№542 Forever JAL's A300-600R 3

 まずお詫びがあります。
 この記事は本来、昨晩の内に公開するはずでしたが、サーバーとの接続がうまくいかなかったため、一晩間を置いてこの時間の更新とさせていただきました。
 また、誤って最終回の記事を公開してしまい、本当は直ちに削除したかったのですが、こちらもサーバーと接続できなかったため、今朝削除させていただきました。
(書きかけだったでしょ?)
 明日の夕方、再度公開の予定です。ご了承下さい。

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 さて、2010年1月19日の会社再生手続き申請は、JALにおけるA300-600Rの運命を大きく狂わせる事になってしまいました。
 なんと、B747-400と共に、2010年度を持って22機が全て、JALから姿を消す事になったのです。
 会社の内で外で、喧々囂々再建に向けた議論が行なわれる中、A300-600Rは1機、また1機と力尽きつつも、何とかJALのネットワークを支え、懸命に飛び続けていました。
 今回はそんな2010~2011年のA300-600Rについて書きます。
 なお、大半の画像は、以前当ブログの別の記事で掲載したものになります。

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 あいにく雨模様の羽田空港。
 キャビンも冴えない空気を反映してか、あまり搭乗率は良くなかった。
 そんな中でもCAの方々は笑顔を振りまいてサービスに当たってくれたし、出発前には電子機器に関するこちらの質問にも、丁寧に答えてくれた。
 どんな雨でも、グランドスタッフの見送りのシーンも変わらない。
 後方に見えるのはJ-AIRのE170。
 羽田空港には今月になって姿を現したばかり。
 JALグループのダウンサイジング政策の申し子だ。


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 秋田線に乗るのは、初めてだった。
 着陸直前、左手に鳥海山を見る。
 といっても悪天だったからほとんど雲の下に隠れてしまっているのが残念でならないのだが。
 機体はこの後一旦日本海上空に抜けて、空港にアプローチする。


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 初めての秋田空港。
 背後の山々は太平山地。
 つくづく悪天が残念。


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 秋田に降り立った後、秋田~岩手~青森県と鉄道・バスを訪ね歩き、 … もちろん、翌年あんな悲劇が起こるなんて考えもしなかった … 帰りは青森空港から。
 4月8日の1208便。
 お馴染みになった夕方の便だが、たぶん青森線でA300-600Rを利用するのは最後だろう、とこの時点では思っていた。
 JAL自身の経営問題がなくても、この年の暮れに東北新幹線が新青森まで全通する事が決まっていたから、少なくともワイドボディ機の出番はなくなるだろう、と思っていたし…。
 雪なお残る4月の青森。


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 4月ともなれば、東北も陽が長くなる。
 夕陽が太平洋の向こうに消えていった。 


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 時々機内でキャンディの詰め合わせを頂く事があるのだが、ある時頂いたキャンディの袋には、A300-600Rのデフォルメのイラストのステッカーが貼られていた。
 これもPCで作ったのだろうか。
 JALになっても遊び心は消えていないものだ。


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 10月4日、松山行1461便に搭乗。
 これが、自分ではA300-600Rとの「お別れフライト」のつもりだった。
 着後、タクシーを駆って、ターミナルの反対側に位置する「空港南第2公園」に急ぐ。
 柵が小さいから(その代わり幅を広く取っている)見晴は抜群で、脚立も必要ないほどだ。


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 松山空港では、基本的に海側のR/W14に着陸し、逆にR/W32から海を目指すように離陸する。
 ノースギアが浮いて、上昇開始だ。
 右手に見える山は興居島の小富士。


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 2011年、最後の年を越したA300-600RとB747-400Dが羽田空港に並ぶ。
 真冬の張り詰めた冷たい空気の中、前年オープンした国際線新ターミナルの向こう、富士山が美しい。
 冬になれば、いつまでも見られる光景だと思っていたのに…。


