連載を再開します。
1988年は「レールが結ぶ、一本列島」のキャッチフレーズの元、3月13日に青函トンネル・4月10日に瀬戸大橋と開通が相次ぎ、本州と北海道・四国が陸路で結ばれる事になります。
もちろんそれはバス業界にも影響を与える事になり、「バス・ジャパン」は3号連続でその関連の特集になりました。
№8「津軽海峡バス紀行(昭和63年4月1日発行)
まずは青函トンネルが開通する直前の津軽海峡。
(もちろん、青函トンネルはバスは走らないのですが。)
個人的には、「バス・ジャパン」全15号の中で、この号が一番好きかも知れない。
両親が青森出身という事もあるでしょうか。
種村直樹氏の「津軽海峡バス景色」は北海道の松前から、途中フェリーを挟んで青森県の竜飛までをバスで乗り継ぐという紀行。
やはり種村氏は、鉄道にしろバスにしろ、ローカル線を書くのが一番合っているようです。
当初の構想は脇野沢~蟹田間をフェリーでつなぐつもりが、冬場は運休なので残念だったと記されていますが、いや全然、こちらのルート(青森市内経由)の方がいいです。
種村氏をはじめ取材スタッフ一同は悪戦苦闘気味だったようだけれど、やはり津軽海峡を巡る旅は、寂寥感が一番出る冬が最もふさわしいと思います。
「津軽海峡冬景色」の大ヒットも、冬だったからだと思いますし。
それに、今は規模を大幅に縮小させた、青森市営バスの、「市営バス」らしからぬローカルぶりも存分に出ています。
何しろ当時は青森市内を抜けて津軽半島の東側を走り、竜飛まで路線がつながっていたのですから。
(裏表紙にも津軽海峡を隔てて下北半島を望みながら、当時の平館村を青森へ向かう市営バスの姿が写っています。いい写真です。)
「BUS BODY WATCHING」は、「さいはての三菱博物館」というタイトルで、下北交通。
当時は全て三菱ふそうで、1969年式B805Lを筆頭に、貸切タイプの長距離路線車が続々登場します。
年式はともかく、こんな車両で長距離のバス旅ができたらいいですね。
とか思いながらもやはりこの界隈も現実は厳しく、かつては女性車掌も乗務していたという青森~むつ間の特急便も、いまや中型車で2往復だけですし、蟹田町・平舘村・三厩村は2005年に合併して外ヶ浜町になり、青森市営バス撤退後の竜飛へは町営バスが運行されています。
また、フェリーも東日本フェリーは廃業してしまい、廃止も取りざたされた大間航路は、津軽海峡フェリーに(東日本フェリーから引継ぎの「ばあゆ」)よって何とか存続しています。
(野辺地航路はかなり昔に廃止になったようです。)
第2特集は「深夜バス」。
「シリーズ終点」は、羽後交通の乳頭温泉(秋田県田沢湖町)。
ところで、この号の「バスルーム」では、加藤佳一編集長より、「年刊化見送り」のお知らせが発表されました。
それによると、
(1) バスファンそのものがまだ絶対的に少なく、発行部数は伸び悩みの傾向
(2) コストダウンは内容の低下を招き、といって値上げも他の業界誌と比較して不可能
(3) 編集長以下、スタッフの全員が他社の編集業務を掛け持ちしていて、当誌の編集業務は限界に達しており、その結果発売の遅延の常態化を招いている
という理由で年刊化を検討したが、読者からの励ましに応え、あと「1年」は季刊で行く事に決定した、という事でした。
私は、前号の年刊化のお知らせを見て多少ショックだったので、この一文にとりあえず安堵はしました。
と同時に、「やはりバス趣味はまだまだなのかなあ。」とかも勝手に思ったりしたものでした。
№9「本四架橋と路線バス」(昭和63年7月1日発行)
瀬戸大橋開通後の刊行であり、2号連続で瀬戸内海のバスが特集されます。
まずは「瀬戸大橋高速バススタート!」と題して、岡山・倉敷~高松・琴平間で運行を開始した高速バスのルポ。
開通二日目に岡山(天満屋バスターミナル)→高松(琴電瓦町)間を運行する両備バスに乗車しています。
このバスは両備バス・下津井電鉄・瀬戸大橋高速バス・西日本JRバス・JR四国の5社で共同運行していて、運用ダイヤも公表されています。
しかし、鉄道の快速「マリンライナー」が30分間隔にまで増発されるとやはり競争力を失ってしまい、琴平便のレオマワールドへの乗り入れなどのてこ入れも計られましたが、1993年には全面的に廃止になってしまいました。
私もいつぞや高松→岡山便で乗った事がありましたが、利用は終始芳しい物ではありませんでした。
種村直樹氏のルポは、今回は前後編で「本四連絡橋バス紀行」。
後に全通する神戸・鳴門ルート、尾道・今治ルートも含め、明石から今治までフェリーも交え、本州と四国を行ったりきたりするというもの。
前編は新倉敷まで。
そして、第2特集として、「JRバス 新たなる旅立ち」。
この都市の4月、暫定的に旅客鉄道が兼営していた本州のJRバスが分社した事で、当面旅客鉄道直営の3島も含めた簡潔な路線図と、各自動車営業所及び支所・派出所の車両の社号・形式が掲載されています。
うわ、信じられない!
