№1015 神奈川の駅を全部撮る! 神奈川の鉄道の歴史(前)・明治~昭和(戦前・戦中)

「全部撮る!」シリーズのスタートに先立ち、本当に簡単ですが、開業以来の神奈川県の鉄道の歴史を振り返ってみようと思います。これでも字数が多くなってしまって、今回は明治~昭和(戦前・戦中)について書きます。

画像

鉄道創業の地・記念碑。初代横浜駅の跡地に立つ。左側は1969(S39)年開業の根岸線。

明治
 1872(M5)年9月12日、新橋(現汐留付近)~横浜(現桜木町付近)に日本初の鉄道が開業した。イギリスの技術によるものである。当初は9往復の運転で、後に14往復に増発された。所要時間35分、運賃は上等1円12銭5厘、中等75銭、下等37銭5厘と、当時としてはかなりの高額であった。しかし、それからわずか30年余りで、日本の鉄道網は一気に7,000㎞を突破するまでに発展する。当時は旧暦で、9月12日は新暦では10月14日となり、今日まで「鉄道の日」として親しまれている。

 引き続き計画された、東京と名古屋・関西地方とを結ぶ幹線鉄道は中山道経由との比較の結果、東海道経由での建設が決定し、1887(M20)年には横浜~国府津が部分開業、1889(M22)年7月には神戸までの全線が開通した。横浜はスイッチバックし、国府津~沼津間は御殿場経由だった。1894(M27)年9月には横浜駅をスルーする、神奈川~保土ヶ谷の短絡新線も開業した(当初は軍用で、一般営業開始は4年後)。1898(M31)年には新橋~神戸の夜行列車、1912(M45)年には新橋~下関の特別急行列車の運行も始まっている。横浜の利用者の利便性確保のため、1901(M34)年には短絡線上に平沼駅が開業し、長距離列車の大半が停車した。
 1889(M22)年6月には支線として、大船~横須賀の横須賀線も開通している。横須賀が海軍関係の施設が集中する国防上の要衝である事があった。

 一方、国防上の観点から山間部を経由する路線も中央線として建設が始まり、東側は1903(M36)年、甲武鉄道線に接続する形で八王子~甲府が開通した。神奈川県内は与瀬(現相模湖)に駅が設けられている。1906(M39)年に塩尻まで到達、2年後に名古屋からの路線も到達して全通した。

 当初の東海道本線は小田原・熱海を経由しなかったため、この地方を巡る小鉄道の動きがいくつか見られた。小田原の実業家らが、小田原を経由して国府津と湯本温泉を結ぶ小田原馬車鉄道を設立、1888(M21)年10月に開業。その後社名を小田原電気鉄道に変え、1900(M33)年10月に電気運転に転換した。後の箱根登山鉄道の原型である。1895(M28)年7月に熱海側から開通した豆相人車鉄道は1900(M33)年に小田原まで到達。その名の通り人間が客車を押し引きする簡易鉄道も、熱海鉄道と名を変えた後、1907(M40)年には改軌して、蒸気機関車による軽便鉄道に転換した。翌年8月には大日本軌道に合併される。

 明治後半になると、電気運転の私鉄が神奈川県でも各地に相次いで開業する。1898(M31)年、大師電気鉄道が設立、翌1899(M32)年1月に六郷橋~川崎大師が開業した。京都・名古屋に次いで日本で3番目、「鉄道」としては日本初の電気鉄道であり、また標準軌(1,435㎜)で建設された初の鉄道でもある。当初より東京~横浜の電車運転を指向しており、直後に京浜電気鉄道(京浜)に社名を変更、東京~横浜の都市間連絡鉄道を目指して順次延伸。1905(M38)年12月には品川(八ッ山橋)~横浜(神奈川)の開通により京浜間が結ばれ、高速運転とフリークェントサービスを武器に官営鉄道との競争を繰り広げた。なお、東京市電への直通運転を考慮し、一時1,372㎜軌間への改軌を行っている。
 1902(M35)年9月、江之島電気鉄道(現在の江ノ島電鉄とは別会社)の藤沢~片瀬が開業した。日本6番目の電気鉄道で、順次延伸を図り、1910(M43)年に鎌倉(当時は小町)までが全通したが、翌年に横浜電気に買収される事になる。

