№28 「BUS JAPAN バス・ジャパン」 9(最終回)

 「バス・ジャパン」の№12~15は、年刊で発行されました。
 私自身が撮影した写真も交えて振り返ってみたいと思います。
 なお、なにぶんにも20年位前の書籍の事ですから、連載を通じて思い違いをしている部分もあると思います。
 予めご了承下さい。

 №13「昭和の名車たち」(平成2年6月1日発行)
 定価1,500円(本体1,456円)。
 冒頭で「がんばれ!オールドタイマー」と題して、全国に残る「名車」の乗車ルポ。
 続いて「心に残る昭和の名車・15選」。
 私自身も、「心に残る名車」かどうかはわからないのですが、数枚公開してみたいと思います。

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 盛岡バスセンターで撮影したいすずBU20KPです。(撮影年不詳)
 そのユーモラスなフロントマスクで「オバQ」の愛称がありました。
 一台が日本バス友の会で保存されています。

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 蒲原鉄道の日産ディーゼル4R95(推測)で、当時の鉄道の車庫に隣接するバスの車庫で、職員の御協力で撮影していただきました。

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 1985年、初めて行った北海道の名寄で撮影した日野RB系。
 さすがに「まだこんな車が走っているのか!?」と思ったものです。

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 こちらは確か1987年に長野原駅(長野原草津口駅)で撮影した日野RV系です。

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 草津駅前で撮影した滋賀交通のMR。
 撮影年不詳ですが、当時の滋賀交通は結構こういう感じの古い車が多かったような気がします。

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 これも1985年に国鉄釧網線の斜里駅(知床斜里駅)前で撮影した斜里バスのB9系。

 「BUS BODY WATCHING」はまずは昭和自動車。
 「オバQ」を初め、昭和40年代後半の車両が相当数残っていました。

 第2特集で奈良交通を取り上げています。
 「奈良交通のあゆみ」に続いて、「パノラマ定観 奈良公園名所「A1」コースに乗る」と題し、天窓が設けられたパノラマカー使用の定期観光バスの乗車記があります。
 実は、この車両には私も乗車した事がありました。

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 1990年3月7日、「早朝の奈良公園名所」コースに乗車した時の撮影です。
 「奈22か1100」、P-HU276BA。

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 そして「BUS BODY WATCHING」。
 今にして思えば、この構成は後の「ハンドブックシリーズ」につながっているように思えます。

 特集の後は「1989年のバス業界」と題して、この一年間の業界の動きを振り返っています。
 やはり高速バス関連に大半が割かれ、特に夜行でダブルトラッキングが大きくなったとしています。
 また、深夜急行バスの運行開始、車両のグレードアップについても触れられています。
 その関連か、続いて「深夜急行バス体験記」として、国際興業の池袋→大宮線乗車ルポ。
 「駅に着いて、それからの足が課題」としています。
 最後に、種村直樹氏のルポ「シリーズ フリーきっぷの旅① 伊東観光フリーパスの旅」。

№14「長距離ローカルバスの旅」(平成3年6月1日発行)
 表紙は東海自動車の沼津~土肥・松崎線・特急「スーパーロマンス」号で、このバスは、1991年に運行を開始した小田急・JR東海相互直通の特急あさぎりに合わせ、フロントと公式側は小田急(20000系〔RSE〕)、リアと非公式側はJR東海(371系)のカラーに塗られていました。
(現在は名前もなくなり、カラーも小田急グループ統一色に変更)
 冒頭に「名金線に花咲くころ」と題し、荘川桜の下や白川郷を走るJR東海バス(一部岐阜バス)の写真が並んでいます。
 カラーでないのがなんとも残念。
 ここからJRバスの姿が消えて、早7年になります。
 特集ではまず、羽幌線転換バス(旭川~幌延)、特急「ありあけ号」(長崎~熊本、全線一般道で途中フェリーを利用)、東武鉄道の水上~鬼怒川温泉特急バスの乗車記。
 続いて、その他の長距離ローカルバス30路線の紹介。
 大半は乗客が減少するとか、高速道路の開通で高速バスに立て替えられるとかで、廃止になってしまっています。
 「BUS BODY WATCHING」は、ついに今月一杯で一般路線が全線廃止になるジェイアール東海バス。
 モノコックも多かったし、瀬戸では大学のスクールバスも受託していたのですね。
 (現在は大学の自主運行の模様。)
 第2特集はヤサカ観光バスグループ。
 「ヤサカ観光バスグループのあゆみ」の後、「バス・ジャパン・ツアー」として、東京ヤサカ観光の“サンシャイン32”(スーパークルーザー)に乗って、この連載の第4回で取り上げた千曲バスの旧型車やボンネットバスを見に行く、というツアーの乗車記。
 1991年の時点でも、あの2形式がまだ残っていたんですね!
 「BUS BODY WATCHING」は、ヤサカ観光バスを京都・大阪・東京(+滋賀ヤサカ自動車)で分けて紹介しています。