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 MD-90-30は1990年代後半にJASに導入された小型ジェット機で、就航当時は黒澤明デザインの7種類のデザインをまとい、「クロサワレインボー」と呼ばれていた。
 MD-90-30もこの後JALから姿を消す事が予想されている。
 A300-600Rに次ぐ退役は、JALからJASの名残が、ほとんど消えてしまう事を意味しているのだ。


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 2010年10月にオープンした羽田空港の国際線新ターミナルは、色々な意味で話題になった。
 深夜~早朝深夜帯は長距離便の発着もあるが、日中は従来どおり、アジアへの近距離路線が発着する。
 A300-600Rも近距離国際線に使われた事があるのだから、ひょっとしたらこのターミナルに発着する機会も与えられたかも知れない。


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 墨田区に建造中の東京スカイツリー。
 オープンはまだ先というのに、早くも大人気だ。
 残念ながら、オープンよりも前にA300-600Rは退役してしまう。


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 JAL&JAS統合の象徴として、鶴丸と決別して採用された「Arc of the Sun」だったが、結果的に負のイメージしか与えられなかった。
「A」の文字はともかく、遠くから見てもJALだ!とはっきり解かる赤い尾翼は、これはこれで印象的だったのだが…。
 経営再建の象徴として鶴丸の復活が決まったが、A300-600Rがまとう事はない。


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 JALの代名詞でもあったB747のフィーバー振りと比較して、結局は「外様」だったからだろうか、A300-600Rの退役は比較的静かなものになろうとしていた。
 それでも当初の退役予定の3月になって、記念のクリアファイルセットが発売になった。
 2枚入っていて、ステッカーとポストカードが封入されたお徳用。
 JAS時代のレインボーカラーの写真も対等に収められているのも好感が持てた。


 B747-400退役フィーバーの約3週間後、A300-600Rは3月26日の鹿児島発東京(羽田)行1878便を持って、地味目にJALから姿を消す … はずでした。
 ところがその約2週間前、思いもよらぬ事態が起きます。
 3月11日に発生した東日本大震災は、今更語るまでもない壊滅的な被害を、特に東北地方の太平洋沿岸にもたらす事になりました。
 航空業界でも影響が大きく、仙台空港が大津波に襲われて使用不能となり、近隣の空港に臨時便が多数設定される事になります。
 また東北新幹線も長期に渡って不通となり、代替の足として航空便、特に東京-青森線の機材の大型化で対応される事になります。
 ここで抜擢されたのがA300-600Rでした。
 青森発着便からは2月一杯で撤退していたA300-600Rでしたが、大震災発生以降から3月一杯は全便がA300で運航、本来の退役予定を過ぎた4月以降も日に2~3便はA300による運航となって、輸送力の増強に貢献しました。
 結局A300-600Rは5月一杯まで退役が延期になり、青森線の他秋田線や大阪(伊丹)線、福岡線での就航が続く事になります。
 最終回の次回は、前にも書きましたが、4月30日の東京-青森線のフライトについて書きたいと思います。

 申し訳ありませんが、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
 また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。

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《今日のニュースから》
パレスチナ暫定自治政府アッバス議長 国連への加盟を正式表明

№541 Forever JAL's A300-600R 2

 10年前の9月11日に発生した「同時多発テロ」は、旅客機がテロに利用された事もあって、世界の航空業界全体に大きな衝撃を与えました。
 当然日本も例外ではなく、これを見据えてJALはこの直後、JASと経営統合する事をいち早く発表しました。
 そして2004年4月1日、JASはJALと経営統合(正確には持ち株会社の元、「日本航空ジャパン」と改称)し、16年の歴史に幕を閉じる事になりました。
 JASの各機も、近い将来の退役が予想されていたA300B2/B4を除き、順次JALの新カラー「Arc of the Sun」に衣替えして行く事になります。
 第2回はJAL時代のA300-600Rの活躍について書きます。

