JALのB747-400も、いよいよ最後の時が近づいてきました。
定期便としては、3月1日のホノルル線(前日出発)と沖縄線が13時過ぎに相次いで成田空港に到着すると、全てのフライトが終わる事になります。
多分空港も、マスコミも大フィーバーになるんだろうなあ。現金なものだけど。
私は終日仕事なので、垣間見る事は出来ないのですが。
「Forever JAL's B747-400」も最終回です。
退役の運命を決定付けられた、B747-400の最後の姿をご覧頂こうと思います。
400Dは一時期、中部空港(セントレア)~沖縄線に就航していた事があった。
400型はホノルル線や成田線で見られたが、400D型は羽田路線以外の国内線に就航する事は少なかったから、地元ファンの注目は高かった。
再国際化に向けて建設中の、羽田空港新国際線ターミナル。
手前の400型は、ソウル(金浦)行のチャーター路線だ。
だが、新ターミナルのボーディングブリッジにJALのB747が繋がる事は、少なくとも定期便ではもうない。
この便も、撮影の直後にB777-200ERにダウンサイジングされてしまった。
400D型も、夏以降急激に数を減らしていった。
それにしても長い間(といっても20年足らず)も通っていると、同じ場所からの撮影でも、背景の急激な変化には驚かされる。
フレイターのハイテク化は、3号機以降は旅客型の改造によるBCFで行われる事になった。
一見旅客機と同様だが、窓がないのでのっぺりして見える。
経営の悪化はBCFの運命を大きく狂わせる。
中にはせっかく改造されながら、JALでの営業運行には就かずに日本を離れた機体もあった。
そして、JALはフレイターによる貨物事業自体を廃止。
2010年秋、旅客型に先駆けて日本から姿を消していった。
成田空港B滑走路に着陸した、400F。
B滑走路は2009年秋に延長され、大型機が離着陸できるようになった。
本来は2010年春からの予定だった所、フェデックス機の事故でA滑走路が閉鎖され、多数の便が他の空港へのダイバートを余儀なくされた事態が起きた事で、前倒しで工事が行われたものだ。
B滑走路と400Fの取り合わせは、短期間で終わってしまった。
同じくB滑走路に着陸、ターミナルに向かう400。
多分ホノルルからだろう。
国際線では最後の400型就航路線だ。
成田空港付近は自然が豊かなはずだが、フェンスがどうにも目障りだなあ。
JALからは姿を消すB747だが、海外他社ではまだまだ盛業だ。
後に見えるのは、カンタスのB747-400。
カンタスはA380も就航させたが(昨年は大変だったけど)、B747もまだまだ活躍が続きそうだ。
多分、ミラノ行。
欧州線はロンドンやパリ、フランクフルト線は比較的早くにB777-300ERに置き換えられていたが、他のアムステルダムやローマ、ミラノ路線では引き続きB747が使用されていた。
しかしこれらの路線はサンパウロ線などと共に2010年9月一杯で廃止、B747も運命を共にしていった。
賛否両論あった(どちらかといえば否定的な意見が多かったか…)「太陽のアーク」の尾翼だが、青空にはよくマッチしていたと思う。
空高く飛ぶ機体をみても、尾翼を見て「あっ、JALだ」とすぐにわかったものなあ。
B滑走路は長距離路線には短いので、離陸にはA滑走路を使う。
後姿、どこか寂しく見えるのは気のせいだろうか…。
どうか最後まで精一杯飛び続ける事を祈ろう。
B747-400では最後のポストカード。
最後に個人的なデータをいくつか。
JALのB747-400シリーズには、1995年5月27日~2007年11月19日の間で、合計30回搭乗。
全搭乗マイル(TPMベース)を合計すると、106688マイルでした。
これは、地球を約4.2周した事になります。
最長は2000年6月5日のロンドン(ヒースロー)発東京(成田)行402便で、6220マイル。
最短は合計5回利用した、東京(羽田)~大阪(伊丹及び関西)路線で、278マイルでした。
また、JALのB747-400シリーズの旅客型は42機導入されましたが、この内JA8921号機には最多の3回の搭乗がありました。
2000年12月登録ですから10年未満しか就航しなかったのですが、意外なものです。
(2003年1月のパリ往復が同じ機材だった事もあります)