 特集の後は「1990年のバス業界」と題して、この一年間の業界の動きを振り返っています。
 やはり高速バス関連に大半が割かれていますが、そろそろ路線によっては明暗も分かれてきたようです。
 その他には地方路線の分社化、平成元年規制対応など。
 そして、「超長距離バスの居住性」と題し、鈴木文彦氏が名古屋~鹿児島線「錦江湾」号(現在は廃止)に乗車して、長距離バスのあり方について提言しています。
 なお、「BREAK TIME」のコーナーで、「バスラマ・インターナショナル」(ぽると出版)の創刊が告知されています。
 最後に、種村直樹氏のルポ「シリーズ フリーきっぷの旅② 淡路島フリークーポン券の旅」。

№15「全国定期観光バスめぐり」(平成4年7月1日発行)
 まず春夏秋冬各1コースずつを選んだ乗車記。
 続いて定期観光バスのあり方を考える座談会。
 そして、1992年当時の定期観光バス全てのコースの紹介があります。
 現在は廃止になってしまった場所が相当ありますね。
 私が一番最初に乗った定期観光バスは、中学生の時の千葉交通の「銚子磯めぐり」でした。
 確かヒゲタ醤油の工場を見学して、醤油1瓶をお土産としてもらい、「地球の丸く見える丘展望台」などを回ったものです。
 当時は夏期2便、冬季1便運行でしたが、乗客が減っていったのか、だんだん運行が縮小され、千葉交タクシー移管の後、つい最近廃止されてしまいました。
 翌年に乗った仙台市営も廃止されてしまったし、例えば神奈川県でも京急は廃止、箱根登山バスは現在はわずか1コースです。
 新車両を入れた横浜市営や江ノ電が頑張っている程度でしょうか。
 観光地といえども、マイナーな場所(先ほどの銚子のような)は難しいようです。
 「BUS BODY WATCHING」は京阪バス。
 ボンネットバス1台を保有していましたが、既に休車状態だったようです。

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 ここでも1枚。
 1986年5月2日に京都市の定期観光バス「市内半日コース」に乗車した時の撮影です。
 乗車したのは一番左の車両で、P-HU235BAと思われます。
 あいにくの雨模様でしたが、小粒ながら楽しいツアーでした。
 
 第2特集は常磐交通自動車(新常磐交通自動車)。
 「常磐交通自動車のあゆみ」の後、平営業所の一日を密着リポート。
 その後に「BUS BODY WATCHING」。
 
 特集の後は「1991年のバス業界」と題して、この一年間の業界の動きを振り返っています。
 高速バス関連では、初めて夜行高速バスにダブルデッカー車(東京~山口線「ドリームふくふく」・後にSHD置き換え後、現在は廃止)が投入された事が車両面での特色としています。
 その他には東急電鉄→東急バスの分社を初め、活発化する地域分社、超低床車(まだノンステップとは行かないが)の導入も取り上げられ、東京モーターショーの話題では、1992年発売開始の三菱ふそう・新エアロスターの写真が掲げられています。
 その後にバスツアーの報告。
 最後に、種村直樹氏のルポ「シリーズ フリーきっぷの旅③ あいづフリー一日乗車券の旅」。