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「Arc of the Sun」カラーへの塗り替えは、経営統合より前から順次進められていた。
 JASのA300-600Rは1994年9月の関西空港開港時より国際線にも就航していて、JALカラーに塗り替えられた後も、経営統合まではJAS国際線として運用されていた。
 その機材には、小さくだがJASのマークが書き込まれていた。
 統合後のA300-600Rは国内線に専用される事とされたため、成田空港でJALカラーの同型機が見られたのは、ごくわずかな期間だった。


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 2003年、読売ジャイアンツの不動の4番、松井秀喜がメジャーへ、しかも名門ニューヨーク・ヤンキースへ移籍した事は、スポーツ界のみならず、社会全体にも大きな衝撃を与えた。
 スポンサードしたJALは、B747-400Dと共に、経営統合を控えたJASのA300-600R各1機に、大きな松井選手の顔写真を描いた「松井ジェット」を就航させた。
 自社のB767等ではなくA300を起用した事は、実質「合併」で名前を消す事になるJASへの配慮ではなかったかと思うのだが。
 松井の顔は、B747とは異なっていた。
 JAL時代のA300-600Rにおいて、スペシャルマーキングはこの機体だけ。


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 またまた青森空港。
 ただしこの時は雨模様で、八甲田などの風景は空港からもほとんど見られなかった。


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 どんな機材であっても、旅客機はいつの時代も子供たちの憧れだ。

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 日本においてJAS~JAL以外にA300-600を就航させた航空会社がもう1社あった。
 佐川急便が設立した貨物専用航空会社「ギャラクシー・エアラインズ」で、2006年10月に就航、後に2機体制として、深夜便で羽田・関空~那覇・北九州・新千歳を結んでいた。
 しかし終始業績は良くなく、2年足らずで運行停止→会社清算に追い込まれる事になる。
 これは2006年7月14日、女満別行1183便から、就航開始前の同機を羽田空港離陸前に撮ったものだ。


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 その1183便が女満別空港に着陸する直前の様子。
 曇り空は残念だったが、北海道らしいおおらかな風景が広がる。


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 2004年6月、JALは新たなサービス「クラスJ」をスタートさせた。
 追加料金1000円でよりゆったりした座席に座れるというもので、「レインボーセブン」の「レインボーシート」をケーススタディとしている。
 好評を持って迎えられ、すぐに増席もなされたヒット商品となり、高速バスにも影響を与えた。
 A300-600Rについても、スーパーシートは全てクラスJの座席に転換された。
 2006年12月15日の長崎線1847便。


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 クラスJでは、スーパーシート時代のような食事はなくなったが、茶菓子のサービスがある他、ドリンクサービスは普通席よりメニューを多くし、「この便のおすすめ」ドリンクというのもあった。

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 ところでこの日、西武ライオンズの松坂大輔がポスティングでメジャーのボストン・レッドソックスに移籍する事が発表になっていて、機内で放映されていた朝のNHKニュースは、入団発表記者会見の「生中継」だった。

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 長崎着後、約2時間の間を取って羽田に帰って行った。

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 2007年6月17日の青森線1208便。
 JALになってから青森発便を利用したのは3度目だが、初めて晴れた。
 相変わらず八甲田の山々が雄大だ。
 両親が共に青森県出身だからか、青森の風景を見ると、何だか血が騒ぐ気がする。
 といっても生まれも育ちも終始横浜だから、津軽弁は全く理解できないのだが。


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 その八甲田を右に見ながら、R/W24に向かってタキシングして行く。
 ここだけ切り取ると、空港という感じがあまりしない。
 もう17時を過ぎているが、夏至目前の東北は日が長く、存分に明るい。


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 羽田が近付き、お台場を掠めるようにR/W16Lに進入して行く。
 青森~羽田わずか1時間強とは、さすがに早い。


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 経営統合から3年以上たち、羽田空港でも周りの機材はほとんどが「Arc of the Sun」カラーになっていた。
 90年代の「鶴丸」はB767が1機見られたのみ。
 まさか4年後、さらにこの光景が一変する事になろうとは、到底考えもつかなかったのだが。


