№810 「鉄道」を名乗り続けるバス会社
富山県高岡市のバス会社「加越能鉄道」が、1日より「加越能バス」となりました。
加越能鉄道はその名の通り、2002(H14)年3月まで、路面電車の高岡市内線・新湊線を保有・営業していましたが、経営難のため廃止を表明し、第三セクター鉄道の「万葉線株式会社」に譲渡、以降バス専業となっていました。
10年以上経って、実態に合わせた形で社名を改めたものです。
加越能鉄道は路面電車以外でも、ちょうど40年前まで非電化のローカル線を運営していました。
バスそのものは、路面電車を保有していた頃から既に「加越能バス」表記でしたから、見た目は変わっていないと思われます。
バス会社の中には、かつて鉄道(軌道)会社で、廃止と共にバス専業となった会社が(残念ながら)少なくありません。
それらの会社が鉄道廃止後、社名をどうするかは様々です。
単純に○○鉄道→○○バス(あるいは○○自動車・交通)とした、今回の加越能バスのような(南部鉄道→南部バス・頸城鉄道→頸城自動車・北恵那鉄道→北恵那交通)もあります。
少しひねって、壮大な志が社名に反映していた鉄道時代から、現実に即した社名としたケース(熊延鉄道→熊本バス)、社名は大きく変わったけれど、ある程度鉄道営業時代を反映したケース(定山渓鉄道→じょうてつ・山陽電気軌道→サンデン交通)もあります。
全く変えてしまった、尾小屋鉄道→小松バスという例もあります。
「尾小屋」なんて、地元の人と古い鉄道ファンしか解らないような地名ですからねぇ。
元々鉄道もバスも包括する「○○交通」と称していたから、鉄道を廃止しても名前を変える必要がなかった、という所もあります。
(庄内交通・淡路交通・鹿児島交通など)
その一方で、鉄道を廃止した後も「○○鉄道」「○○電鉄」「○○軌道」と称し続けるバス専門の事業者が多いのは意外です。
中には鉄道廃止から50年以上経つのに社名を変えない事業者もあり、世の中の変化がどんどん加速していく最中でも、鉄道が地域のシンボルとして忘れられてはいない事を示してくれているのかなあと感じます。
未だに鉄道時代の名残りを社名に残すバス会社の画像を並べて見ました。
(古いの新しいのゴチャ混ぜになっています。また、鉄道健在時代の撮影もあります)
士別軌道
名寄本線の士別から東に延びていた軌道路線で、主に森林輸送に携わってきましたが、トラック輸送に切り替わった事で、1958(S33)年に廃線となりました。
旅客輸送はその3年前、既にバスになっていました。
現在の士別軌道のバスは士別駅を中心に市内線及び郊外線を運行していますが、郊外線はデマンドが大半となり、土休日運休・登校日のみ運行の路線も多くなっています。
現在の路線バスは白をベースに青・緑・オレンジのラインが入ったデザインとなっていて、北海道らしい風光明媚な所を走る所もあるようです。
モノコックの路線車が予備車として現役だそう。
旭川電気軌道
旭川四条を起点に、東川線と東旭川線の2路線を運行していました。
東旭川線の終点は旭山公園で、今生き残っていれば、旭山動物園へのアクセスとしても注目されたかもしれません。
1972(S47)年一杯で廃止になり、バス専業となりました。
このバス事業も、別に旭川市内で路面電車を運行していた旭川市街軌道からバス専業となった旭川バスの事業を譲り受けていたものです。
現在は旭川市内バスを中心に、旭川空港への空港アクセスバスや、旭岳への登山バスも運行し、低床車の導入も積極的です。
一時は連接バスを運行した事もありました。
夕張鉄道
炭鉱鉄道として有名だった鉄道で、夕張市の夕張本町を起点に、室蘭本線の栗山を経由して、函館本線の野幌まで路線がありました。
旅客輸送でも最盛期には、全区間を1時間弱で結ぶ急行の設定もありました。
しかし石炭産業の斜陽化もあって、順次路線の縮小が行われ、1974(S49)年には旅客営業が廃止、翌年には全線廃止となりました。
旅客用のDCは一部が本州に移籍し、岩手開発鉄道や関東鉄道鉾田線(→鹿島鉄道)で活躍しました。
現在のバスは夕張と江別にエリアが大きく分けられ、特に江別エリアは札幌市内の新札幌駅にも乗り入れ、市営地下鉄との乗り継ぎ割引運賃制度もあります。
また、新札幌駅~夕張間の急行バスが運行されている他、野幌から札幌・大通への路線もあります。
十和田観光電鉄