 巻末の次号の予告には「ユニークバス大集合」とあり、全国各地のレトロ調バスやボンネットバスを紹介、合わせて東海自動車と北陸鉄道の「BUS BODY WATCHING」を掲載とありました。
 ただし、「発売日未定」。

 結局、この「16号」が発行される事はありませんでした。
 代わりに、特定の事業者の歴史や車両データ等に特化した「バスジャパン・ハンドブックシリーズ」が始まり、第1弾として「東京都交通局」が「平成5年7月20日」に発行される事になりました。
 この辺の経緯はわかりません。
 このシリーズはその後「ニューハンドブックス」「ハンドブックシリーズR」と続き、現在に至る事になります。

 駆け足のつもりが、なんだかダラダラとした連載になってしまいました。
 バス趣味の黎明期の刊行と言う事で、資金面でも大変だったみたいだし(最終15号まで、表紙以外はカラーページが一切なかった)、発売の遅延も相次ぎ、1号1号の製作には相当な困難があったと思われます。
 しかし、一方で一般の人にも読んでもらえそうな情緒的な読み物もあり、読者との交流にかなり力を入れている事も窺え、鉄道に比べたらまだまだマイナーなバス趣味の裾野を、何とか広げようという意図も感じました。
 バス趣味専門誌がなかった時代、バス趣味の新しい世界を与えてくれた「バス・ジャパン」誌には、改めて御礼を申し上げます。
 と同時に、「バスジャパン・ハンドブックシリーズR」の更なる充実を期待したいと思います。
(とりあえず次回刊「阪急バス」に期待。)

 申し訳ありませんが、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
 また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。(名前は公表しません。)

№27 「BUS JAPAN バス・ジャパン」 8

 イチロー選手、9年連続200本安打、おめでとうございます!!
 かなり先の話のはずだけど、引退する時には「国民栄誉賞」受賞間違いなしだな…。

 おっと、バスとは全然違う話から始まってしまいました。
 でも、イチロー選手とバス(路線バスでも選手送迎バスでも何でもいいから)に何か関わる話があったら、聞いてみたい気がしますね。

 「BUS JAPAN バス・ジャパン」の連載を続けます。
 №11「常磐高速バス」(昭和64年1月1日発行)※発行年にご注意を。誤植ではありません。
 常磐道を走る高速バスは1987年4月1日、JR東日本(この日はちょうど国鉄から民営化された初日)と関東鉄道によって、東京駅~つくばセンター間が運行を開始、以降水戸線・日立線と開通が相次ぎ、この号が発行される直前には、東京駅~平駅(いわき駅)がJRバス関東・東武鉄道・常磐自動車交通が、わずか3往復ではありますが運行を開始しました。
 種村直樹氏のルポ「常磐高速バス<いわき号>VSJRエル特急<ひたち号> 東京~平間乗比べ」は、運行開始6日後の<いわき号>と、当時は485系onlyだった<ひたち号>を乗り比べています。
 <いわき号>(当時の東武鉄道車)では、(ヘビースモーカーの)種村氏が車内放送で「全面禁煙」と聞いて驚いたというくだりがあり、時代を感じさせます。今はたぶん、高速バスも全面禁煙だと思うので。
 あと、料金所で運転手が貸切料金を請求され、路線バスだと主張する場面も。
 確かにあの頃、高速バスが新設ラッシュを迎えるにつれ、各地の料金所でもめるケースが多かったと、ニュースや新聞でも伝えられていたと思います。
 一方の<ひたち号>は、当時としても485系の老朽化がかなり進んでいたようで、貫通路の扉が開かなくなるトラブルも発生したとか。
 常磐線では1989年3月のダイヤ改正で651系「スーパーひたち」(本文中では「スーパーエクスプレスひたち」と呼称)がデビューする事になっていて、「JR東日本在来線昼行特急のスーパースターに育てて欲しい」と結んでいます。