「JAL経営悪化の元凶」の(理不尽ともいえる)烙印を押されたB747-400は、その流れに逆らう事が出来ず、いよいよあと2日で私たちの前から姿を消そうとしています。
個人的には、「クラスJ」に搭乗する機会がなかった事、何より「one world」(JA8913)を撮れずじまいに終わった事がなんとも残念でなりません。
第1回の冒頭に書いたように、会社の経営そのものが立ち行かなくなった事が退役の理由で、しかもあまりにも唐突な決定だったから戸惑いも大きく、より悲しく思えてなりません。
LCCの台頭に代表されるような、(少し古い言葉だが)「軽薄短小」がもてはやされる時代には、その居場所を見出せなくなってしまったのでしょう。
(最もLCCのスカイマークが、A380を購入すると言っているのだが…)
いつの日か、JALがこの苦い経験を糧に再び世界ナンバー1の航空会社として復活(運航実績のナンバー1は証明済み)、もう一度超大型機の導入が見られる日が来る事を祈っています。
ただし、勝手な思い込みですが、JALの超大型機はB747でなければなりません。
A380に「鶴丸」は似合わないよ、たぶん。
「JAL、B747-8 導入決定!」
そんなニュースを聞ける日を楽しみに待ちたいと思います。
それが99%、妄想に過ぎないだろう事は解かっていても…。
I don' t forget your silhouette!
Thank you for 21 years!!
今回の連載は、
「日本の旅客機」(各年)
「JAL JET STORY」(いずれもイカロス出版)
を参考にさせて頂きました。
申し訳ありませんが、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。
明日は、その本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」の更新を行います。
今回は新京成電鉄グループを新規掲載する他、西武バス、関東バス、西東京バスで画像を追加し、京成バスで1枚だけ画像を交換します。
船橋新京成バス、西武バス、関東バスでは、超少数派で終わりそうな、UDトラックスのポスト新長期規制「スペースランナーA」をご覧頂きます。
また、西東京バスでは画像サイズの拡大を行います。
今年はもう少し本体の更新の回数を回復させたいと思っていたのですが、どうにも自分の時間が少なく、写真を撮りに行く時間自体取れないため、しばらくは月1回(一応毎月1日付け)でいく予定です。
当ブログの次回更新は3月2日の予定です。
《今日のニュースから》
新潟水俣病未認定患者団体 和解案受け入れを決定
№430 Forever JAL's B747-400 5
「Forever JAL's B747-400」も5回目、いよいよ「JJカラー」になります。
JALは2004年のJAS(日本エアシステム)との経営統合に際し、鶴丸を廃止し、太陽をイメージした赤い尾翼の新カラーに塗り替えていく事になります。
この事は現在の経営再建問題にも絡んで、未だにあれでよかったのか、という議論も巻き起こしています。
先日発表の鶴丸復活も、それが影響しているかも知れません。
ただ、「経営統合」とはいえ、相手のJASは名前さえ完全に消してしまうわけで、鶴丸を残すと「一方的に吸収される」というイメージを与えてしまうという判断があったのかもしれません。
後で出しますが、「松井ジェット」がB747-400と共に、JASのA300-600Rでも就航した事も、そんな配慮があったのではないか、と考えています。
ともあれ2008年には鶴丸はJALからは完全に消え、それでも静かに復活の時を待つ事になります。
ここではJJカラー時代の、特にスペシャル・マーキング機を中心にご覧頂こうと思います。
2004年3月27日、新千歳のターミナルに並ぶ新旧カラーのB747-400。
デビュー時の「スカイ・クルーザー」の愛称は、新カラーではなくなった。
新千歳発羽田行JAL524便。
2004年3月27日のこの便が、結局最後のJALの400D型への搭乗となった。
機種部のスーパーシートはこの後「クラスJ」と衣替えする事になるが、普通席は最後までこのインテリアになるようだ。
そういえば、B747の「クラスJ」は利用する機会がないまま終わってしまったなあ。
成田空港R/W16Rの脇の空き地は整備され、「さくらの山」として多くの行楽客を受け入れるようになった。