 1904(M37)年7月、横浜に路面電車が開業した。市内交通の軌道では京都・名古屋・東京・大阪に次いで5番目である。当初は横浜電気鉄道という私鉄だった。第一期線として神奈川停車場前~大江橋が開通した後、市内各地に路線網を広げていく。

 秦野と東海道本線の二宮を連絡する湘南馬車鉄道が、1906(M39)年に開業した。大正に入って蒸気運転に転換され、湘南軽便鉄道、後に湘南軌道と改称する。

 現在の横浜線は1908(M41)年9月、横浜鉄道によって全線が開業した。八王子の主要産品である生糸を、横浜へ運ぶのが本来の目的だった。元々後の国有化を前提にした認可であり、1年半後には政府による借り上げが行われる。この時期には広軌化の試験も行われた。


大正
 1914(T3)年12月、東京(中央停車場)~高島町間で京浜線として電車の運行が始まった。東海道本線への貼り付け線増(複々線)の形態で建設されたものだが、トラブルのためすぐに休止。翌年5月に再開の後、初代横浜改め桜木町まで延伸した。1925(T14)年11月には東京側が新設の高架線を経由して上野まで延長、昭和初期の大宮延伸で、京浜東北線の原型が完成した。
 横浜駅は1915(T4)年8月に高島町に移転、二代目となった。東海道本線はスイッチバックが解消された。初代横浜駅は桜木町と改称、京浜線の電車が発着する駅となった。同時に平沼駅は廃止されている。

 1920(T9)年5月、鉄道院は鉄道省に昇格した。
 東海道本線は1920(T9)年10月に支線として国府津~小田原が開通、真鶴、湯河原と延伸を繰り返し、1925(T14)年3月に熱海まで開通して熱海線となった。小田原電気鉄道は並行する国府津~小田原町役場を廃止、熱海線に接続する路線を新設して対処した。大日本軌道は1922(T11)年12月に小田原~真鶴を廃止、残存区間も翌年の関東大震災で被災して休止、1924(T13)年廃止になった。

 横浜鉄道は1917(T6)年10月、正式に国有化されて横浜線となった。1925(T14)年4月には東神奈川~原町田間が電化されたが、東海道本線の電化に先立つ試験の意味合いの方が濃く、この時点では営業用の電化列車は運行されなかった。
 東海道線東京~小田原はこの年の暮れ、横須賀線と共に電化されている。当時はELによる客車列車だった。

 現在の相模線は、(旧)相模鉄道(旧相鉄)によって開業した。1921(T10)年9月に茅ヶ崎~寒川が開業、翌年5月には東四之宮(後の西寒川)への支線が、1926(T15)年7月には厚木までが開通した。一方、現在の相模鉄道(相鉄)の母体である神中鉄道(神中)は1926(T15)年5月、厚木~二俣川を先行して開業させ、半年後には星川(現上星川)まで延伸した。両鉄道共も元々は、相模川沿岸の砂利採集と輸送を目的としていた。

 横浜市内の横浜電気鉄道は対象に入り、当時の市域全体に路線網を広げつつあった。しかし、第一次世界大戦後の不況が同社を直撃し、従業員のストライキや運賃の値上げは市民の不満を招いた。このため1921(T10)年4月、横浜市が同社を買収し、電気局(のちに交通局)が運営する市電となった。

 江ノ電の原型である横浜電気の路線は1921(T10)年5月、東京電灯(今の東京電力)への吸収合併により、同社の江之島線となった。

 小田原電気鉄道は1919(T8)年8月、箱根湯本~強羅間を開業した。80‰の急こう配、3ヶ所のスイッチバックなど、本格的な登山鉄道である。1921(T10)年12月には神奈川県初のケーブルカーが強羅~上強羅(現早雲山)に開業し、鉄道と接続している。
 大雄山鉄道は1925(T14)年10月、大雄山最乗寺への参拝客の足として開業した。小田原は、開業時点は仮駅(のちの相模広小路→緑町)で、省線熱海線の駅からは離れていた。

 1906(M39)年に創立した武蔵電気鉄道は目黒蒲田電鉄の傘下に入って東京横浜電鉄(東横)に改称、1926(T15)年2月に丸子多摩川~神奈川を開業させた。当初は目黒蒲田電鉄へ直通、目黒~神奈川の運行だった。