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 ここで私も一枚。
 常磐交通自動車(現新常磐交通自動車)の「いわき」号。
 ネオプランN116-2。
 貸切からの転用とはいえ、外国車による高速バスは当時としては珍しいでしょう。
 東京駅八重洲口での撮影で、後方のJRバスや都営バスも懐かしいです。
 JRバス関東の営業部による「常磐高速バスの誕生から今日まで」に続いて、鈴木文彦氏の「常磐高速バスの課題。」
 どちらも揃って、上り便(東京行)の慢性的な大幅遅延が課題だと指摘しています。
 「つくば」号の上りでは下りに比べて20分の余裕を持たせているのに、鈴木氏は70分の遅れも経験していると記しています。
 つまりつくば→東京で2時間30分もかかっているのです。
 本文中でもいくつか解決策を提示していましたが、結局この後上り便のみ上野駅経由(平日・土曜のみ)に変更し、「いわき」号以外の他の常磐高速バスも続く事になります。
 「BUS BODY WATCHING」は関東鉄道。
 当時はいすず・日野・三菱ふそうのみでした。
(刊行直後より日産ディーゼルも導入が始まる。)

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 ここでも一枚。
 貸切車ながらつくば線の運用に入っていた、1424号車、三菱ふそうP-MS729SA。

 特集の後は、「通勤・通学バス 新時代」のタイトルで、「ユニークな」通勤・通学バス4例を挙げています。
 この中に、大阪・千里山バスによる「通勤BUS ビジネス英会話スクール」というのがあります。
 要は、新御堂筋の朝方の渋滞が激しいのを利用して、通勤途上の車内で英会話教室を行なうという会員制バス。
 でも、出勤前でも英会話の勉強ですか…。
 ビジネスマンも辛いですね。
 私だったら、電車でもバスでも、通勤時間に万が一座れたら、目的地までひたすら居眠りですけれどね。
 今も走っているのかなあ。
 他には、これは今も走っている両備バスの岡山~玉野デラックス特急バスも。
 当時はマッサージシートもあったそうです。
 その後、「新呉羽自工見学記」と題して、富山にある新呉羽(三菱車体)の工場見学があり、合わせてデビューしたばかりの「エアロクィーンM」(通称:「パンダ」と呼ばれているモデル)の試乗記も書かれていました。
 「BJファン」のコーナーには、当時まだ残っていた都営バスのツーマンバスについての投稿が写真付でありました。
 五角形の「後のり ツーマンカー」のマークをフロントに掲げて走っています。
 「シリーズ終点」は、祐徳バスの「祐徳神社前」(佐賀県鹿島市)。

 №12「ダブルデッカー’89」(平成元年4月1日発行)
 消費税の導入により、この号は定価が910円になりました。
 まずは日本各地で路線バスとして乗れるダブルデッカーを集めた、「2階建て路線バス大集合」。
 といっても大半は定期観光バスで、今は事業自体がなくなった名古屋遊覧バスや、大阪市営バスもあります。
 種村直樹氏のルポは「ダブルデッカー<スワン>を楽しむ」
 乗車した日は、前号の「<いわき>号VS<ひたち>号」と同じ日だったそうです。(だから「ひたち」は夜だったのか。)
 続いて「2階建てバス 登場から現在まで」、その後は座談会「ダブルデッカーを考える」。
 参加した鈴木文彦氏は、既にこの時点で、「ダブルデッカーは長距離夜行路線に使って欲しい」と提案しています。
 この場合、1階部分はフリースペースにして欲しいという事を話されています。
 参加者が口をそろえて言っているのは、やはりダブルデッカーはワンマン運転が認可にならないと…という点。
 多少脱線しますが、私はむしろ、ロンドンや香港の如く、市街地の一般路線バスでダブルデッカーが走ればいいのではないかと考えています。
 道路事情があまり良くない(連接バスや「メガライナー」的な車両が合わない)日本で、バリアフリーと着席定員の確保を両立させるための方策として。
 この辺は機会があったら書きたいと思います。
 「バス・ジャパン」でも「“アステローペ”バスツアーに参加して」と題して、アステローペの試乗会のルポが掲載されています。
 日本バス友の会のツアーで、ここでははとバスを利用して、上毛電鉄が運行していたボンネットバスに乗りにいくというもの。
(私はこれとは別に、九段書房「モータービーグル」主催のアステローペ試乗会に参加しています。それについてはこちらをご覧下さい。)
 「BUS BODY WATCHING」は、初めて貸切専業事業者となり、大阪の中央観光バスと、東京の日の丸自動車興業を取り上げています。
 中央観光バスでは、今では日本では走っていない(はずの)ボーバーのバスもあります。