国鉄時代末期に相当整理されたとはいえ、この時点ではまだこんなにJRバスの路線が残されていたのですね!
「BUS BODY WATCHING」は本四架橋+JRバスと言う事か、JR四国(当時は四国旅客鉄道)。
道路事情が良くないという事で、全国でも珍しい「2型」が存在しているというのが、JR四国の特徴でした。
貸切車もショート尺が中心。(前出の瀬戸大橋高速バスも、JR四国は貸切転用のショート尺でした。)
ここで私も一枚。
翌1989年の1月16日、宇和島駅前での撮影。
伊予日吉(支)所属の〔331-3473〕(いすずK-CDM410)です。
現在のJR四国バス一般路線は、松山高知急行線のローカル便(松山~落出間)と、大栃線(土佐山田~大栃間)のみです。
JR四国バスはまだいいですが、JR東海バスは今月一杯で、一般路線が全面的に廃線になってしまいます…。
「シリーズ終点」はご存知、東京ディズニーランド(千葉県浦安市)。
№10「島のバス・瀬戸内海編」(昭和63年10月1日発行)
「オリーブの島の定観バス」と題した、小豆島の定期観光バスのルポの後は、「島のバス・瀬戸内海編」として、瀬戸内海に数多く浮かぶ島々を走る路線バス事業者を全て取り上げています。
小豆島や因島、大三島といった大きな所はまだしも、小島ではさすがに民営事業者では成立たない所も多いようで、地元の自治体、しかも「環境事業課」「振興課」「総務課」「管財課」とか、あまりバスとは結び付けて考えられないような部署が運行している所が多くなっています。(当然大半は特例適用の白ナンバー)
裏表紙の呉市営バスの写真がなかなかいい雰囲気です。
なお、厳島神社で有名な宮島にも当時、広島電鉄による路線がありましたが、この号では欠落していました。12号で補完されていますが、現在は「メープルライナー」と呼ばれる、宮島交通が運行する乗合タクシーになっているそうです。
種村直樹氏の「本四連絡橋バス紀行」は後編で、新倉敷から今治まで。
「BUS BODY WATCHING」は、本四バス(現本四バス開発)と、瀬戸内海交通。
特集がらみですね。
「快走!!東京←直行→徳島 帰省バス」は、現在の夜行定期高速バス「エディ」号の前身の帰省バス。
帰省バスといっても、当時の京浜急行電鉄と徳島バスの共同運行で、高速バス並みの運行体制を確保したものになっていました。
明石海峡大橋の開通の前なので、須磨~大磯間がフェリー航送になっていたのが特徴で、定期化後も橋の開通まではこの形態が続きました。
この時はトイレがない55人乗りハイデッカーを使用していたそうなので、夜行ではなかなか大変そうですね。
帰省バス「エディ」号は、その年の暮れにも設定・運行されました。
これは、1989年1月18日、場所は忘れたけれど徳島県のどこかで撮影した、乗客募集のポスターです。
すでに運行は終了していましたが、ポスターはまだ残っていました。
この時は車両がグレードアップしたようで、38人限定とされていました。
ちなみに運行最終日の1月7日は、「昭和」が終わった日でもあります。
最終便は「昭和」~「平成」にまたがって運行されたのですね。
「バストピ」は相変わらず高速バス開業ラッシュ。
そしてその中の、東京~盛岡線の、当時設定されていた昼行便の乗車ルポもあります。
所要7時間30分、547㎞は、昼行便では当時最長だったそうです。
実は、「つぎとまります!」のコーナーでなんと!私が投稿したバスの写真があるんです。
札幌市営バスの琴似〔営〕(現在はジェイ・アール北海道バスの営業所)内で許可を得て撮影した、いすずK-CJM520・〔琴い83-30〕です。
投稿してしまったので写真の現物がなくてお見せできないのがなんとも申し訳ないのですが、それまでのモノコックボディの全高を上げ、フロントの形状も多少変わったスタイルになっています。
これ、次の11号の中の「BJファン」のコーナーで、読者の方に御教示頂きました。
つまりLV系(「キュービック」)に移行する前の試作ボディという事らしいです。
御教示くださった方を初め、関係者の皆様、ありがとうございました。
「シリーズ終点」は、琴平参宮電鉄の生里(香川県詫間町(現三豊市))。
今回はここまでにしたいと思います。
申し訳ありませんが、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。(名前は公表しません。)