昭和(戦前~戦中)
 熱海~函南の丹那トンネル開通により、東海道本線は1934(S9)年12月、御殿場経由から熱海経由にルートを改めた。国府津~沼津は11.6㎞の距離短縮になった上、急勾配が解消されて補機連結の必要もなくなり、1930(S5)年10月に運転を開始した超特急〈燕〉は、東京~神戸で所要時間が9時間を切る画期的なスピードアップを遂げた。
 一方で在来のルートは御殿場線としてローカル線に格下げされて運行本数も激減、戦時中には資材供出のため単線化まで行われ、レールは1944(S19)年4月の横須賀線・横須賀~久里浜の延長工事用等に転用された。

 横浜駅は1923(T12)年9月1日に発生した関東大震災からの復旧工事も絡み、1928(H3)年10月、現在の位置に再度移転した。三代目となる。保土ヶ谷方面に向かう路線と、桜木町へ分かれる路線が分岐する地点に建設された。
 横須賀線では1930(S5)年より電車の運行が始まっている。
 中央本線の八王子~甲府は1931(S6)に電化された。

 横浜線は1932(S7)年10月に東神奈川~原町田で自線の営業電車の運転を開始した。一部電車が桜木町への直通運転を開始した。1941(S16)年4月には電化区間が八王子まで到達した。これより前、1930(S5)年にはATSの試験を行っている。戦前の横浜鉄道~横浜線は、各種試験が数多く行われた路線だった。

 小田原電気鉄道は1928(S3)年、日本電力を経て箱根登山鉄道となり、1935(S10)年10月には小田原~箱根湯本間を開業。町内線は箱根板橋~箱根湯本を廃止して、小田原~箱根板橋に縮小した。

 昭和初期は、現在の大手私鉄の路線網が完成しつつある時期だった。1927(S2)年4月、小田原急行電鉄の小田原線が一気に全通した。当初より1500Vで直流電化され、開業半年後には全線複線化された。さらに2年後の1929(S4)年4月には江ノ島線も全通した。1941(S16)年3月には鬼怒川水力電気が買収、同社が小田急電鉄(小田急)と名乗る事になった。1935(S10)年には新宿~小田原ノンストップの週末温泉急行の運行も始まった。
 小田原線開通の陰で、湘南軌道が1937(S2)年廃止になった。

 東横は渋谷~丸子多摩川を1927(S2)年に開業させて渋谷~神奈川間の直通運転とし、路線名を東横線とした。翌年には横浜駅を経由して高島町、1932(S7)年3月には桜木町まで延伸して全通した。東横は1939(S14)年10月に目黒蒲田電鉄に合併され、目黒蒲田電鉄が(二代目)東京横浜電鉄を名乗る事となった。

 湘南電鉄(湘南)は1930(S5)年4月、黄金町~浦賀と金沢八景~湘南逗子が開業した。翌年には京浜が横浜~日ノ出町、湘南が日ノ出町~黄金町をいずれも1,435㎜軌間で開通させて連絡、京浜は1933(S8)年4月、東京側の起点を高輪から品川に改めた上で1,435㎜軌間に再改軌し、両社は品川~浦賀の直通運転を開始した。1941(S16)年11月、京浜は湘南と合併した。

 神中は横浜駅までの延伸を繰り返していた。1927(S2)年5月に北程ヶ谷(現星川)、1929(S4)年2月に西横浜まで開業した後、1933(S8)年12月、鉄道省から貨物用の側線を借り受ける形で横浜まで開業し、全線が開通した。その2年前、1931(S6)年4月には旧相鉄の厚木~橋本が開業している。神中は1939(S14)年11月に東横の傘下に入った後、太平洋戦争の最中の1943(S18)年4月、同様に東横の傘下に入っていた旧相鉄に合併される事になる。両鉄道共、合併以前にはガソリンカーや電気式ディーゼルカーを導入し、神中ではフリークェントサービスの実施、旧相鉄では国鉄横浜線・橋本~八王子への直通運転を行っていた。神中線区間は1942(S17)年6月の横浜~西谷を皮切りに順次電化が進められ、1944(S19)年9月に全線の電化が完成して、1941(S16)年より小田急小田原線相模厚木(現本厚木)まで直通運転を開始した。戦争中は一時中断したが、戦後再開、1964(S39)年まで続く事になる。