桜のシーズンでなくても、四季折々美しい。
「さくらの山」は、世界に誇れる旅客機ウォッチング・スポットだと、勝手に思っている。
田園地帯に存在する国際空港は、なにも成田だけではなく、世界中に存在する。
しかし、二重に張り巡らされた高いフェンスが、未だに残る成田の厳しさを物語っているようだ。
2004年、初の(自主運行の)国際線であるサンフランシスコ線が就航して50周年になり、記念したマーキングがJA8906に施された。
機体には、当時のDC-6B「City of Tokyo」が原寸大で描かれている。
一方国内線にも、沖縄線就航50周年記念として、同じく原寸大のDC-6Bを描いた機体(JA8907)が就航した。
当時の沖縄は今だアメリカの占領下にあり、国際線と同じ扱いでフライトしていた。
当時のJALは、まだ鶴丸じゃなかったんだ。
2006年にドイツで開催されたサッカー・ワールドカップでも、JALは様々な応援マーキング機を就航させた。
地区予選期間中は、2002年とあまり変わらないデザインだった。
こういうマーキングは胴体の後部に描かれるので、着陸時だと後追いでなければ主翼と被って、キレイに撮れないのが辛い所。
いよいよ本大会が近づき、それまでB777で就航していた「サムライ・ブルー」マーキングが、本命のB747-400にも施された。
B777と異なり、当時の代表選手が勢ぞろいしたデザイン。
2003年、読売ジャイアンツの不動の4番、松井秀喜がついにメジャーへ。
しかも名門中の名門、ニューヨーク・ヤンキースへ移籍した事は、スポーツ界のみならず、社会全体にも大きな衝撃を与えた。
スポンサードしたJALはB747-400と、経営統合を控えたJASのA300-600R各1機に、大きな松井選手の顔写真を描いた「松井ジェット」を就航させる。
B747-400ではJA8907が抜擢。
第1便の行先は、もちろん小松だった。
外国人観光客を日本への呼び込むためのキャンペーン「Yokoso! Japan」。
JALではB747だけでなくB777、B767でも見られた。
ロゴの大きさも大小様々なサイズがあったようだ。
そういえば昨年9月、経営再建の一環としてサンパウロ線が休止になってしまったが、最終便に起用されたのも「Yokoso! Japan」マーキングだった。
どこか皮肉めいていたが…。
現在はこれを受け継いだ「Japan Endress Discovery」のマーキングが、B777やB767に施されている。
「たまごっち」は2006年にB777-200計3機に描かれたが、翌2007年の劇場版の公開に合わせて、400D型(JA8904)にも描かれた。
「one world」を除くと、最後のB747のスペシャル・マーキングとなった。
「JALっち」、どこへ行ったのだろう…。
貨物機では比較的最近までクラシックが幅を利かせていたものだが、2004年になり、ついに貨物機にもハイテク化の波が押し寄せる。
旅客機と違ってアッパーデッキが短いが、ウィングレットが400シリーズの一員である事を主張する。
クラシックの1機で試行されていたポリッシュドスキン仕様が、400F型で正式に採用される事になった。
機体の塗装を省略し、軽量化する事で燃費の向上を狙ったものだ。
2007年、エアバスが誇る総2階建ての超大型旅客機、A380がついに就航した。
シンガポール航空のシンガポール~シドニー線が初の就航路線。
異国の地、シドニー・キングフォードスミス空港での、つかの間の競演。
2007年11月19日のJO762便、ブリスベン発成田行。
これが、最後のJALのB747への搭乗となった。
JALウェイズ(JO)便名だったが、機材はもちろん普通のJALのB747-400。
稲葉賀恵デザインのユニフォームをまとうCAが、キャビンサービスに忙しい。
彼女たちの頑張りなくして、JALの楽しいフライトは約束されない。
スクリーンではNHKニュースを放映中。
日本が近づいてきた。
それにしても、これが最後のJALのB747での旅になるとは、当時は考えもしなかった。
ブリスベン線はこの後B767-300ERにダウンサイジングされるが、結局2009年、乗り入れそのものが廃止に追い込まれる事になる。
2009年になって、JALの経営問題が一気に表面化、政治の世界も世論も巻き込んで、連日大きな騒ぎになりました。