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 2009年5月14日、広島空港R/W28への着陸。
 折返し1612便になる。


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 グランドスタッフが手を振って見送ってくれる、いつもの日本の空港の情景。

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 今の広島空港は1993年10月に移転してきた。
 地方空港にしては市中心部から遠く、リムジンバスでも50分位かかる(最近は少し短縮されたが)。
 東広島市の山間部に位置する空港だ。


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 広島からわずか1時間強のフライトで、もう羽田。
 R/W34Lへのアプローチでは、着地直前左手にピラミッド状の建造物が見られる。
 アクアラインの換気塔なのだそうだ。


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 左手には新国際線ターミナルビルを建造中。
 羽田の拡張は、止む事を知らない。


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 1993年「ビッグバード」オープンと同時に供用を開始した管制塔は、そのユニークな外観から、羽田空港の沖合い展開のシンボルとして親しまれてきた。
 今はメインの役割は新管制塔に引き継がれているが、バックアップ用として残されている。
 ちょうどA300-600Rが出発しようとしている所。


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 別に狙っていたつもりはないが、2009年以降はA300-600Rへの搭乗の機会が増えた気がする。
 広島から帰ってから2ヵ月後、今度は旭川へ向けて飛ぶ。
 ダウンサイジングが断行された今のJALにおいても、旭川線はシーズン中にはB767が就航したりする。
 旭川市自体が札幌に次ぐ道内第2位の都市である事、何より旭山動物園の存在があるだろう。
 この2009年7月6日の1103便も、観光客で盛況だった。
 急ピッチで工事が進むD滑走路を眼下に見て、R/W16Lをテイクオフ。


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 いつも明るい笑顔を振りまいてくれる、CAのドリンクサービス。
 ご苦労様です。
 モニターのNHKニュースはちょうどスポーツニュースだろうか。


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 旭川空港に降り立つのは、この日が初めてだった。
 新千歳や女満別もそうだけれど、やはり北海道の空港は本州とは一味もふた味も趣きが異なる。
 左手の町は美瑛だろうか。


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 スカイマークのB737-800、エア・ドゥのB767-300ER、そしてJALのA300-600R。
 羽田-旭川線を運航する3社の揃い踏みだ。


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 JAL時代のポストカード。
 まごう事なきJALの一員であると示してくれる、力強いデザイン。


 さて、この2009年になってJALの経営問題が一気に表面化、政治の世界も世論も巻き込んで、連日大きな騒ぎになりました。
 翌2010年1月19日、JALは経営が破綻して会社更生手続きを申請。
 新経営陣を迎え、運航を継続しながら何とか再生の道を探る事になりますが、この事はA300-600Rの運命を大きく変えてしまう事になります。
 なんと2010年度を持って、B747-400と共に、一気に全機退役する事が決まってしまったのです。
 この問題がなくても、キャパシティ的にB767-300とバッティングしているので、いずれはどちらかには統一しなければならない、ならばこの機会に、という事もあったでしょう。
 しかしそれにしても、この時点ではまだ22機全てが健在でしたから、「いくらなんでもウソだろ?」と思われた向きも少なくなかったはずです。
 しかしわずか1年強で、A300-600R全機退役が断行される事になるのです。
 次回は退役が決定した、2010年度の同型について書きます。

 申し訳ありませんが、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
 また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。

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《今日見た・聞いた・思った事》
 小樽の海岸で発見された遺体は、自殺をほのめかして行方不明になっていたJR北海道の社長だったと確認されたそうです。
 JR北海道では5月に石勝線で<スーパーとかち>が火災事故を起こすなど事故や不祥事が相次ぎ、国土交通省から改善命令を受けていました。
 もちろんその事自体は真摯に受け止め、再発防止・安全運行確保に全力を挙げるべきです。
 しかし、幸いに犠牲者は出していないし、他の交通の大惨事等における対応と比較しても、社長自ら命を絶つとは、どうした事でしょう?
 いくらなんでもそこまでの事ではないと思うのですが、何か他にも理由があったのでしょうか?

