№19 「BUS JAPAN バス・ジャパン」 2

 「BUS JAPAN バス・ジャパン」創刊号について、続きです。記事の内容を振り返っています。

 レイルウェイ・ライター・種村直樹氏による「都心を貫く〔銀71〕系統」。
 種村氏は前の年、国鉄の鉄道・連絡線に国鉄バスをも交えた最長片道切符の旅を敢行しており(「鉄道ジャーナル」誌に連載の後、1987年に単行本化)、これをきっかけに、鉄道に加えてバスの旅にも傾倒するようになったようです。
 このルポは、当時の〔銀71〕系統の運転手に同乗し、杉並車庫の出庫から晴海埠頭まで走って、最後に杉並車庫に入庫するまでの運用を追うというものでした。
 まだ晴海に見本市会場があった頃の話です。
 取材日の1986年5月8日は、2日前に東京サミットが終了し、交通規制が解除された日と書かれていますが、実際には特に麹町二丁目~日比谷の渋滞が激しく、運用に相当の乱れが発生したと記されています。
 種村氏が晴海埠頭の操車場の事務室で運行表示装置を眺めていた時には、この区間は通常9分が43分も掛かってしまっていると指導食が苦虫をかむつぶしていると書かれています。
 通常の5倍ですか!
 それで、別の運転手は食事休憩がなくなりそうだとか、さらに別の運転手は朝6時から乗っているとボヤいているのに、夕方1往復残業だとか、かなりひどい有様になっていました。
 種村氏が同乗していた運転手は、特別に東京駅南口行に入る事になり(「東京返し」と呼称していたそうです。)、同乗ルポも書かれています。
 種村氏は最後に、「すぐに改善できるのは接客サービスで、模範運転手の○○さん(同乗していた運転手の名前)のいくらかでも誠意を持てば都バスも変わるだろう。」と結んでいます。
 確かにそれは正論ですし、何も都バスだけではないのですが、一方、こんな酷い渋滞が繰り返されて休憩時間の確保もままならないのでは、運転手だって疲れでそこまで頭が回らなくなるでしょう。
 運転手自身のレベルアップも必要ですが、それが可能になるような、運行条件の改善も並行して求められます。

 それから、四谷でバス停に堂々と乗用車が停まっていて、近くの機動隊員が知らんぷりなのは困った事だという記述もあります。
 しかし、今回改めて読み直してアレッと思いました。
 東京サミットは2日前に終了、他国の首脳は前日までには帰国の途についたはずで(だから交通規制も解除されたのだろうし)、なぜ機動隊員が残っていたのだろう?
 実は、記事では全く触れられていませんが、この5月8日は英国のチャールズ皇太子とダイアナ妃が来日、大阪空港に到着した日らしいです。翌日には東京を訪問していたので、そのためだったのではないでしょうか。

 なお、〔銀71〕は1988年の営団地下鉄有楽町線の新木場延伸に伴う再編成の際、都市新バス3号路線〔都03〕となりました。
 〔銀16〕改め〔都04〕(江東〔営〕)、先述の「東京返し」が独立した〔都05〕(深川〔営〕持ちになりました。)と共に「グリーン・アローズ」を名乗っています。
 しかし、2000年の都営地下鉄大江戸線全通時の再編成では、〔都03〕は新宿駅西口~四谷駅が廃止となってしまいました。
(この時に〔都04〕も含めて深川〔営〕担当に変更され、専用車も多数異動。)
 現在では〔都05〕が中心になり、〔都03〕は1時間に1本程度の運行に削減されています
 その分、先の区間の渋滞に悩まされる、という事は少なくなっているでしょうが。
 それと、本文に「バラックのような小屋」と記されている晴海操車場は、客船ターミナルの新築に合わせてリニューアルされました。
 この点は種村氏自身、後の「バスジャパン・ハンドブックシリーズ1」で触れています。

