№187 私鉄の車両シリーズ32 京浜急行電鉄800形

 本題に入る前に一つ。
 昨日、ポーランド大統領を乗せた政府専用機がロシアで墜落した事に関連して、Tu-154についての記事を書きましたが、今晩少しですが加筆しました。
 また、同型機の画像を1枚追加しています。
 良ければ見直してみてください。
 遅ればせながら、大統領を始め、今回の事故で犠牲に遭われた方々のご冥福をお祈り致します。
(旅客機が管制の指示に従わなかった事が事故の原因らしいという報道があり、現時点ではTu-154そのものの問題ではなさそうに思えますがが、まだいろいろ出てくるでしょう。もう少し事態を見極める必要がありそうです。)

 さて、本題に入って私鉄の車両シリーズ、今日は京急の800形です。

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 京急800形は、会社創立80周年を迎えた1978年にデビューした通勤車です。
 ほとんど普通列車のみで使用されるため、京急の中では地味なイメージを持たれるかも知れませんが、実は制御システムや車体のデザインの面で、後の京急の車両に大きな影響を与えています。
 1979年鉄道友の会ローレル賞を受賞。

 当初より地上線の普通列車を中心に運用される事を想定しており、地下鉄には乗り入れないため、運転台は非貫通型となりました。
 正面は前面窓部分を窪ませて白く塗り、その風貌から「だるま」の愛称があります。
(沿線の川崎大師が「だるま」を名物にしている事もある。)
 運転台は日本初の逆L字型(片手式)ワンハンドルマスコンを採用。
 制御方式も京急初の界磁チョッパとなり、全M編成で1C12M制御としています。
 中・低速域に重点を置いた加速度設定のため高速側では加速度が低下、その結果最高速度が100㎞/hとなり、ほぼ普通・急行列車専用です。

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 車体は大型1枚窓を配置した4ドアで、車内では窓部にFRPを用いています。
 窓は初期の編成では全て固定でした。
 座席脇の仕切りも、初めて板状になりました。
 800形は京急では初めて、最初から冷房車として設計された系列でもありますが、先頭車は分散式、パンタを2台搭載した中間車は集中式としました。
 車番はハイフンで編成番号を表示する方式です。
 なお、当時の京急は、同業他社とは一線を画した設計をする事が多く(今でも一部はそう。)、その一つに、ドアは片開きにするというものがありました。
 800形もそれを踏襲していますが、実は京急で片開き扉を採用したのは、800形が最後になりました。

 東急・川重の2社により、当初は3連で量産されました。
 第1陣の12両は特にアコモデーションの点で試作的要素が多く、801Fは熱線吸収ガラスを採用してカーテンを省略していました。
 東急製の2編成は当初は座席の色が赤系でした。
 1980年製の813Fからは、側窓が開閉可能となっています。
 その後、1982年には中間車が増備され、在来の一部の編成に組み込まれて6連化しました。
 中間車は全て冷房が集中式です。
 車体色は当初は窓回り全体を白く塗っていましたが、1984年の2000形デビューと共に、窓下に白帯を配置する、現在の塗り分けに変更されています。
 1986年には6両固定編成も製作され、8年間で132両が製作されました。

 1994年より更新工事が行われましたが、この時点で3連で残っていた10編成は、中間車化改造を行って6連(5編成)とし、800形は全て6両固定編成となりました。
 運転室撤去部分は、窓配置と車内の機器配置に名残を残しています。
 線内急行が廃止になった1999年以降は、ほとんど普通列車に専用で運用中です。

【編成】
←三崎口・浦賀・新逗子・羽田空港     品川
 M1c 800 - *M2 800* - M3 800 - M1 800 - *M2 800* - M3c 800
* パンタグラフ

 今回の記事は
「私鉄の車両18 京浜急行電鉄」(保育社) ※現在はネコ・パブリッシングによって復刻
「鉄道ピクトリアル1998年7月臨時増刊号 【特集】京浜急行電鉄」(鉄道図書刊行会)等
を参考にさせて頂きました。

 次回のこのシリーズは相鉄6000系の後半、MMユニットになって車体もモデルチェンジした新タイプについて書きます。

 ところで、京急というと、少し気になる事があります。
 先日東北から帰ってきて、羽田空港から京急線に乗ったのですが、上大岡で降りた時、ホームの発車案内表示器に変化がありました。

