗を見込んだ暫定的な措置である。下北沢付近の地下複々線化は2017(H29)年度の予定としている。急行の10両編成の運転区間拡大は進み、1995(H7)年3月には秦野まで、1998(H10)年8月には江ノ島線も含め全線の10両編成運転を実現している。
JR東日本は1996(H8)年10月1日、支社制度を導入した。神奈川県では中央本線(八王子支社)を除く在来線全線が、横浜支社の管轄となった。横浜線・相模線では受け持ちの変更も行われている。
JR東海道本線は東海道新幹線の開業以降、旅客の分野では長距離輸送の役割が薄れつつあった。新幹線の延伸・高速化や航空需要の伸びもあって長距離特急は削減が進み、長年親しまれた「ブルートレイン」は、2009(H21)年3月改正で〈富士・はやぶさ〉が廃止されて全廃、普通列車〈ムーンライトながら〉も臨時列車に格下げされ、定期夜行列車は電車寝台特急〈サンライズ瀬戸・出雲〉を残すのみとなった。昼行も特急〈東海〉が2007(H19)年3月改正で廃止されており、特急列車は伊豆方面の〈踊り子〉系統を残すのみになっている。
一方、羽田・成田両空港へのアクセス鉄道の整備に伴い、神奈川県からの直通列車も設定される事になった。成田空港は1991(H3)年3月、新幹線用に建設された施設を活用して、JR成田線が京成線と共にターミナル直下の新駅に乗り入れた。JRでは特急〈成田エクスプレス〉が運行を開始、横須賀線も一部が成田空港まで直通する事になった。羽田空港では京急空港線が延伸し、1998(H10)年11月にターミナル直下の新駅に乗り入れ、同時に横浜・横須賀方面からの直通列車が運行を開始している。以降京急蒲田駅立体化工事の進捗に対応して増発が重ねられた。
京急線では1995(H7)年4月より、品川~横浜間で快速特急の120㎞/h運転を開始した。関東の私鉄では東武特急「スペーシア」に次ぐもので、料金を徴収しない一般列車では初の快挙となった。
市営地下鉄は1993(H5)年3月、新横浜~あざみ野間が開業し、東急田園都市線と接続した。1999(H11)年8月には戸塚~湘南台間が開業して、小田急江ノ島線と接続。湘南台は藤沢市にあり、市外に路線が延びる事となった。
2004(H16)年2月、横浜高速鉄道みなとみらい線が開業し、東急東横線と相互直通運転を開始した。計画自体は1985(S60)年から存在し、当初は東神奈川で横浜線と接続、相互直通運転を行う計画だった。しかし国鉄の財政悪化で計画を変更、起点を横浜に変更したものである。運転関係は全面的に東急に委託している。これに先立って東急東横線の横浜~桜木町間が2日前に廃止になり、横浜・反町両駅は地下の新駅に移転した。なお、横浜高速鉄道はこれより先の1997(H9)年8月、東急こどもの国線の通勤線化に伴い、第三種鉄道事業免許をこどもの国協会より譲受している。
2008年(H20)3月、横浜市営地下鉄ブルーラインが開業した。大阪・東京・神戸・福岡に次ぐ全国5番目のリニアモーター地下鉄だが、初めて営業区間で地上を走行する路線となった。正式には4号線だが、「グリーンライン」の愛称が与えられている。同時に1・3号線は「ブルーライン」と称される事になった。「グリーンライン」は当初からワンマン運転で、「ブルーライン」も先行して2007(H19)年よりワンマン運転を開始している。両路線ともホームドアが設置され、安全対策を施した。
湘南新宿ラインは東海道線~高崎線・横須賀線~宇都宮線の2系統の設定がある。開始当初は115系や211系、215系やE217系も使用されたが、2004(H16)年より、全列車、E231系で運行。
21世紀に入ってからの神奈川県内の新線は「みなとみらい線」「グリーンライン」のみだが、都内の地下鉄の新規開業やJR線の整備により、在来路線の相互直通運転の広域化が顕著になる。典型的なものは、2001(H13)年11月運行開始のJR「湘南新宿ライン」だった。山手線の貨物線を旅客線化し、東海道本線・横須賀線から新宿・池袋を経由して埼玉・栃木・群馬県方面への直通運転を行うものである。2004(H16)年の池袋駅構内改良工事完成により、10月には一気に運転本数や時間帯が拡大され、東海道本線~高崎線では特別快速も設定された。2010(H22)年改正では武蔵小杉駅が開業して南武線と接続、横須賀線や〈踊り子〉〈成田エクスプレス〉を含む大半の列車が停車する事となった。
湘南新宿ラインの運行開始は、競合する東急や小田急に影響を与える事になり、東急東横線では2001(H13)年3月に同社史上初の「特急」が、小田急江ノ島線では2002(H14)年3月に「湘南急行」(2004(H16)年12月「快速急行」に格上げ)が設定される事となった。
小田急では東京メトロ(メトロ・2004(H16)年4月営団地下鉄が民営化)千代田線との直通列車の大半を、2004(H16)年12月改正で、多摩線からの「多摩急行」に変更していた。さらにロマンスカー千代田線直通の機運が高まり、2008(H20)年3月より60000形「Multi Super Express」(MSE)を使用した直通ロマンスカーの運行を開始した。通勤需要の対応がメインだが、土休日には箱根湯本直通も設定されている。MSEは2012(H24)年3月より、御殿場線直通特急〈あさぎり〉運用にも進出した。
東急田園都市線と相互直通を行っていた営団(メトロ)半蔵門線は2003(H15)年3月に押上まで延伸して東武伊勢崎線と接続、東急の電車も埼玉県越谷・春日部方面へ直通運転を行う事となった。東急の電車は2001(H13)年に目黒線が南北線を介して埼玉高速鉄道への直通を行っていたから、埼玉県への直通は2例目となった。
菊名駅で並ぶ、東急東横線5050系と東京メトロ10000系。
そして本年2013(H25)年3月16日、東急東横線は渋谷駅を、メトロ副都心線が先行して使用していた地下駅に移転、副都心線を介して西武池袋線・東武東上線との相互直通運転を開始した。百貨店と直結していた都心のターミナルがまるまる移転するのだから、東急グループそのものの一大転機となった。特急・通勤特急では10両編成の運転を開始している。一方でメトロ日比谷線との相互直通が終了。地下鉄関連の相互直通運転の廃止は、初のケースだった。
明日と明後日は、各路線毎に歴史と現況を整理します。
明日はJR、明後日は私鉄と公営の予定。
当ブログでは直接のコメントは受け付けないので、何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。
当ブログ上からでは発表できない緊急の事態が発生した時は、本体でお知らせします。
オリンピック開催都市はどうなるんでしょうかねぇ。
正直、あまり期待しないで結果を待ちたいと思います。
2016年大会のリオ・デ・ジャネイロ開催決定から、もう4年経ってしまったんですね…。
《今日のニュースから》
「MRJ」組み立て中の機体 報道陣に初公開