 大雄山鉄道は昭和に入り西武鉄道傘下に入った後、1935(S10)年6月に小田原駅まで延伸、省線東海道本線や小田急との接続を改善した。

 1941(S16)年12月8日に開戦した太平洋戦争の真っ只中における神奈川の鉄道は、「戦時買収」と「大東急」の2つのキーワードで語られる事になる。
 鶴見線の母体の鶴見臨港鉄道は元々貨物専業として大正時代に開業、1930(S5)年に電化の上、鶴見を起点に電車による旅客営業運転を開始した(これとは別に海岸電気鉄道が1925(T14)年6月に鶴見~大師で開業させた電車を譲り受け、1927(S12)年11月まで運営していた)が、1943(S18)年7月に国有化された。

 南武線の母体の南武鉄道は砂利運搬を目的として、1927(S2)年3月の川崎~登戸を皮切りに、1929(S4)年11月までに立川まで延伸して五日市鉄道・青梅鉄道と接続。1930(S5)年3月に尻手~浜川崎を開業させて全通し、石灰石を川崎の企業に送り出してきた。旅客輸送の面でも川崎~武蔵中原のフリークェントサービスを実施し、1937(S12)年~1939(S14)年にかけては、川崎~武蔵溝ノ口の複線化も行われた。1944(S19)年4月、五日市・青梅両鉄道と共に国有化された。

 神中と合併したばかりの旧相鉄も、茅ヶ崎~橋本は同年6月に相模線として国有化、相模鉄道の社名は、旧神中線区間のみに残る事になった。

 一方、小田急・京浜の両社は「陸上交通事業調整法」に基づき、1942(S17)年5月に東横に合併された。東横は社名を東京急行電鉄(東急)に改め、2年後には東京の京王電気軌道も合併した。「大東急」の成立である。合併ではないが、神中・旧相鉄の他、1928(S3)年に東京電灯から路線を譲り受けた江ノ島電気鉄道も、1938(S13)年10月には東横の傘下に入っていた。相鉄は戦争末期の1945(S20)年6月には、経営を東急に委託している。旧京浜で「大東急」合併の直後、久里浜線の堀ノ内~久里浜が開業。終点の久里浜は、当初は仮駅で翌年本駅に移転した。軍事輸送への対応だった。

 この他、大雄山鉄道も1941(S16)年8月、同法により同じく西武鉄道傘下にあった静岡県の駿豆鉄道に合併された。伊豆箱根鉄道への社名改称は、戦後の1957(S32)年6月である。

 戦争の激化で京浜工業地帯は軍需が盛んになり、川崎市臨海部の鉄道の整備の必要性が高まった。1944(S19)年10月、川崎市電が川崎~東渡田に開業した。ほぼ同時期に旧京急の東急大師線を入江崎まで、翌年には桜本まで延伸している。横浜市でも市電の鶴見線が開業。需要と節電の両面から、通勤時間帯には急行電車の運転を開始した。
 しかし1945(S20)年、戦争末期の相次ぐ大空襲で、神奈川県下は各地で甚大な被害を蒙る事になった。現京急線では前年廃止していた平沼駅が焼失。その駅跡は現代に至るまで遺構として姿を留めている。

 戦前の鉄道の大プロジェクトとして、「弾丸鉄道」があった。東京~下関に標準軌の新線を建設、最高速度160㎞/hで東京~下関9時間運転を計画。神奈川県内は横浜(菊名駅付近を想定)・小田原の停車を予定していた。戦局の悪化で一部の工事に着手した以外計画は中断したが、一部の線路予定地は、後の新幹線計画に生かされている。

 次回は戦後~現在に至るまでについてです。

 当ブログでは直接のコメントは受け付けないので、何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。
 当ブログ上からでは発表できない緊急の事態が発生した時は、本体でお知らせします。

《今日のニュースから》
大阪市営バス民営化 来年4月実施を見送り

 交通局長が記者会見で発表したものです。
 民営化のための条例案は継続審議中、10日からの市議会で可決の見込みが立たず、可決されても諸々の手続きで最短10ヶ月必要で、早くて7月以降にずれ込む見込み、との事。