この年の夏、「クラシック」が全機引退したばかりのB747はまるで経営悪化の象徴とされ、残る400型でさえ、その去就が一気に不安視されるようになります。
そして2010年1月19日、JALは経営が破綻して会社更生手続きを申請。
この事が、B747-400の運命を決める事になりました。
経営再建の一環として、なんと2010年度を持って一気に全機退役する事が決まってしまったのです。
この事態がなくても2010年には就航から20年になり、後継機をどうするか、という話も出たとは思いますが、それにしてもあまりにも唐突で、ショッキングな決定でした。
次回はいよいよ最終回、最後の活躍を見せるB747-400の姿をご覧頂きます。
ラストフライトまで、あと3日です。
申し訳ありませんが、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。
せっかくの真新しいエアロエースが…。一体どうした事だろう。
《今日のニュースから》
山陽自動車道で南国交通高速バス横転 乗客の大学生を逮捕
JALは2004年のJAS(日本エアシステム)との経営統合に際し、鶴丸を廃止し、太陽をイメージした赤い尾翼の新カラーに塗り替えていく事になります。
この事は現在の経営再建問題にも絡んで、未だにあれでよかったのか、という議論も巻き起こしています。
先日発表の鶴丸復活も、それが影響しているかも知れません。
ただ、「経営統合」とはいえ、相手のJASは名前さえ完全に消してしまうわけで、鶴丸を残すと「一方的に吸収される」というイメージを与えてしまうという判断があったのかもしれません。
後で出しますが、「松井ジェット」がB747-400と共に、JASのA300-600Rでも就航した事も、そんな配慮があったのではないか、と考えています。
ともあれ2008年には鶴丸はJALからは完全に消え、それでも静かに復活の時を待つ事になります。
ここではJJカラー時代の、特にスペシャル・マーキング機を中心にご覧頂こうと思います。
2004年3月27日、新千歳のターミナルに並ぶ新旧カラーのB747-400。
デビュー時の「スカイ・クルーザー」の愛称は、新カラーではなくなった。
新千歳発羽田行JAL524便。
2004年3月27日のこの便が、結局最後のJALの400D型への搭乗となった。
機種部のスーパーシートはこの後「クラスJ」と衣替えする事になるが、普通席は最後までこのインテリアになるようだ。
そういえば、B747の「クラスJ」は利用する機会がないまま終わってしまったなあ。
成田空港R/W16Rの脇の空き地は整備され、「さくらの山」として多くの行楽客を受け入れるようになった。
桜のシーズンでなくても、四季折々美しい。
「さくらの山」は、世界に誇れる旅客機ウォッチング・スポットだと、勝手に思っている。
田園地帯に存在する国際空港は、なにも成田だけではなく、世界中に存在する。
しかし、二重に張り巡らされた高いフェンスが、未だに残る成田の厳しさを物語っているようだ。
2004年、初の(自主運行の)国際線であるサンフランシスコ線が就航して50周年になり、記念したマーキングがJA8906に施された。
機体には、当時のDC-6B「City of Tokyo」が原寸大で描かれている。
一方国内線にも、沖縄線就航50周年記念として、同じく原寸大のDC-6Bを描いた機体(JA8907)が就航した。
当時の沖縄は今だアメリカの占領下にあり、国際線と同じ扱いでフライトしていた。
当時のJALは、まだ鶴丸じゃなかったんだ。
2006年にドイツで開催されたサッカー・ワールドカップでも、JALは様々な応援マーキング機を就航させた。
地区予選期間中は、2002年とあまり変わらないデザインだった。
こういうマーキングは胴体の後部に描かれるので、着陸時だと後追いでなければ主翼と被って、キレイに撮れないのが辛い所。
いよいよ本大会が近づき、それまでB777で就航していた「サムライ・ブルー」マーキングが、本命のB747-400にも施された。
B777と異なり、当時の代表選手が勢ぞろいしたデザイン。
2003年、読売ジャイアンツの不動の4番、松井秀喜がついにメジャーへ。
しかも名門中の名門、ニューヨーク・ヤンキースへ移籍した事は、スポーツ界のみならず、社会全体にも大きな衝撃を与えた。