《今日のニュースから》
日本テニス 27年振りワールドグループ復帰を決定

№540 Forever JAL&#39;s A300-600R 1

 長らくお待たせしました?が、今回から4回に分けて、今年の5月一杯を持って退役した、JALのA300-600Rについて、個人的な思い出を交えて書きたいと思います。
 退役から3ヶ月以上も経ってしまって、少々タイミングが悪くなってしまったかもしれませんが…。
 JAS時代には国際線(中国・韓国線)にも就航した事もありましたが、残念ながら国際線では搭乗した事はありませんでした。
 その代わり北海道から沖縄まで、日本各地に就航していた国内線の機材には何度も乗りました。
 ですから今回の特集は、私的な旅の思い出のアルバムといった感じになっているかも知れません。
 なお、一部別の記事で公開済みの画像もあります。

 A300-600Rはエアバスが開発したワイドボディ旅客機で、エアバス初の旅客機として開発されたA300B4に後発のA310のコクピットを組み合わせてハイテク化(2人乗務)したタイプです。
 主に中短距離路線で活躍し、国際線でも多数使用されました。
 日本では日本エアシステム(JAS)が1991年7月に導入し、後のB777-200導入まで同社の顔として活躍、国際線でも運用されました。
 JASでは初のハイテク機でもあり、サービス面でも初めてキャビンにTVモニターを装備、後にはスーパーシートを設定した事で、ソフト・ハードの両面でグレードアップが図られています。
 全22機が導入され、2004年4月のJAL・JAS統合後もJAL国内線で運用されてきましたが、経営再建の一環として、2010~2011年にかけて、B747-400と共に一気に全機が退役に追い込まれる事となりました。
 1994年4月のチャイナ・エアラインの名古屋空港墜落事故に代表されるように、比較的事故率が高い機種だったともされますが、JAS~JALに於いては20年の間、無事故輸送を完遂しました。
 まず第1回はJAS時代の画像をご覧いただきます。

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 1998年2月24日の青森空港。
 JASのA300-600Rは1991年7月20日、東京(羽田)~青森線でデビュー。
 以来20年の間、色は変われど、ブランクはあれど、終始青森の顔として君臨する事になる。


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 JAS~JALのA300-600Rは、カラーバリエーションは比較的少なく、JAS時代においてはこの「ポカリスエット」号が唯一だった。
 大塚製薬がスポンサーとなったCM機。
 後にスカイマークやエア・ドゥが胴体に広告を書いた機体を就航させたが、日本におけるCM機の草分けは、この機体だった。
 これは1998年10月28日、沖縄・那覇空港の旧ターミナルの展望デッキから撮影したもの。
 コバルトブルーの海をバックに撮れて、非常にラッキー。


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 青森→東京(羽田)線は、合計で6回も乗った。
 これは、一番最初の時で、羽田からの便が着陸する所。
 この便の折返しに搭乗した。
 A300-600Rの初搭乗でもあった。


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 青森空港は、背後に八甲田の山々がそびえる、自然豊かな空港だ。

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 座席の柄は、かなりカラフルなA300B2/B4とは対照的に落ち着いたものとなった。
 A300B2/B4も、後にはこの柄になった機材が多い。
 頭部のカバーの「パールトーン」とは、京都に本社がある撥水加工会社で、JASの全機のカバーにロゴが書き込まれていた。
「JAS=パールトーン」と連想される方も多いのではないだろうか。


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 機内で特別に頂いた、パイロットが作成したというステッカー。

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 再び青森空港。
 1998年2月24日の216便で、真冬の青森は雪景色の八甲田が美しい。


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 空港のターミナルから。
 後方の滑走路を、MD-81が離陸して行く。
 A300-600RとMD-81、この両機種が、特に1990年代前半のJASを強力に支えていた。