 特集の後は、「さようなら倉敷市営バス」と題し、1989年3月一杯で廃止になった、倉敷市交通局を取り上げ、走行風景(場所柄工業地帯が多いが、「呼松」は多少ローカル色も)の後、最後まで走り抜いた44台のデータを、写真とともに掲げています。
 末期には京阪バスからの購入車もあったようです。
 廃止後、一部の車両は両備バス・下津井電鉄等に譲渡されました。

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 画像は1991年に倉敷駅前で撮影した、旧倉敷市営の下津井電鉄A-601(市営時代29)です。
 既に1986円11月一杯で浜松市営バスが廃止されており(なぜか「バス・ジャパン」にはなかったな。)この頃から各地の公営バスは、どこも運営難に苦しんでいたようです。
 「シリーズ終点」は、富山地方鉄道の「小川元湯」(富山県朝日町)。

 そして…。

 加藤佳一編集長からの「お知らせ」として、ついに「バス・ジャパン」は次号から年刊化される旨の発表がありました。
 理由は№8で示されたとおりです。
 そして、次号(1990年4月刊行としている。)の編集が既に始まっている事、他に単行本の企画がある事、さらに読者の情報交換の場として「乗合倶楽部」を結成し、部報を発行するという事でした。
 私も「乗合倶楽部」に入ったのですが、結局部報は1号しか出ませんでした…。
 (その代わり、3,000円とされた部費は無料になったはずです。)

 年刊の「バス・ジャパン」はこの後3号発行される事になりますが、これについては次回(最終回)で取り上げる事にします。

 申し訳ありませんが、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
 また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。(名前は公表しません。)

№26 「BUS JAPAN バス・ジャパン」 7

 連載を再開します。
 1988年は「レールが結ぶ、一本列島」のキャッチフレーズの元、3月13日に青函トンネル・4月10日に瀬戸大橋と開通が相次ぎ、本州と北海道・四国が陸路で結ばれる事になります。
 もちろんそれはバス業界にも影響を与える事になり、「バス・ジャパン」は3号連続でその関連の特集になりました。

 №8「津軽海峡バス紀行(昭和63年4月1日発行)
 まずは青函トンネルが開通する直前の津軽海峡。
 (もちろん、青函トンネルはバスは走らないのですが。)
 個人的には、「バス・ジャパン」全15号の中で、この号が一番好きかも知れない。
 両親が青森出身という事もあるでしょうか。
 種村直樹氏の「津軽海峡バス景色」は北海道の松前から、途中フェリーを挟んで青森県の竜飛までをバスで乗り継ぐという紀行。
 やはり種村氏は、鉄道にしろバスにしろ、ローカル線を書くのが一番合っているようです。
 当初の構想は脇野沢~蟹田間をフェリーでつなぐつもりが、冬場は運休なので残念だったと記されていますが、いや全然、こちらのルート(青森市内経由)の方がいいです。
 種村氏をはじめ取材スタッフ一同は悪戦苦闘気味だったようだけれど、やはり津軽海峡を巡る旅は、寂寥感が一番出る冬が最もふさわしいと思います。
 「津軽海峡冬景色」の大ヒットも、冬だったからだと思いますし。
 それに、今は規模を大幅に縮小させた、青森市営バスの、「市営バス」らしからぬローカルぶりも存分に出ています。
 何しろ当時は青森市内を抜けて津軽半島の東側を走り、竜飛まで路線がつながっていたのですから。
(裏表紙にも津軽海峡を隔てて下北半島を望みながら、当時の平館村を青森へ向かう市営バスの姿が写っています。いい写真です。)
 「BUS BODY WATCHING」は、「さいはての三菱博物館」というタイトルで、下北交通。
 当時は全て三菱ふそうで、1969年式B805Lを筆頭に、貸切タイプの長距離路線車が続々登場します。
 年式はともかく、こんな車両で長距離のバス旅ができたらいいですね。
 とか思いながらもやはりこの界隈も現実は厳しく、かつては女性車掌も乗務していたという青森~むつの特急便も、いまや中型車で2往復だけですし、蟹田町・平舘村・三厩村は2005年に合併して外ヶ浜町になり、青森市営バス撤退後の竜飛へは町営バスが運行されています。
 また、フェリーも東日本フェリーは廃業してしまい、廃止も取りざたされた大間航路は、津軽海峡フェリーに(東日本フェリーから引継ぎの「ばあゆ」)よって何とか存続しています。
(野辺地航路はかなり昔に廃止になったようです。)