スポンサードしたJALはB747-400と、経営統合を控えたJASのA300-600R各1機に、大きな松井選手の顔写真を描いた「松井ジェット」を就航させる。
B747-400ではJA8907が抜擢。
第1便の行先は、もちろん小松だった。
外国人観光客を日本への呼び込むためのキャンペーン「Yokoso! Japan」。
JALではB747だけでなくB777、B767でも見られた。
ロゴの大きさも大小様々なサイズがあったようだ。
そういえば昨年9月、経営再建の一環としてサンパウロ線が休止になってしまったが、最終便に起用されたのも「Yokoso! Japan」マーキングだった。
どこか皮肉めいていたが…。
現在はこれを受け継いだ「Japan Endress Discovery」のマーキングが、B777やB767に施されている。
「たまごっち」は2006年にB777-200計3機に描かれたが、翌2007年の劇場版の公開に合わせて、400D型(JA8904)にも描かれた。
「one world」を除くと、最後のB747のスペシャル・マーキングとなった。
「JALっち」、どこへ行ったのだろう…。
貨物機では比較的最近までクラシックが幅を利かせていたものだが、2004年になり、ついに貨物機にもハイテク化の波が押し寄せる。
旅客機と違ってアッパーデッキが短いが、ウィングレットが400シリーズの一員である事を主張する。
クラシックの1機で試行されていたポリッシュドスキン仕様が、400F型で正式に採用される事になった。
機体の塗装を省略し、軽量化する事で燃費の向上を狙ったものだ。
2007年、エアバスが誇る総2階建ての超大型旅客機、A380がついに就航した。
シンガポール航空のシンガポール~シドニー線が初の就航路線。
異国の地、シドニー・キングフォードスミス空港での、つかの間の競演。
2007年11月19日のJO762便、ブリスベン発成田行。
これが、最後のJALのB747への搭乗となった。
JALウェイズ(JO)便名だったが、機材はもちろん普通のJALのB747-400。
稲葉賀恵デザインのユニフォームをまとうCAが、キャビンサービスに忙しい。
彼女たちの頑張りなくして、JALの楽しいフライトは約束されない。
スクリーンではNHKニュースを放映中。
日本が近づいてきた。
それにしても、これが最後のJALのB747での旅になるとは、当時は考えもしなかった。
ブリスベン線はこの後B767-300ERにダウンサイジングされるが、結局2009年、乗り入れそのものが廃止に追い込まれる事になる。
2009年になって、JALの経営問題が一気に表面化、政治の世界も世論も巻き込んで、連日大きな騒ぎになりました。
この年の夏、「クラシック」が全機引退したばかりのB747はまるで経営悪化の象徴とされ、残る400型でさえ、その去就が一気に不安視されるようになります。
そして2010年1月19日、JALは経営が破綻して会社更生手続きを申請。
この事が、B747-400の運命を決める事になりました。
経営再建の一環として、なんと2010年度を持って一気に全機退役する事が決まってしまったのです。
この事態がなくても2010年には就航から20年になり、後継機をどうするか、という話も出たとは思いますが、それにしてもあまりにも唐突で、ショッキングな決定でした。
次回はいよいよ最終回、最後の活躍を見せるB747-400の姿をご覧頂きます。
ラストフライトまで、あと3日です。
申し訳ありませんが、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。
せっかくの真新しいエアロエースが…。一体どうした事だろう。
《今日のニュースから》
山陽自動車道で南国交通高速バス横転 乗客の大学生を逮捕
№429 Forever JAL's B747-400 4
今月限りの退役が迫るJALのB747-400の活躍を、私なりに振り返ってみる「Forever JAL's B747-400」も4回目になりました。
さて、「9.11」に端を発した航空業界不況を契機に、JALはJAS(日本エアシステム)との経営統合を決定。
統一カラーとして、ついに「鶴丸」を廃した、現行の「太陽のアーク」カラー(ここでは便宜的にJJカラーと呼ぶ事にする)が発表、両社の機材は急速にJJカラーに変わっていきました。
ここでは、先代鶴丸カラーの終わりの時期を、搭乗の体験や印象を中心に振り返ってみます。