最新のケースで、十和田市~三沢間のローカル線を、今年の3月一杯まで運行していました。
今の所、社名を変更する動きはないようです。
十和田市・三沢を中心とする一般路線バス網を持ち、十和田市・八戸~東京線<シリウス>など高速バスも運行していますが、バス事業もジリ貧なのが心配な所。
日立電鉄交通サービス
日立電鉄は太平洋側の鮎川と、内陸部の常北太田を結ぶ路線で、途中の大甕でJR常磐線と接続していました。
常北電気鉄道として設立され、太平洋戦争の最中に日立製作所の傘下に入って社名を変更。
通勤・通学輸送が主力で日中は大きく輸送量が落ちる事から、かなり早くからワンマン運転を行っていました。
多種多彩な小型電車が魅力でしたが、末期には旧営団地下鉄銀座線の中古車両を導入していました。
安全対策への投資が十分出来なくなったとの理由で、2005(H17)年3月一杯で廃線となっています。
バス事業の経緯は少々複雑で、1999(H11)年には既に日立電鉄からバス部門を分社して日立電鉄バスを設立。
直後に、地域分社の日立中央バス・でんてつオーシャンバスを統合。
そして2005(H17)年に日立電鉄観光・日立電鉄サービスを統合して現社名になっています。
なお、日立電鉄はその後も持ち株及び精算会社として、2009(H21)年まで存続していました。
鉄道廃線後の再編成でも「電鉄」の2文字が残されたのは、その辺が影響していたのでしょうか。
九十九里鐵道
東金~上総片貝間で運行されていた軽便鉄道ですが、1961(S36)年には廃止になっていました。
以降バス専業となり、鉄道廃止から50年以上経った今も同じ社名で東金駅を中心にした路線バス、高速道路経由の千葉行急行バス、そして貸切バスを営業しています。
小湊鐵道の関連会社で、カラーが全く同じです。
蒲原鉄道
信越本線の加茂と、磐越西線の五泉を結んでいたローカル電鉄線で、通勤・通学の他、冬期はスキー輸送でも活躍していました。
しかし加茂~村松間は1985(S60)年に廃止になり、残存の村松~五泉間のわずか4.2㎞が、磐越西線とのアクセス輸送に特化して運営されてきました。
鉄道については№77で書いていますからそちらも見て下さい。
結局新世紀を見る事無く、1999(H11)年9月に廃止となりました。
バスですが、かつては自社鉄道路線沿線に、割と密な路線網を築いていたのですが、平成に入ってからことごとく廃止。
残存路線は蒲鉄小型バスに移管されて運営が続けられていたのですが、2010(H22)年9月一杯を持って完全に廃止、会社自体も清算されたようです。
(「路線が残っている内に再訪したい」と書きましたが、果たせずに終わりました)
現在蒲原鉄道が運行しているバスは、村松~新潟間のローカル高速バス(新潟交通と共同運行)と、五泉市から受託されているコミュニティバスのみです。
東濃鉄道
中央西線から延びる支線的な2路線(駄知線・土岐市~東駄知間、笠原線・多治見~笠原間)を運営していましたが、駄知線が1974(S49)年、笠原線も1978(S53)年に廃線となりました。
バス事業は多治見を中心に、岐阜県西南部に路線網があり、名鉄八百津線の代替バス路線「YAOバス」も運行しています。
また名古屋へのローカル高速に加え、東京・新宿への長距離高速バスへの参入も果たしました。
名鉄グループです。
有田鉄道
紀勢本線の藤並から金屋口までの小規模なローカル鉄道でした。
元々はミカン輸送のために作られた鉄道で、湯浅まで到達したのは紀勢本線より早く、その経緯もあって一部列車が湯浅まで直通運転を行っていた事もありました。
しかし2002(H14)年廃止の時点では、レールバスが1日2往復、土休日運休という、鉄道としての最低レベルにまで落ち込んでいました。
この辺も№82で書いています。
バス事業は当時からダイヤ面でも鉄道を補完する形で運行されていて、JTB時刻表でも同じ時刻表上に時刻が記載されていました。
現在は5路線を運行、和歌山市(平日のみ)や高野山(一の橋)にも乗り入れがあります。
また貸切バスに力を入れていて、和歌山市内にも営業所があります。
下津井電鉄
日本最後の軽便鉄道専門の鉄道会社でした。
1914(T3)年に下津井軽便鉄道として開業、元々は国鉄宇野線の茶屋町と下津井を結ぶ路線でしたが、先に茶屋町~児島間が1972(S47)年に廃線となって、残存区間は他の鉄道とつながらない、孤立した路線となりました。