 第2特集は「深夜バス」。
 「シリーズ終点」は、羽後交通の乳頭温泉(秋田県田沢湖町)。

 ところで、この号の「バスルーム」では、加藤佳一編集長より、「年刊化見送り」のお知らせが発表されました。
 それによると、
(1) バスファンそのものがまだ絶対的に少なく、発行部数は伸び悩みの傾向
(2) コストダウンは内容の低下を招き、といって値上げも他の業界誌と比較して不可能
(3) 編集長以下、スタッフの全員が他社の編集業務を掛け持ちしていて、当誌の編集業務は限界に達しており、その結果発売の遅延の常態化を招いている
という理由で年刊化を検討したが、読者からの励ましに応え、あと「1年」は季刊で行く事に決定した、という事でした。
 私は、前号の年刊化のお知らせを見て多少ショックだったので、この一文にとりあえず安堵はしました。
 と同時に、「やはりバス趣味はまだまだなのかなあ。」とかも勝手に思ったりしたものでした。

 №9「本四架橋と路線バス」(昭和63年7月1日発行)
 瀬戸大橋開通後の刊行であり、2号連続で瀬戸内海のバスが特集されます。
 まずは「瀬戸大橋高速バススタート!」と題して、岡山・倉敷~高松・琴平間で運行を開始した高速バスのルポ。
 開通二日目に岡山(天満屋バスターミナル)→高松(琴電瓦町)を運行する両備バスに乗車しています。
 このバスは両備バス・下津井電鉄・瀬戸大橋高速バス・西日本JRバス・JR四国の5社で共同運行していて、運用ダイヤも公表されています。
 しかし、鉄道の快速「マリンライナー」が30分間隔にまで増発されるとやはり競争力を失ってしまい、琴平便のレオマワールドへの乗り入れなどのてこ入れも計られましたが、1993年には全面的に廃止になってしまいました。
 私もいつぞや高松→岡山便で乗った事がありましたが、利用は終始芳しい物ではありませんでした。
 種村直樹氏のルポは、今回は前後編で「本四連絡橋バス紀行」。
 後に全通する神戸・鳴門ルート、尾道・今治ルートも含め、明石から今治までフェリーも交え、本州と四国を行ったりきたりするというもの。
 前編は新倉敷まで。

 そして、第2特集として、「JRバス 新たなる旅立ち」。
 この都市の4月、暫定的に旅客鉄道が兼営していた本州のJRバスが分社した事で、当面旅客鉄道直営の3島も含めた簡潔な路線図と、各自動車営業所及び支所・派出所の車両の社号・形式が掲載されています。
 うわ、信じられない!
 国鉄時代末期に相当整理されたとはいえ、この時点ではまだこんなにJRバスの路線が残されていたのですね!
 「BUS BODY WATCHING」は本四架橋+JRバスと言う事か、JR四国(当時は四国旅客鉄道)。
 道路事情が良くないという事で、全国でも珍しい「2型」が存在しているというのが、JR四国の特徴でした。
 貸切車もショート尺が中心。(前出の瀬戸大橋高速バスも、JR四国は貸切転用のショート尺でした。)