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 A300-600Rはハイテク機だから2メンクルー、なのだが、この便ではコクピットにもう一人パイロットの姿があった。
 査察か訓練だったのだろうか。


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 R/W06からの離陸だと大きく左旋回した後、今飛び立ったばかりの空港の上空を横切って行く。
 この後左手には十和田湖・田沢湖が現れ、東北の景色を存分に楽しむ事ができた。


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 一転して今度は九州。
 1999年4月8日のJAS353便。
 熊本空港に近付くと、右手には九重の山々を見る。
 機体はこの後一旦熊本市街の上空に抜け、Uターンする形で最終着陸態勢に入る。


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 折返し便が熊本空港を離陸して行く。
 ちょうど桜のシーズンだった。
 この日の熊本は快晴だった。


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 2日後の熊本は、一転して雨模様。
 熊本空港は1995年に「CAT-Ⅲ」をいち早く導入、悪天候時の離着陸の安全性が飛躍的に向上した。


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 手前にはJAL、離陸して行くのはANAの、B767-300。
 大手3社の中型ワイドボディ機が揃い踏み。


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 10000mの上空はいつも快晴。
 A300-600Rのアイディンテティであるウイングチップが夕陽に照らされる。


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 ステッカーもう1種類。
 パソコンから作ったと聞かされて、うわぁー凄いなーと思ったものだ。
 私はまだPCを持っていなかったから…。
 JASのA300-600Rのパイロットには、青森の下北交通で使われていたキハ22型の動態保存活動に携わっている方々が多いと聞く。
 乗り物趣味に理解のある方が多かったのだろう。


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 機内で手に入れる事ができた、ポストカード。

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 ポストカードは2種類あって、もう1種類はコクピット。

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 1997年に導入したB777-200「レインボーセブン」には、スーパーシートとレインボーシートが設定されて、JAS国内線史上初めて複数クラス化された。
 これに合わせ、比較的幹線区にも就航する事が多かったA300-600Rにも新たにスーパーシートが設けられる事になった。
 機内サービス面においても、いよいよJAL・ANAと肩を並べる所にまで来た事を印象付けた。
 2001年5月23日の宮崎線283便。


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 この便では東亜国内航空(TDA)創立30周年記念とかで、機内食は寿司か洋菓子のどちらかを選択できた。
 お昼時だったので、押し寿司を選択し、日本茶と共に頂く。
 その後はスーパーシートサービス(特に機内食)についてのアンケートへの協力を求められ、いかにJASが力を入れていたのかがうかがい知れた。


 TDAがJASと社名を変えたのが1988年4月1日。
 その16年後、JASはJALと経営統合し、レインボーカラーと共にその名を消す事になりました。
 次回は、JAL時代のA300-600Rについて書きます。

 申し訳ありませんが、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
 また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。

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《今日見た・聞いた・思った事》
 いつからかは解かりませんが、東急東横線の5050系4000番台が営業運行を開始していました。
 当然10連では走れず、4601・4701の2両を抜いた8連で運行されています。
 外観は在来の5050系と変わりませんが、まだ地下鉄直通ではないのに、正面の運行番号に「K」(ちなみに昨日は18K)が入っていました。

 今日は東京では東京都交通局の「バスの日イベント2011」、横浜では「バス利用感謝デー」のイベントが行なわれているのですが、勤務の都合で疲れているのと、天候がイマイチなので、多少心残りですが両方とも参加を見送る事としました。
 横浜の方は、東急バスの虹が丘→渋谷駅で11月からの運行を予定している通勤高速バス(「リムジン」ベースの緑系。「バスラマインターナショナル127」で書かれていた「緑系のワン・ロマ」とはこの事だったのか)も展示されていたそうです。

 また台風の影響で紀伊半島は大雨の危険があるそうです。
 充分ご注意下さい。
 いい加減にして欲しいなあ…。

《今日のニュースから》
アメリカ・ネバダ州航空ショー 小型機墜落で死傷者多数発生