№27 「BUS JAPAN バス・ジャパン」 8

 イチロー選手、9年連続200本安打、おめでとうございます!!
 かなり先の話のはずだけど、引退する時には「国民栄誉賞」受賞間違いなしだな…。

 おっと、バスとは全然違う話から始まってしまいました。
 でも、イチロー選手とバス(路線バスでも選手送迎バスでも何でもいいから)に何か関わる話があったら、聞いてみたい気がしますね。

 「BUS JAPAN バス・ジャパン」の連載を続けます。
 №11「常磐高速バス」(昭和64年1月1日発行)※発行年にご注意を。誤植ではありません。
 常磐道を走る高速バスは1987年4月1日、JR東日本(この日はちょうど国鉄から民営化された初日)と関東鉄道によって、東京駅~つくばセンター間が運行を開始、以降水戸線・日立線と開通が相次ぎ、この号が発行される直前には、東京駅~平駅(いわき駅)がJRバス関東・東武鉄道・常磐自動車交通が、わずか3往復ではありますが運行を開始しました。
 種村直樹氏のルポ「常磐高速バス<いわき号>VSJRエル特急<ひたち号> 東京~平間乗比べ」は、運行開始6日後の<いわき号>と、当時は485系onlyだった<ひたち号>を乗り比べています。
 <いわき号>(当時の東武鉄道車)では、(ヘビースモーカーの)種村氏が車内放送で「全面禁煙」と聞いて驚いたというくだりがあり、時代を感じさせます。今はたぶん、高速バスも全面禁煙だと思うので。
 あと、料金所で運転手が貸切料金を請求され、路線バスだと主張する場面も。
 確かにあの頃、高速バスが新設ラッシュを迎えるにつれ、各地の料金所でもめるケースが多かったと、ニュースや新聞でも伝えられていたと思います。
 一方の<ひたち号>は、当時としても485系の老朽化がかなり進んでいたようで、貫通路の扉が開かなくなるトラブルも発生したとか。
 常磐線では1989年3月のダイヤ改正で651系「スーパーひたち」(本文中では「スーパーエクスプレスひたち」と呼称)がデビューする事になっていて、「JR東日本在来線昼行特急のスーパースターに育てて欲しい」と結んでいます。

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 ここで私も一枚。
 常磐交通自動車(現新常磐交通自動車)の「いわき」号。
 ネオプランN116-2。
 貸切からの転用とはいえ、外国車による高速バスは当時としては珍しいでしょう。
 東京駅八重洲口での撮影で、後方のJRバスや都営バスも懐かしいです。
 JRバス関東の営業部による「常磐高速バスの誕生から今日まで」に続いて、鈴木文彦氏の「常磐高速バスの課題。」
 どちらも揃って、上り便(東京行)の慢性的な大幅遅延が課題だと指摘しています。
 「つくば」号の上りでは下りに比べて20分の余裕を持たせているのに、鈴木氏は70分の遅れも経験していると記しています。
 つまりつくば→東京で2時間30分もかかっているのです。
 本文中でもいくつか解決策を提示していましたが、結局この後上り便のみ上野駅経由(平日・土曜のみ)に変更し、「いわき」号以外の他の常磐高速バスも続く事になります。
 「BUS BODY WATCHING」は関東鉄道。
 当時はいすず・日野・三菱ふそうのみでした。
(刊行直後より日産ディーゼルも導入が始まる。)

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 ここでも一枚。
 貸切車ながらつくば線の運用に入っていた、1424号車、三菱ふそうP-MS729SA。

 特集の後は、「通勤・通学バス 新時代」のタイトルで、「ユニークな」通勤・通学バス4例を挙げています。
 この中に、大阪・千里山バスによる「通勤BUS ビジネス英会話スクール」というのがあります。
 要は、新御堂筋の朝方の渋滞が激しいのを利用して、通勤途上の車内で英会話教室を行なうという会員制バス。
 でも、出勤前でも英会話の勉強ですか…。
 ビジネスマンも辛いですね。
 私だったら、電車でもバスでも、通勤時間に万が一座れたら、目的地までひたすら居眠りですけれどね。
 今も走っているのかなあ。
 他には、これは今も走っている両備バスの岡山~玉野デラックス特急バスも。
 当時はマッサージシートもあったそうです。
 その後、「新呉羽自工見学記」と題して、富山にある新呉羽(三菱車体)の工場見学があり、合わせてデビューしたばかりの「エアロクィーンM」(通称:「パンダ」と呼ばれているモデル)の試乗記も書かれていました。
 「BJファン」のコーナーには、当時まだ残っていた都営バスのツーマンバスについての投稿が写真付でありました。
 五角形の「後のり ツーマンカー」のマークをフロントに掲げて走っています。
 「シリーズ終点」は、祐徳バスの「祐徳神社前」(佐賀県鹿島市)。