1988(S63)年開通の瀬戸大橋線が児島を経由するため、観光電車「メリーベル」を導入するなど、息を吹き返すかと思われましたが、結局観光の需要は生まれず、むしろバス事業が打撃を被った事で鉄道が維持できなくなり、1990(H2)年一杯で廃線になってしまいました。
比較的最近まで走っていたのにも関わらず乗った事がなく終わったのは、個人的に後悔の一つです。
バス事業は引き続き児島を中心に岡山・倉敷方面に路線網を伸ばし、瀬戸大橋を経由して香川県の与島へ向かう路線は、与島で琴参バスに接続、乗り継いで坂出まで行けるダイヤになっています。
また、東京行〈ルミナス〉など本州・四国・九州各地への高速バスを運行しています。
昨年、会社設立100周年を迎えました。
井笠鉄道
岡山県の山陽本線笠岡駅を起点にして北へ向かい、井原との間を結ぶ非電化ローカル鉄道で、井原からはさらに神辺に向かう神辺線と、本線の北川で分岐し、矢掛に向かう支線がありました。
1971(S46)年までには全線廃線になっています。
矢掛~井原~神辺間の廃線跡は、1999(H11)年開業の井原鉄道に大半が転用されています。
本社は岡山県ですが、バス路線は広島県福山市にかけて路線網があります。
また広島市・大阪への高速バスを運行しています。
鞆鉄道
福山から鞆の浦に南下する軽便鉄道でした。
風光明媚な車窓が楽しめたようですが、太平洋戦争終戦直後の1954(S29)年には廃止になりました。
バスは福山市を中心に瀬戸内海沿岸部に路線網を持ち、一部は尾道・三原市にまで通じています。
また広島市と今治への高速バス、広島空港行のリムジンバスを運行しています。
一般路線バスは、広島県の交通ICカード「PASPY」を導入。
福山~鞆の浦間ではボンネットバスを復刻し、春・秋の土休日に運行しています。
以上、鉄道については
「鉄道廃線跡を歩く」「ローカル私鉄車輌20年」「私鉄気動車30年」(JTBパブリッシング)
「日本鉄道旅行地図帳」(新潮社)
を参考にさせて頂きました。
しかし、乗った事も、見た事さえなく終わった鉄道 … 何しろ私が生まれる前に消えた鉄道も … あるので、かなり不正確な部分があったはずですが、その辺はご了承下さい。
大惨事でさえ一つ間違うと風化してしまう昨今、ローカル鉄道路線の存在なぞ、よほど熱心な鉄道ファンでもなければ、案外簡単に忘れられてしまうかも知れません。
今回取り上げたバス会社の一部では、過去の鉄道事業についてある程度詳しく記している所もありますが、会社概要の年表に数行記して終わり、という所もありました。
廃線から半世紀以上たってなお、社名に名残りを残すバス会社があるのは奇跡ともいえますが、今後も、鉄道があった事が風化しないような取り組みがバス会社にも、私達にも必要なのだと思います。
申し訳ありませんが、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。
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《今日見た・聞いた・思った事》
アメリカン航空(AA)の国内線で、飛行中に座席が1列丸まる外れてしまうというアクシデントが続発しているのだそうです。
何と1週間も経たない内に3度も起きていて、緊急着陸という事態になっています。
皆B757で起きているそうで(№807で写真を出しました)、「整備ミス」で片付けるにはあまりにも不自然、地元メディアでは整備員が故意にやったという疑惑も浮上しています。
もちろん会社は否定していますし、自分の会社に故意に損害を与えるような者がいるとは考えたくはありません。
(後考えられると思うのは、整備マニュアルの不備、とか)
しかし理由が何であれ、このような事態が短期間に繰り返されたとなれば、AA自体への信用に関わる重大な危機です。
AAは先頃「チャプター11」を申請、会社再建に向けて労使交渉も行われていますが、これを見た限り、AAを巡る状況はこちらで思っている以上に深刻なのかも知れない。
AAそのものに限らず、共同事業を行っているJALや、さらには「one world」にもストレートに関わってくる事なので、今後のAAの成り行きはかなり注意深く見ていく必要があります。
《今日のニュースから》
北九州市「市民防犯大会」 市長「市民の安全を損なう危機的状況」と発言