№271 私鉄の車両シリーズ64 名古屋鉄道モ700・750形

「私鉄の車両シリーズ」、今回はこれまで取り上げてきた中で一番古い形式になります。
 もちろん、現役では現存しません。
 廃線になって久しい名古屋鉄道揖斐・谷汲線で使用されていた古豪、モ700及び750形です。
 1927年~1929年にかけて(旧)名古屋鉄道→名岐鉄道が西部線用にそれぞれ10両ずつを製作しました。
 晩年は揖斐・谷汲線に終結した残存車両が大手私鉄らしからぬローカル色を演出する存在として人気を博し、約70年の間走り続けました。

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 (旧)名古屋鉄道(1929年に名岐鉄道と改称)は現在の名古屋本線の内の西側(名古屋~岐阜)を主な営業エリアとしていました。
 モ700・750形の両形式は、現在は名古屋本線の一部となっている西部線用として製作されたもので、当初はデセホ700・750形と称していました。
 この両者にはわずかな違いがあったようですが、実質的には同形式でした。
 名岐鉄道では初の半鋼製車です。
 制御は自動進段方式で、当初は名古屋市電(押切町~柳橋)直通のため中央部にパンタグラフ・両端にポールを装備していました。
 この区間は、以前は(旧)名古屋鉄道の経営で、1922年に名古屋市に譲渡した後も直通運転を行っていたものです。

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 車内においては、座席の仕切りや荷物棚などの意匠が現代においてレトロ的な雰囲気を醸し出していました。
 日除けも木製のヨロイ戸でした。
 運転席も完全には仕切られてはおらず、路面電車のような簡素な仕切りがあるだけです。

 西部線は1944年に地下新線を介して、愛知電気鉄道が開業させた東部線と接続、戦後の1948年には1500Vに昇圧し、豊橋~名古屋~岐阜の直通運転が開始されました。
 これにより700・750形は600Vの各支線区に散っていき、このうち700形3両と750形6両が1978年までに揖斐・谷汲線に集結しました。
 この時点で700形全車両と754号車は片運転台に改造されており、愛知電気鉄道出身のク2320形と編成を組んで主に忠節~美濃北方の区間運転に、750形の5両はワンマン化改造を受けて(名鉄初のワンマン化)谷汲線及び揖斐線(黒野~本揖斐)を中心に運用されていました。
 転入時に電動機の交換や、窓のアルミサッシ化、塗装のスカーレット化が行われています。
 谷汲線では積雪時にはスノープロウを付けて運行された事もあったようです。

 20世紀の終わりになって、岐阜県下のいわゆる「600V線」は急速に業績が悪化、1999年3月の美濃町線末端区間に続いて、2001年9月一杯を持って谷汲線及び揖斐線(黒野~本揖斐)も廃止となりました。
 1998年の時点で700・750形5両がモ780形に置き換えられて廃車になっており(702号車は1992年廃車済み)、この廃線で残る750形3両も廃車となって引退しました。
 755号車は旧谷汲駅構内で保存されており、754号車は車体をカットし、深緑色に復元した姿で、瀬戸市内の市民施設で展示されています。

 今回の記事は
「私鉄の車両11 名古屋鉄道」(保育社 ※現在はネコ・パブリッシングによって復刻
「鉄道ピクトリアル1996年7月臨時増刊号 【特集】名古屋鉄道」(鉄道図書刊行会)
「鉄道ピクトリアル2006年1月臨時増刊号 【特集】名古屋鉄道」(鉄道図書刊行会)
「谷汲線の四季」(井上英樹/岐阜新聞社/岐阜新聞情報センター)
「私鉄廃線25年」(寺田裕一/JTBキャンブックス) 等
を参考にさせて頂きました。

 揖斐線の残存区間(忠節~本揖斐)も、健闘むなしく岐阜市内線・美濃町線と同じく2005年3月31日に廃線となってしまいました。
 明日は、この区間も含めた、揖斐・谷汲線各駅の写真をご覧頂く事にしています。

 当ブログは次の土曜日10日から、しばらくの間お休みを頂く予定です。
 その理由は明後日9日にお答えしたいと思います。
 そんな大した理由ではないし、いずれ再開もしますが…。


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