 №12「ダブルデッカー’89」(平成元年4月1日発行)
 消費税の導入により、この号は定価が910円になりました。
 まずは日本各地で路線バスとして乗れるダブルデッカーを集めた、「2階建て路線バス大集合」。
 といっても大半は定期観光バスで、今は事業自体がなくなった名古屋遊覧バスや、大阪市営バスもあります。
 種村直樹氏のルポは「ダブルデッカー<スワン>を楽しむ」
 乗車した日は、前号の「<いわき>号VS<ひたち>号」と同じ日だったそうです。(だから「ひたち」は夜だったのか。)
 続いて「2階建てバス 登場から現在まで」、その後は座談会「ダブルデッカーを考える」。
 参加した鈴木文彦氏は、既にこの時点で、「ダブルデッカーは長距離夜行路線に使って欲しい」と提案しています。
 この場合、1階部分はフリースペースにして欲しいという事を話されています。
 参加者が口をそろえて言っているのは、やはりダブルデッカーはワンマン運転が認可にならないと…という点。
 多少脱線しますが、私はむしろ、ロンドンや香港の如く、市街地の一般路線バスでダブルデッカーが走ればいいのではないかと考えています。
 道路事情があまり良くない(連接バスや「メガライナー」的な車両が合わない)日本で、バリアフリーと着席定員の確保を両立させるための方策として。
 この辺は機会があったら書きたいと思います。
 「バス・ジャパン」でも「“アステローペ”バスツアーに参加して」と題して、アステローペの試乗会のルポが掲載されています。
 日本バス友の会のツアーで、ここでははとバスを利用して、上毛電鉄が運行していたボンネットバスに乗りにいくというもの。
(私はこれとは別に、九段書房「モータービーグル」主催のアステローペ試乗会に参加しています。それについてはこちらをご覧下さい。)
 「BUS BODY WATCHING」は、初めて貸切専業事業者となり、大阪の中央観光バスと、東京の日の丸自動車興業を取り上げています。
 中央観光バスでは、今では日本では走っていない(はずの)ボーバーのバスもあります。

 特集の後は、「さようなら倉敷市営バス」と題し、1989年3月一杯で廃止になった、倉敷市交通局を取り上げ、走行風景(場所柄工業地帯が多いが、「呼松」は多少ローカル色も)の後、最後まで走り抜いた44台のデータを、写真とともに掲げています。
 末期には京阪バスからの購入車もあったようです。
 廃止後、一部の車両は両備バス・下津井電鉄等に譲渡されました。

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 画像は1991年に倉敷駅前で撮影した、旧倉敷市営の下津井電鉄A-601(市営時代29)です。
 既に1986円11月一杯で浜松市営バスが廃止されており(なぜか「バス・ジャパン」にはなかったな。)この頃から各地の公営バスは、どこも運営難に苦しんでいたようです。
 「シリーズ終点」は、富山地方鉄道の「小川元湯」(富山県朝日町)。

 そして…。

 加藤佳一編集長からの「お知らせ」として、ついに「バス・ジャパン」は次号から年刊化される旨の発表がありました。
 理由は№8で示されたとおりです。
 そして、次号(1990年4月刊行としている。)の編集が既に始まっている事、他に単行本の企画がある事、さらに読者の情報交換の場として「乗合倶楽部」を結成し、部報を発行するという事でした。
 私も「乗合倶楽部」に入ったのですが、結局部報は1号しか出ませんでした…。
 (その代わり、3,000円とされた部費は無料になったはずです。)

 年刊の「バス・ジャパン」はこの後3号発行される事になりますが、これについては次回(最終回)で取り上げる事にします。

 申し訳ありませんが、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
 また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。(名前は公表しません。)