 そして最大の見ものは、今の「ハンドブック・シリーズ」にも繋がる「東京都交通局現有車両カタログ」です。
 私も、コレがあったからこそ、速攻で買ったのかも。
 創刊号では一般乗合車に絞り、貸切車やスクールバス等は2号に譲っています。
 当時の都営バスはいすず・日産ディーゼル・日野・三菱ふそうの4車種を平等に購入していた上、さらにいすずは川崎重工と富士重工、三菱ふそうは三菱と呉羽のボディを並行して導入していました。
 そこで、この号では、それぞれのグループに分けて解説をしています。
 (三菱ふそうは三菱と呉羽を並行して取り上げています。)
 創刊号の時点では1986年のP代車が最新で、一方では1972年のZ車が最古参になっていました。
 Z車はリア窓の下部の小型の区間表示、通称「弁当箱」が残っていました。
 日野・三菱ふそうはB代前期まで「バス窓」です。
 カラーは「白地+青帯」「黄地+赤帯」「白+緑+グレー」の3パターンが並行して存在していました。
 非冷房車も相当残っています。
 車両そのものだけでなく、今は見られない系統・行先も多数見られるのが興味深い所です。

 それと、「エアロスターK」がないですね。
 1985年販売開始ですから、当然当時の都営バスにもあるべきだと思ったのですが。
 推測ですが、「グリーン・シャトル」専用車として、呉羽ボディ車が一挙に33台も入ったので、その反動かと思われます。
 「エアロスターK」の最古参は1987年式(R代車)でした。

 ちなみに、当時は他の公営の例に倣い、営業所によって配置される車両のメーカー(いすず・三菱ふそうはボディも)が原則的に決まっていました。
 品川(A)=日野、渋谷(B)=三菱ふそう+呉羽、新宿(C)*1=いすず+川重、杉並(D)*1=日野、小滝橋(E)=いすず+川重、練馬(F)=日産ディーゼル、大塚(G)*1=いすず+川重、千住(H)=三菱ふそう+三菱、南千住(K)=三菱ふそう+三菱、江東(L)=日産ディーゼル、目黒(M)*2=日野、北(N)=日産ディーゼル、巣鴨(P)=いすず+富士重、江戸川(R)*3=いすず+川重、深川(S)=いすず+富士重、早稲田(T)=三菱ふそう+呉羽、今井〔支〕(U)*3=日産ディーゼル、葛西(V)*4=日野、青梅〔支〕(W)=日野、八王子〔支〕(X)*5=いすず+川重、青戸〔支〕(Z)=三菱ふそう+三菱
 北〔営〕は滝野川〔営〕・昭和町〔営〕(共にいすず)と志村〔営〕(日産ディーゼル)が統合してできた営業所のため、いすず+富士重車も配置されてはいるが、日産ディーゼル車に統一されつつある途中だという事でした。
*1…現在は支所に格下げ
*2…現在は廃止
*3…現在は統合し、臨海営業所(R)
*4…現在は江戸川営業所(V)
*5…〔立73〕系統(立川駅~八王子駅間)を運行していたが、創刊号発刊直前に廃線になり、スクールバスのみを担当していた 現在は廃止


 最後に、都営バス主要設備年次表、そして、前述したZ代車を回想する「嗚呼Z車」で、都営バスの特集は終わりになります。

 この後も記事がいくつかあったのですが、長くなってしまったので、今回はここまでにします。
 終わりに、いつの時代も都営バスに大きな影響を与える、地下鉄(営団及び都営)の、1986年当時の状況を記しておきます。
 太字は、まだ全通していない路線です。

 営団〕
 銀座線=渋谷~上野
 丸ノ内線=荻窪~池袋・方南町~中野坂上
 東西線=中野~西船橋
 千代田線=代々木上原~北綾瀬
 有楽町線=営団成増~新富町
 半蔵門線=渋谷~半増門

 〔都営〕
 浅草線=西馬込~押上
 三田線=三田~西高島平
 新宿線=新宿~船堀(9月14日に船堀~篠崎が開通)

 申し訳ありませんが、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
 また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。(名前は公表しません。)