№77 1999年廃止 蒲原鉄道

 まず、お詫びです。
 昨日の記事の冒頭で、「昨日で当ブログが始まって3ヶ月」みたいな事を書いてしまいました。
 当ブログが始まったのは8月16日でした。
 8月12日には、他に個人的に大事な出来事があって、それとごちゃ混ぜになってしまったようです。
 昨日の記事の冒頭については、削除の上再公開させていただきました。
 本当に申し訳ありませんでした。

 昨日の「時刻表大研究 1999年」の〈1999年の十大トピックス〉の中で、新潟交通と蒲原鉄道の廃線を挙げました。
 新潟交通については、本体の「新潟交通・アーカイヴ」で取り上げていますので、そちらをご覧下さい。
 今日は蒲原鉄道を取り上げます。
 蒲原鉄道は信越本線の加茂と、磐越西線の五泉の間を走るローカル鉄道でした。
 加茂~村松は1985年に廃止。
 残った村松~五泉はわずか4.2㎞ではありましたが、JR線へのアクセスとして機能し、JRに接続するダイヤが組まれていました。
 しかし、車両・施設の老朽化が進んだ事、それと個人的な推測ですが、自らが新潟駅行の高速バスの運行を開始したため、鉄道のJRへのアクセスの意味が失われたと思われる事で、1999年の10月3日を最後に、残存区間も廃止に追い込まれる事になりました。
 短区間ではありましたが、最後まで釣掛駆動の旧型車のみが使用されていた事で、人気がありました。

(1) 車両

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モハ31
 モハ21の下回りを利用し、新製車体を組み合わせた、蒲原鉄道オリジナル車両。
 1952年製という、戦後生まれです。

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モハ41
 これもモハ13の下回りと新製車体というオリジナル車(1954年製)で、当初はモハ31と同形態でしたが、後に車体を延長、3ドア化されました。

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モハ61
 元は武蔵野鉄道(今の西武鉄道の前身)のクハ5856。
 蒲原鉄道譲渡に際してモハ化・両運転台化されました。
 写真のツートンカラーは西武時代のものでしたが、これがそのまま蒲原鉄道のカラーとなって他の車両に広がりました。

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モハ71
 こちらも元は武蔵野鉄道のデハ1322。
 西武時代に一度クハ化されましたが、蒲原鉄道譲渡の際に再びモハ化、及び両運転台化されました。

 以上のモハ4両はいずれもワンマン化され、廃線まで使用されました。
 ただ、何しろ基本的に1両が行ったり来たりするだけのダイヤなので、何が来るかはその時の運次第、ではありました。

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クハ10
 国鉄の機械式気動車キハ41120。
 蒲原入線時にクハとなり、末期にはラッシュ時に1往復していました。
 モハ71とペアを組む事が多かったようです。
(ただし、撮影時はモハ61と編成を組んでいた。)
 車内はクロスシートのままでした。

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ED1
 貨物用として導入された電気機関車ですが、貨物列車廃止後は村松駅構内の入換、及び冬季の除雪が主な役目になっていました。
 アメリカ・ウエスチングハウス社のスタイルを模していますが、国産です。

(2) 駅
 何しろ短区間であり、駅は3つだけでした。

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村松駅
 村松町(現在は五泉市に統合)の交通の要衝でもあり、駅前からは近郊の各地へ向かうローカルバスのターミナルにもなっていました。
 加茂まで鉄道があった時代も、ここで長時間の調整を行なう列車もあったそうです。
 なお、新潟交通のバスが見えますが、新潟駅行の高速バスです。

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 その駅舎の中。
 1980年に改築されたので、中は近代的です。
 蒲原鉄道の本社も入っています。

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 ホーム。
 加茂への路線が廃止になった後は、基本的には右側の2番線を使用していたようです。

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 村松駅構内の車庫。
 いかにも地方ローカル私鉄らしい、どこか雑然とした感じもします。
 車両は左からモハ41、ED1、モハ31、モハ61、モハ71で、電動車勢ぞろい。
 五泉からの本線は、一番左の線路です。
(ただし、撮影時は構内入換中。)

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今泉駅
 路線短縮後は唯一の中間駅。

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五泉駅
 JRの駅舎の隣に独立した駅舎があり、駅員が常駐していました。
 ただし、改札を入るとJRの1番線ホーム(会津若松方面行)で、JRと同じ跨線橋を渡り、2番線ホーム(新潟方面行)を経由、構内の踏切を横断して蒲原鉄道専用ホームの4番線に行く事になります。
(3番線は使用せず。)
 北日本のローカル私鉄ではよくあったスタイルです。
 近い所では新潟交通の燕駅もそうでした。