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 京急沿線在住の方、京急ファンの方々は既にお気づきと思いますが、もともと、表示器の上部のマップ式の停車駅案内部には、黒の普通列車の上に、赤の特急・緑の快特が別々に表示されるようになっていました。
 その特急・快特の部分が塞がれているのです。
(停車駅は、普通列車の部分に停車駅のみ点灯する形で表示。)
 あくまで勝手な憶測でしかありませんが、ひょっとしたら京急には、新しい種別を設定するとか、そうでなくても停車駅の変更をするとか、ダイヤのパターンを変える計画があるのでしょうか?
 京急では5月16日に京急蒲田付近の上り線を高架化する事になっていますし、その先も7月17日の「成田スカイアクセス」開業、10月の羽田空港国際線ターミナル開業及びD滑走路供用開始という、数多くのイベントが控えています。
 当然、それらはダイヤに大きく影響を与える事になるわけで、果たして、どういうダイヤが編成されるのでしょうか?
 とりあえず、5月の高架切り替えはかなりダイヤへの影響が大きくなるはずですから、どんな変化が見られる事になるか、プレスリリース(多分今週中に出ると思う。)を待ちたいと思います。
 800形には、どんな影響が出るでしょうか。

 申し訳ありませんが、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
 また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。(名前は公表しません。)








№186 1997年12月20日 Tu-154搭乗記

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 日本時間の今日夕方、ポーランドのレフ・カチンスキ大統領とその一行を乗せたツポレフTu-154型機(政府専用機)が、ロシア西部のスモレンスク州で着陸に失敗して墜落、地元のメディアの報道によると、生存者はいないという事でした。
 スモレンスク州では、ソ連の秘密警察が、ポーランド軍の捕虜を虐殺したとされる「カチンの森」事件があり、同大統領は、70周年の追悼式典に参加するため、同地を訪れる途中だったという事でした。

 ツポレフTu-154は、1968年以降ソ連が製造を続けていた中距離旅客機で、ボーイング727とよく似たデザインですが、一回り大きくてメインギアが3輪という違いがあります。
 垂直尾翼の鋭く突き出た…これ、何ていうんだろう?アンテナ?…が、いかにもソ連をイメージさせます。
 あくまで外観だけですが、個人的にはB727よりこちらの方がカッコ良く見えると思っています。
 共産圏を中心に多数使用されてきましたが、老朽化が進んだ上に、西側のハイテク機に押され、さすがに姿を見かける機会が、かなり少なくなってきました。
 日本では、シベリアへ行く路線の機体を新潟あたりで見る機会がありましたが、やはり最近はほとんど見られないそうです。
 ポーランドには、民間航空会社の一つにLOTポーランド航空があります。
 「スター・アライアンス」に加盟していて、いまや機材はすべて西側です。
 民間航空が西側の機材になっているのに、政府の専用機はTu-154を使い続けてきたのですか…。
 一部にはかなりの老朽機だとも言われていますが、今回の事故とは関係があるのでしょうか。

 さて、日本人でTu-154に乗った事がある人って、どの位いるだろう?
 先に挙げた新潟からの路線で利用された方は多いと思いますが、欧州域内線で利用された方は、それ程多くはないのではないかと思います。
 実は、私は約12年前、1997年12月20日に、搭乗した事がありました!
 大分昔ですからあやふやになる部分も多々ありますが、当時のメモ書きを元に、簡単に回想してみたいと思います。

 いきさつとしては、決して狙っていた訳ではありませんでした。
 ギリシャに旅行に行っていた帰り、列車だけでギリシャ北部のテッサロニキからブルガリアのソフィア、ルーマニアのブカレスト・ハンガリーのブダペストを経由して、オーストリアのウィーンから帰国の途につく予定でした。
 ところが、ギリシャ(ストリモン)・ブルガリア(クラータ)国境のパスポートコントロールが共に酷く時間がかかり、結果ソフィア到着が5時間以上遅れ、ブカレスト行の夜行に乗れなくなってしまいました。
 正直定時運転など、ハナから期待していなかったですけれどね…。
 それで、帰国便のことを考えると鉄道の旅は続行できず、追加の出費が非常に痛かったけれど、ソフィアで一泊した後、翌日空路でダイレクトにウィーンに向かうプランに変更せざるを得ませんでした。
(そういえば、映りが非常に悪かったホテルの部屋のTVでは、長野オリンピックの聖火の採火の模様が伝えられていました。)