2002年、日本・韓国の共同開催で開かれたサッカーのワールドカップ。
日本代表をサポートすべく、それまでのJALのイメージを大きく変えた、青い尾翼のジャンボ機が現れた。
決勝トーナメントに進出し、ベスト8をかけたトルコ戦の時、名古屋から仙台まで選手団を輸送したショートフライトは、スポーツ紙の一面を飾る程の話題になった。
試合は残念ながらトルコに敗れてしまったのだが…。
機内でプレゼントされた、先代鶴丸カラーをまとったB747-400のポストカード。
正直リアルさには今一つだったかも。
「雪だって!」
「パリは曇時々雪…」の成田でのアナウンスに、キャビンのオバサマ方がどよめいた、2003年1月10日のパリ行415便。
パリが雪だったら、シベリアはもうガチンガチン。
でも、キャビンの暖かさに浸っていると、外が-65℃というのが、にわかには信じられない。
JALのキャビンでは、紙のマップにルートを記してギャレー付近に掲げてある事が多かった。
クラシックの頃からの伝統なのだろうか。
「MAGIC」機だったからシートテレビでもマップは表示されるのだが、こういう心遣いに暖かさを感じる。
この日は最も北のルートを飛行、ウラル山脈は見られず、フィンランド上空からバルト海を横断する事になる。
サァッと雪煙を上げてランディングしたパリでは、寒い中だというのにターミナルジカ付けではなく、オープンスポットからのバス連絡になった。
グランドレベルから見上げるジャンボジェットは、本当にでかい。
海外の空港で、海外の機体に囲まれて並ぶ鶴丸を誇らしく感じるのは、日本人ならではの贔屓目、という事に落ち着くのだろう。
手前の、尾翼に樹が描かれたエアバスは、レバノンのMEA。
1月17日のシャルル・ド・ゴール空港。
雪はきれいさっぱり、どこへ消えたのだろうか。
成田からのB747-400が、R/W27に到着する。
欧州発日本行の夜は短い。
夜が長い真冬というのに、パリを出発する頃西の空に沈んでいった夕陽が、わずか7時間で東の空の果てに現れた。
シベリアから日本海を抜け、新潟から朝日の白い山々を見下ろす頃、機体は既に成田に向けて高下を開始している。
成田まで、あとわずか。
楽しい旅も、もう終わりだ。
他の機種にはマネが出来ない、B747SUDならではの、迫力ある機首部。
既にJJカラー化が深度化していた。
この機体は先代鶴丸カラーのままながら、よく見るとドア部に小さく新ロゴと「one world」のマークがある。
JALのパリ路線で400型には8回乗った。
これは2005年10月9日、結果的に最後となった、パリ行の400型。
成田はあいにくの雨。
風も強かった。
背後にはJJカラーのB777-200ER。
猛烈な水煙を上げて着陸したのは、貨物専用のクラシック、200F。
機体を軽くし、燃料を節約するため全体の塗装を殆ど省略した「ポリッシュド・スキン」で、JJカラーにも引き継がれた。
そして、400Fにも受け継がれる、のだが…。
もはやエコノミークラスでもパーソナルテレビは当たり前、しかもAVODだ。
ゲームはなぜか「リバーシ」と呼んでいたが、意外に勝つのは難しいんだよなあ。
パリは一転快晴。
いつも思うが、欧州の田舎は、どこも美しい。
シャルル・ド・ゴール着陸直前に見下ろすフランスの田舎町は、どこも本当に小ぢんまりしている。
バス路線は通じているのだろうか、いつかバスに乗って行ってみたいと、いつも思っていた。
実現させた事は一度もないのだけれど…。
この旅の帰りにパリから搭乗したのは、JJカラーのB777-200ERだった。
メインのB747-400の便をサポートする便ではあったが、いよいよJALの長距離国際線にも、双発化・ダウンサイジングの流れが見え始めていたのかも知れない。
5年後、それをあまりにも劇的な形で目の当たりにする事になる。
2003年に始まった「JJカラー」化は、約6年かけて完遂する事になります。
次回は、JJカラーに姿を変えたB747-400を追います。
申し訳ありませんが、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。
《今日のニュースから》
松木農林水産政務官 辞表を提出
さて、「9.11」に端を発した航空業界不況を契機に、JALはJAS(日本エアシステム)との経営統合を決定。