 ここからは昔話になりますが、過去には1987年、1988年、1990年にも訪れています。
 これからはその時の写真の中から、何枚かをご覧頂きます。

《1987年》
 11月22日に訪れましたが、この時は確か早朝に来て1往復して終わっただけのはずです。
 なので、あまりきちんと見ていただける画像がありません。

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 改装前の五泉駅駅舎。

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 五泉駅ホーム。
 停車しているのはモハ61です。

 ローカル私鉄ではよくあった事ですが、期限が切れた記念乗車券を、使用できない事を断った上で継続して発売する場合がありました。
 私が訪れた時の蒲原鉄道でも、期限が切れた2種類の記念乗車券を発売していました。

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村松駅改築記念乗車券
 3枚セットの内の1枚で、旧駅舎。
 うわー、いい駅舎だなあ。
 後の2枚はモハ41(「善作前附近」と書いてあるけれど、そういう駅はなかったので、地区の名前なのでしょう。)と、村松駅新駅舎の完成想像イラスト。

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村松~加茂 廃止記念乗車券
 これも3枚セットで、後の2枚は高松付近を走るモハ41と、東加茂駅。

《1988年》
 翌9月22日にも訪問。
 電車やバスに乗った他、廃線の跡(といっても村松付近のみ)も見ています。
 その中から1枚。

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 西村松駅のホームの跡。
 この当時はまだ原型を留めたまま、その姿を残していました。

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 近くの公園には、モハ11が保存されていました。
 村松~加茂廃線まで使用されていたそうです。

 この時の訪問は、ひょっとしたら電車よりもバスの方が目当てだったかも。
 何しろ、日産ディーゼルの2サイクル、4R94が相当数残っていたのですから。

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 鉄道の駅の裏にはバスの車庫がありました。
 車庫の外の公道から撮影したものです。
 4R94の他、神奈中から来たいすゞ(北村ボディ)の姿も見えます。

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 4R94に乗って着いた、刈羽のバス停。
 刈羽は、循環系統の中間に位置するバス停です。

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 村松駅に発着するバスの時刻表。
 ローカル路線ばかりでしたが、当時はまだそれなりの本数が運行されていました。

《1990年》
 ゴメンナサイ。1月の事なのですが、具体的な日にちは不明です。
(1月25日だったと思いますが…。)

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 運が良かった、という事なのか、除雪で出動したED1を見る事ができました。

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 この当時のモハ31は「お魚電車」と称して、全体が魚のイラストでペインティングされていました。

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 加茂側の東加茂駅舎。
 村松からのバスを利用したのではなく、JRに乗り、加茂で途中下車して見に行ったはずです。
 これもまたいい駅舎ですねえ。
 鉄道廃止後は旅行代理店として利用されていたようです。


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創立70周年記念乗車券
 この後も蒲原鉄道は数回訪れているはずなのですが、きちんとメモを取っていないので、具体的にいつ来たかというのはちょっと思い出せなくなっています。
 申し訳ありません。
 1992年9月の70周年記念乗車券は5枚セット。
(ただし1枚は1923年(大正12年)の乗車券を模したダミーで使用不可。)

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 写真の乗車券の裏面には、廃止区間も含めた電車・バスの簡単な路線図が記されていました。

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電車線廃止記念乗車券
 最後の記念乗車券。
 これも5枚セットでした。

 蒲原鉄道の電車が廃止になって、ちょうど10年が経ちました。
 会社そのものはバス会社として残っていて、社名もそのままです。
 ただ、村松~新潟高速バスと貸切バスのみ直営で、ローカル路線はすべて蒲鉄小型バスに移管。
 その蒲鉄小型バスもこの10年で急激に路線を減らし、今年の9月一杯で加茂への路線が廃止になったそうです。
 鉄道の代替バスだったはずですが、これで加茂市内からは完全に撤退です。
(代わりに村松町地域は五泉市コミュニティバス、加茂市内は加茂市営市民バスが運行され、後者は村松への路線も運行。)
 上に上げた刈羽への路線も、現在は五泉市コミュニティバスによる運行だそうです。
 鉄道廃止以降、この地域を訪れた事は残念ながらないのですが、このままだと残された蒲鉄小型バスもいつまで運行が維持できるかわかりません。
 せめて、残存2路線の運行が残っている間に、もう一度訪れる機会を作れれば、と考えています。

 今日の記事は、
「鉄道廃線跡を歩く Ⅱ・Ⅸ」(宮脇俊三編著・JTBキャンブックス)
「ローカル私鉄車両20年・東日本編」(寺田裕一・JTBキャンブックス)
「鉄道ピクトリアル1998年4月増刊号 甲信越・東海地方のローカル私鉄」(鉄道図書刊行会)
を参考にさせて頂きました。


 申し訳ありませんが、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
 また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。(名前は公表しません。)