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 ソフィア空港のターミナルは、駅前のホテルからタクシーで約15分。
 ブルガリアではUSドルが通用し、20ドルでした。
 ターミナルはご覧のように、(共産圏らしく?)狭くて薄暗く、航空券の発券も何だか案内所の窓口のような感じで、日本のようなフレンドリーさはありません。
 ただ、チェックインカウンターのおばさんの応対は良かった。
「Have a nice flight.」の一言は、素直に嬉しかったです。

 利用するのは、バルカン・ブルガリア航空(LZ)461便、ウィーン経由アムステルダム行。
(LZは後に経営が破綻、現在はブルガリア航空が後を継いでいます。共産圏のナショナルフラッグだって、破綻する事はあるのです。)

 この時点で、どの形式に乗る事になるかはわかりませんでしたが、実は、個人的にはソ連機に乗ってみたいなあと思っていました。
 ターミナルにはボーディングブリッジがなく、全てバスで移動する事になります。
 すでに西側のB767などの姿もありましたが、バスはTu-154の脇に停車しました。
 ラッキー…!?

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 機体の中央部からタラップで一斉に乗り込みます。
 席につくと、シートピッチははっきりいって狭い。
 それと、背もたれが前に倒れるのがビックリ。
(軍事での運用も考えられたという話ですが、本当かどうかは不明)。

 出発間際、西側では当然行われるエマージェンシー・デモが行われませんでした。

 悪天候でしたが、離陸はスムーズ。
 ウィーンに向かって北上していきます。

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 窓の外の景色はこんな感じ。
 どこを飛行中かはちょっとわかりませんでした。

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 で、これがその機内。
 あと、今では考えられないはずなのだけれど、コックピットのドアがひたすら開けっぱなしになっていましたね。

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 機内食もサービスされました。
 プラスチックのパックで提供されたのには意表を突かれました。
 でも、メニュー自体は西側と変わらないと思いました。
 ブルガリアといえば何といっても「ヨーグルト」。
 当然機内食でもサービス(左上)。
 アプリコットのヨーグルトでしたが、舌触りは日本と比べて少しあっさりした感じだったと思います。

 飛行時間約1時間20分で、ウィーンのシェベヒャート空港に到着。

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 ウィーン空港のターミナルは、ソフィアから来た身には、まるで別世界。
 とてつもなく斬新に思えました。

 ソ連機の旅は、今の所後にも先にもこの1回のみ。
 共産圏のエアラインも、もはや大半が西側機へのシフトを進めていて、今後もソ連機に搭乗できる機会があるかどうかは、ちょっと解からないですね。
 後は、ロシアになってから開発された旅客機あたり(Tu-204など)なら、搭乗する機会も生まれるかもしれませんけれど。

 ここで、以前撮影したTu-154の写真をご覧頂きたいと思います。

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マレヴ・ハンガリー航空 HA-LCU
 1996年の確か6月、スイスのチューリヒで撮影。

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ウラジオストック航空 RA-85849 
 これは2006年の5月21日に、新潟空港で撮りました。
 新潟線は既にTu-204が主力になっていたようですが、Tu-154が飛来する事もまだあったようです。

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プルコボ航空 RA-85770
 2004年6月19日、パリのシャルル・ド・ゴール空港での撮影。

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シベリア航空 RA-85699
 ドイツのフランク・フルト・アム・マイン空港で撮影しました。
 いつ撮影したのかはすみません、忘れました…。
 現在は「S7シベリア航空」として、「ワン・ワールド」に加盟申請中です。

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高麗航空 P-553
 現在の県営名古屋空港に、チャーター便で来た時に撮影しました。
 Tu-154に限らず、いつか高麗航空を日本で再び撮影できる日は来るのでしょうか。

 申し訳ありませんが、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
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№185 私鉄の車両シリーズ31 東京急行電鉄8500系