統一カラーとして、ついに「鶴丸」を廃した、現行の「太陽のアーク」カラー(ここでは便宜的にJJカラーと呼ぶ事にする)が発表、両社の機材は急速にJJカラーに変わっていきました。
ここでは、先代鶴丸カラーの終わりの時期を、搭乗の体験や印象を中心に振り返ってみます。
2002年、日本・韓国の共同開催で開かれたサッカーのワールドカップ。
日本代表をサポートすべく、それまでのJALのイメージを大きく変えた、青い尾翼のジャンボ機が現れた。
決勝トーナメントに進出し、ベスト8をかけたトルコ戦の時、名古屋から仙台まで選手団を輸送したショートフライトは、スポーツ紙の一面を飾る程の話題になった。
試合は残念ながらトルコに敗れてしまったのだが…。
機内でプレゼントされた、先代鶴丸カラーをまとったB747-400のポストカード。
正直リアルさには今一つだったかも。
「雪だって!」
「パリは曇時々雪…」の成田でのアナウンスに、キャビンのオバサマ方がどよめいた、2003年1月10日のパリ行415便。
パリが雪だったら、シベリアはもうガチンガチン。
でも、キャビンの暖かさに浸っていると、外が-65℃というのが、にわかには信じられない。
JALのキャビンでは、紙のマップにルートを記してギャレー付近に掲げてある事が多かった。
クラシックの頃からの伝統なのだろうか。
「MAGIC」機だったからシートテレビでもマップは表示されるのだが、こういう心遣いに暖かさを感じる。
この日は最も北のルートを飛行、ウラル山脈は見られず、フィンランド上空からバルト海を横断する事になる。
サァッと雪煙を上げてランディングしたパリでは、寒い中だというのにターミナルジカ付けではなく、オープンスポットからのバス連絡になった。
グランドレベルから見上げるジャンボジェットは、本当にでかい。
海外の空港で、海外の機体に囲まれて並ぶ鶴丸を誇らしく感じるのは、日本人ならではの贔屓目、という事に落ち着くのだろう。
手前の、尾翼に樹が描かれたエアバスは、レバノンのMEA。
1月17日のシャルル・ド・ゴール空港。
雪はきれいさっぱり、どこへ消えたのだろうか。
成田からのB747-400が、R/W27に到着する。
欧州発日本行の夜は短い。
夜が長い真冬というのに、パリを出発する頃西の空に沈んでいった夕陽が、わずか7時間で東の空の果てに現れた。
シベリアから日本海を抜け、新潟から朝日の白い山々を見下ろす頃、機体は既に成田に向けて高下を開始している。
成田まで、あとわずか。
楽しい旅も、もう終わりだ。
他の機種にはマネが出来ない、B747SUDならではの、迫力ある機首部。
既にJJカラー化が深度化していた。
この機体は先代鶴丸カラーのままながら、よく見るとドア部に小さく新ロゴと「one world」のマークがある。
JALのパリ路線で400型には8回乗った。
これは2005年10月9日、結果的に最後となった、パリ行の400型。
成田はあいにくの雨。
風も強かった。
背後にはJJカラーのB777-200ER。
猛烈な水煙を上げて着陸したのは、貨物専用のクラシック、200F。
機体を軽くし、燃料を節約するため全体の塗装を殆ど省略した「ポリッシュド・スキン」で、JJカラーにも引き継がれた。
そして、400Fにも受け継がれる、のだが…。
もはやエコノミークラスでもパーソナルテレビは当たり前、しかもAVODだ。
ゲームはなぜか「リバーシ」と呼んでいたが、意外に勝つのは難しいんだよなあ。
パリは一転快晴。
いつも思うが、欧州の田舎は、どこも美しい。
シャルル・ド・ゴール着陸直前に見下ろすフランスの田舎町は、どこも本当に小ぢんまりしている。
バス路線は通じているのだろうか、いつかバスに乗って行ってみたいと、いつも思っていた。
実現させた事は一度もないのだけれど…。
この旅の帰りにパリから搭乗したのは、JJカラーのB777-200ERだった。
メインのB747-400の便をサポートする便ではあったが、いよいよJALの長距離国際線にも、双発化・ダウンサイジングの流れが見え始めていたのかも知れない。
5年後、それをあまりにも劇的な形で目の当たりにする事になる。
2003年に始まった「JJカラー」化は、約6年かけて完遂する事になります。
次回は、JJカラーに姿を変えたB747-400を追います。
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