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 ここで私も一枚。
 翌1989年の1月16日、宇和島駅前での撮影。
 伊予日吉(支)所属の〔331-3473〕(いすずK-CDM410)です。
 現在のJR四国バス一般路線は、松山高知急行線のローカル便(松山~落出)と、大栃線(土佐山田~大栃)のみです。
 JR四国バスはまだいいですが、JR東海バスは今月一杯で、一般路線が全面的に廃線になってしまいます…。

 「シリーズ終点」はご存知、東京ディズニーランド(千葉県浦安市)。

 №10「島のバス・瀬戸内海編」(昭和63年10月1日発行)
 「オリーブの島の定観バス」と題した、小豆島の定期観光バスのルポの後は、「島のバス・瀬戸内海編」として、瀬戸内海に数多く浮かぶ島々を走る路線バス事業者を全て取り上げています。
 小豆島や因島、大三島といった大きな所はまだしも、小島ではさすがに民営事業者では成立たない所も多いようで、地元の自治体、しかも「環境事業課」「振興課」「総務課」「管財課」とか、あまりバスとは結び付けて考えられないような部署が運行している所が多くなっています。(当然大半は特例適用の白ナンバー)
 裏表紙の呉市営バスの写真がなかなかいい雰囲気です。
 なお、厳島神社で有名な宮島にも当時、広島電鉄による路線がありましたが、この号では欠落していました。12号で補完されていますが、現在は「メープルライナー」と呼ばれる、宮島交通が運行する乗合タクシーになっているそうです。
 種村直樹氏の「本四連絡橋バス紀行」は後編で、新倉敷から今治まで。
 「BUS BODY WATCHING」は、本四バス(本四バス開発)と、瀬戸内海交通。
 特集がらみですね。
 「快走!!東京←直行→徳島 帰省バス」は、現在の夜行定期高速バス「エディ」号の前身の帰省バス。
 帰省バスといっても、当時の京浜急行電鉄と徳島バスの共同運行で、高速バス並みの運行体制を確保したものになっていました。
 明石海峡大橋の開通の前なので、須磨~大磯間がフェリー航送になっていたのが特徴で、定期化後も橋の開通まではこの形態が続きました。
 この時はトイレがない55人乗りハイデッカーを使用していたそうなので、夜行ではなかなか大変そうですね。

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 帰省バス「エディ」号は、その年の暮れにも設定・運行されました。
 これは、1989年1月18日、場所は忘れたけれど徳島県のどこかで撮影した、乗客募集のポスターです。
 すでに運行は終了していましたが、ポスターはまだ残っていました。
 この時は車両がグレードアップしたようで、38人限定とされていました。
 ちなみに運行最終日の1月7日は、「昭和」が終わった日でもあります。
 最終便は「昭和」~「平成」にまたがって運行されたのですね。
 「バストピ」は相変わらず高速バス開業ラッシュ。
 そしてその中の、東京~盛岡線の、当時設定されていた昼行便の乗車ルポもあります。
 所要7時間30分、547㎞は、昼行便では当時最長だったそうです。

 実は、「つぎとまります!」のコーナーでなんと!私が投稿したバスの写真があるんです。
 札幌市営バスの琴似〔営〕(現在はジェイ・アール北海道バスの営業所)内で許可を得て撮影した、いすずK-CJM520・〔琴い83-30〕です。
 投稿してしまったので写真の現物がなくてお見せできないのがなんとも申し訳ないのですが、それまでのモノコックボディの全高を上げ、フロントの形状も多少変わったスタイルになっています。
 これ、次の11号の中の「BJファン」のコーナーで、読者の方に御教示頂きました。
 つまりLV系(「キュービック」)に移行する前の試作ボディという事らしいです。
 御教示くださった方を初め、関係者の皆様、ありがとうございました。
 「シリーズ終点」は、琴平参宮電鉄の生里(香川県詫間町(三豊市))。

 今回はここまでにしたいと思います。

 申し訳ありませんが、コメントは受け付けない事にしています。この記事について何かありましたら、本体の「日本の路線バス・フォトライブラリー」上からメールを下さい。折返し返事をしたいと思います。
 また、何か質問がありましたら、やはり本体上からメールを下さい。解かる範囲でお答えをしたいと思います。質問と答えは当ブログにも掲載します。(名前は公表しません。)