 3月末から昨日にかけて、あっちへウロウロ、こっちへウロウロ、その旅行記も書いたりしましたから、「私鉄の車両シリーズ」も随分間が開いてしまいましたが、今日は久し振りに書きます。
 今日は東急田園都市線の主力系列だった、8500系です。

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 8500系は8000系の営団地下鉄半蔵門線直通対応系列として、1975年にデビューした通勤車です。
 長年田園都市線の顔として活躍してきましたが、近年は急速に数を減らしつつあります。
 1976年鉄道友の会ローレル賞を受賞。

 8500系は、基本的には8000系と同仕様ですが、地下鉄線内の勾配を考慮し、6M2TとしてM車の比率を上げています。
 最終的に10連では8M2Tとなり、先頭車はM車となりました。
 半蔵門線直通用機器を搭載し、渋谷でマスコンキーを交換する事で東急⇔営団の切換が可能になっています。
 東急線内の保安装置として、地下線で見通しが悪い新玉川線での走行を考慮し、車内信号式のCS-ATCを初採用。
 乗務員室は高運転台となり、正面には赤い帯を配置して、8000系とは印象が変わりました。
 種別及び運行番号表示が初めから設けられています。

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 車内は8000系と同様ですが、当初から分散式の冷房が搭載されています。
 座席の色は、当初はエンジ色。

 登場時は3M1Tの4両編成で、大井町~すずかけ台に投入されました。
 その後の増備の過程で、8000系との混結や、東横線での運用が行われた事もあります。
 1977年の新玉川線開業時より、同線は8500系6連が専用で運用されました。
 翌1978年の営団半蔵門線の開業時も、しばらくは8500系のみが使用され、一部編成が営団にリースされた事もあります。
 1983年製造車からは軽量構造となり、1986年には大井町線運用を考慮し、5両編成ずつに分割可能な編成が製作されています。
 田園都市専用としては最終的には8連を経て、1991年に全編成10連化が達成されました。
 最終の1ユニットはVVVF制御で製作されています。
 なお、増備の過程でデハ8700・8800の両形式は番号が不足する事になり、千の位を0にした車両が現れています。

 その後は車両毎に更新工事が行なわれ、座席のバケット化や車椅子スペースの設置も行われています。
 また、2003年より運用範囲が東武線にまで広がり、埼玉県の南栗橋(2006年より久喜も)まで乗り入れるようになりました。
 8500系では編成を限定した乗り入れとなり、東武用ATSの設置が行われています。
 一方、非乗り入れ編成は、貫通扉に「K」のマークを表示しています。
 5連ユニットの方は完全に大井町線・各駅停車専用となり、帯色を一新しました。
 パンタグラフもシングルアームに交換されています。

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 8614Fは、伊豆の観光プロモートのため、かつての伊豆急行電車のカラーを模して濃淡の青帯をまとった「伊豆のなつ」編成になりました。
 東武直通対応編成のため東武線内で見かける事もあり、東武鉄道のイベントで展示された事もあります。
 一方で新5000系の製作により2003年から廃車も始まりました。
 先頭車を中心に一部が長野電鉄・秩父鉄道に譲渡された他、インドネシア国鉄にも8000系と共に56両を譲渡。
 彼の地では都営三田線6000系、JR東日本103系等と共に、ジャカルタ首都圏の優等通勤列車として活躍しているという事です。

【編成】
←渋谷・大井町     中央林間・二子玉川
 Mc2 8600 - *M1 8700 - T 8900 - M2 8800 - *M1c 8500 (大井町線用)
 Mc2 8600 - *M1 8700 - T 8900 - M2 8800 - *M1 8500 - M2 8600 - *M1 8700 - T 8900 - M2 8800 - *M1c 8500 (田園都市線用)
* パンタグラフ

 今回の記事は
「私鉄の車両4 東京急行電鉄」(保育社) ※現在はネコ・パブリッシングによって復刻
「鉄道ピクトリアル1994年12月臨時増刊号 【特集】東京急行電鉄」(鉄道図書刊行会)
「鉄道ピクトリアル2004年7月臨時増刊号 【特集】東京急行電鉄」(鉄道図書刊行会)
を参考にさせて頂きました。

 次回のこのシリーズは、京急800形です。

 申し訳ありませんが、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
 また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。(名前は公表しません。)